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風と断捨離と珈琲とわたし


ここのところ、風が強い。
ニュージーランドでしか見ないような、大きな木々の枝がこれでもかと揺れ、大量の葉が飛び交い、ビューーウウウーービューーウウウーーーーと、音を立てて風が容赦なく吹き荒れている。その間は鳥たちは飛ぶこともできず、でも、チュンチュン、と楽観的に風が止むのを待っているようだ。

自然に身を委ねるという生き方は素敵だなと、常々思う。

ここで過ごした日々が終わるにつれて、ああ、やっぱりコントロールできない力のもとで、ただ生かされているだけなのが人生なのだろうか、と思う。
ここに残りたい、と抗い続けて何ヶ月も過ごしたように思う。

自然の流れを無視し、コントロールされた社会に、反旗を翻そうとしていたこと自体が、自然の流れに反したことだったのだろうか。

私は風が嫌いだ。昔から嫌いだ。東洋医学では「悪風(おふう)」という概念があるが、体表面の陽気が少ないと寒気を感じたり、精神的に参っていると、風を極端に嫌ったり、風邪をひきやすくなる。

まさに、悪風になる私は、夫によく「おふ子、おふ子」などと呼ばれているのだが(笑)、風が吹いていると精神が乱され不安定になりやすい。なんとも心が落ち着かず、子どもたちに「上もう一枚着ない?」とか、「鼻水出てるんじゃない?」とか、何度も聞いたりして、心配事を倍増させて自分を疲弊させてしまう。


自然に任せて生きたい。という気持ちとは裏腹に、風よ止め、と願っている。
自然の赴くままに、なんて言いながら、気持ちのコントロールができない自分を責めている。

そんなものだろうか、生きるとは。

出国の準備に追われている。だけど家族はのんびりとしている。日本を発つとき同様、私だけが荷造りに勤しみ、断捨離に励んでいる。浴びるようにコーヒーを飲みながら、風に心を揺さぶられながら。

日々今を生きたいとか、自然な暮らしがしたい、とか言いながら、
吹き荒れる自然に苛立ち、起きてきた事実に納得しない心を抱えて、
人生あと何度、断捨離をするのだろう、と、今よりも過去や未来に心を馳せている。


そんなものなのだろうか、生きるとは。


矛盾したまま、
時は流れていく。

まるで虚構の中でもがく小さな点であるのに
それが宇宙だともいう、「わたし」という人生は
何処へ行き着くのか何処にも行き着かぬのか。

そんなことを思っても、ただ残酷かつありがたく、日々は過ぎていくだけなのだろう。

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