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結婚記念日と離婚ばなし

明日は結婚記念日である。

早いもので、あれから13年。ちょうど婚姻届を出した日から一緒に住み始めて1週間ちょっと経った時に、東日本大震災が起きた。当時鍼灸学校の学生だったわたしは、それから授業も卒業式もろくになくなって、なんだか皆が心許ない感じで散り散りになってしまって、そんな中バッチバチに価値観がぶつかる結婚生活も始まったのであった。

明日は結婚記念日である。

そして今日、離婚話をしていた。(何度目!?)

まあこうして話し合いができるだけ、ほんとうは離婚に至らないのかもしれないけれど、時を経て変わりゆくものを確認する。このまままた時を経て、果たして添い遂げるということは可能なのか、正直今のわたしには自信がない。それは考え過ぎだからなのかもしれないし、子どもたちがいることで紛らわされている幸せな状態だからなのかもしれないし、わからない。

どちらにせよ話すために手を伸ばしたウイスキーの量が増えてしまって、わたしはだんだん何を話しているのかわからなくなってしまった。真面目な話をする時は酒に頼ってはいけぬ。うむ。反省。でも、酒の力でも借りないと、本音を話せないような気持ちになってしまうのも、悲しい現実だ。

夫とは自分にとって何者なのか。

いつしか、わたしの直すべき部分を映し出す相手、とか、自分のしたくないことを押し付ける相手、とか、そんなふうに相手を扱ってしまうようになってきてしまったのではないか。愛しい、とか、ときめく、とか、そういう大切に想う相手であるというよりも、自分に課題を課してくるチャレンジングな存在、みたいに構えてしまったり、ダメ出しをし合う人、とか、家族だから一緒に分かち合わなくちゃ、とか。

煮詰まると、それだったら解消したほうがお互いにとって良くないかい?という気持ちになってついぶつけてしまう。
わたし、甘えているんだと思う。ということは、甘えさせてくれる、いい夫なんだと思う。ということは、別れずにいたほうがいいんだと思う。でも一度白紙にしたほうがお互いの存在を確認できるんだと思う。なんていうループを、飲みすぎた頭が無駄にやっている。

失ってしまったらすごい喪失感や今までの悪行を悔い嘆き苦しむ存在だとは思うのだけど、なんかこう、ほっこり、ああ、一緒にいて幸せだなあーっていう平和な感じ、それがどんどんと無くなってきてしまったことが、単純に寂しい。

わたしのせいなのかな。
わたしに何か、思いやりが足りないのかな。

そう思っても、何を変えれば良いのか、一緒にいる時間が長いほど、その存在が当たり前すぎて、よくわからなくなってしまうのだろう。新鮮に、毎日を新しい気持ちで迎えられるのが一番良いに違いない。
単純に、波風立たず、幸せに、健康でいてほしい。
多くのことを望まないことだ。相手に、条件を設けて自分の幸せを依存させないことだ。ちゃんと、境界線を保ちながら、相手の人格を尊重することだ。

それはそれで、憎んでいるより、別れたくて仕方がない、というより、平和なのであろう。

愛のカタチが変わっていくだけ。きっときっと。あれから13年も、経つのだから。





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