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昭和の余韻と生きる今。

昼間家に居場所がないお父さんみたいな心境の今日このごろなのだが、夜みんなが寝静まったあとの楽しみは密かな幸せ感をもたらしてくれている。

それはAmazonプライムで映画やドラマを観ること…。そうするとつい、寝不足になってしまい、次の日余計に調子が上がらす、夫に「自律神経を整える努力が必要だ」とか言われてしまうのだが。
わたしとしては、この楽しみを奪われてまで整えたいとは思わない現状に問題があるのだろうと考えている。

まあそれはよしとして。

最近ハマっているのは、戦後の昭和、1970−80年代を描いた『荒地の恋』というドラマ。まだ最後まで見ていないのだけれど、ダンディな詩人を演じる豊川悦司がいい感じで素敵である。
この時代特有の男女の役割は、もう、令和の時代にはそぐわないのだろうけれど、携帯電話もネットもない頃の人間たちの関係性や深みに、わたしはとても惹かれる。もちろんドラマであるから、そこに登場してくる人々の特徴がその時代全てを映し出しているわけではないのだろうけれど、丁寧に描かれている人間の有り様が、美しくて苦しくてそして優しくて、なんだかとても魅力的なのだ。

一人の男から愛されたいがあまり狂っていく女、とか、親友の妻と恋人関係にある主人公、とか、アルコール依存症の詩人たち、とか、もう人としてはダメダメって言われるような人たちばかりなんだけれど、みんな憎しみよりも正直さと愛を貫くことを自分に許して生きていて、そして人からもその在り方を許されて生きている。決して良い行いと言えないことをしている人々なのに、人間的に罰せられるとか、悪い、とジャッジされていない。そういう優しさに触れられるドラマなのだ。

わたしはぬくぬくと布団に潜り込んで、「えー!」とか「きゃー!」とか、「ううう…」とか言いながら、観ている。
寝不足になり不健康かもしれないが、幸せなひとときである。
眼を使ってしまって不健康かもしれないが、わたしに今必要な時間である。それを、本当は寝なくちゃ、とか、自律神経を整えなくちゃ、と思いながら見ていることが不健康なのかもしれない。
思いっきり、楽しみたい時間を、変な理性や「こうあるべき」と植え付けた概念が意地悪く責めてくる。そんなクセを身につけて、生きてきてしまった。

本当は正気と狂気のはざまを生きたいくらい、平穏さのない精神を抱えているのに、表面的に平穏さを装って生きてきた代償なのだろうか。もうすぐそれにも答えを出す必要があるような気もするし、出さないために、Amazonプライムを観るに留まっているのかもしれない。生きたいカタチの疑似体験を探して。


昭和の作品に触れたからか、夕飯の焼きそばを作りながらふと、保育園のお昼寝の時間を思い出していた。わたしはお昼寝が大の苦手で、先生のジャージの膝のところにある縦線をゆっくりゆっくり指でなぞりながら眠ろうと努めるのが好きだった。頑なに眠ろうとしないミニミワコに長い時間膝を撫でさせてくれる先生はあんまり居なかったし、ミニミワコは膝のところに縦の線が入っていないジャージを履いている先生には用がなかった。
今思えばお昼寝の時間は、先生たちにとって大事な休憩時間だったから、寝ないわたしはそこそこ疎まれていたに違いない。わたしは、枕がわりの自分のタオルの糸を引きちぎってガムのようにクチャクチャとずっと噛んだり、ニセいびきをかいて寝たふりをしたり(これは先生にひどく叱られた笑)なんとか寝ようとも頑張ったのだけれどどうしても人がたくさん居る場所では寝られない子どもだった。

あのまま、わたしがわたしを生きていたのなら、もうちょっと今のわたしは狂いの中にいたのかもしれないし、わたしであることを心地よく生きられていたのかもしれない。考えても仕方のないことだけれど、人生の何処かの時点で、「当たり障りのない無難さ」を学んでしまった自分を、少し残念に思うし、でもそうするしかなかったのかもしれないな、とも思う。

だがしかし、残念に思おうと仕方ないと思おうと、まだ生きているのだから、今からの生き方は今から選べば良い。過去に留まって、今を滞らせる思考パターンから、過去を活かして今に繋げる、集大成的な思考パターンにしていくのが今の課題なのかもしれない。

そのくらいの、わがままな、わたしだけのピンポイントを。
そんなものを追求していきたいなんて考えてしまうわたしに、はっきりとした答えが見えてくるものなのだろうか、と問い続けつつも、とりあえず進もう。

きっと何気ない日々の中にヒントが散りばめられている。ありがとう、『荒地の恋』。(観ているときはこんなこと考えていなかったけど、書いてみたら発見があった!)

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