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日々の永久機関


誰にでも、昼休みは
等しく訪れる。
新卒から、社長まで。
わが社のばあい、
それは、一時間である。


 かの有名なバッハの鍵盤作品に、
 「ゴルドベルグ変奏曲」がある。
 それはアリアからはじまり、
 三十の変奏曲を経て
 再び、アリアで終わる。


昼ごはんを、
社内で食べるひともいれば、
外へ出るひともいる。
ドトールへゆくひとも、
はなまるうどんへゆくひとも。
そして、彼らはみな一様に、
残り時間を確かめる。

 その変奏曲は、美しい弧を描き、
 輪を閉じる。
 間に挟まれた三十の曲は、
 さらに等分され、三曲ごとに
 カノンが置かれている。
 まるで時計の文字盤のように。


店にたどり着いてから、
注文するまで、
それからテーブルにつき、
食べ終わるまで。
すべての時間は
頭のなかで、配分されている。
そのあとで、
たばこを吸う時間も。

 これまで、数えきれぬほどの鍵盤奏者が、
 この大伽藍へ挑み、録音を残してきたが、
 そのどこにも正解はない。
 あの、グールドでさえ。
 なぜならバッハがどのように弾いたのか、
 誰にもわからないのだから。


たばこを吸い終えると、
残り時間は八分。
最後のアリアまでは、
まだ五曲もある。
そこでわたしはイヤホンに触れ、
曲をスキップする。
あの第三十変奏の
クオドリベットまで。
すると、たどたどしい
痺れがやってきて、

民謡から取り入れた
素朴なメロディと、
弾むような足取り。
大団円を迎える寂しさと、
それでも一歩ずつ前へと進なければならない
切なさが、涙を拭きながら
輪になって踊る人々のように
なんどもなんども
押し寄せてくる。

それは、いつ聴いても
わたしの心を震わせる。

ひとも、出会いも、
景色も、物語も、
そのほとんどは、
はじめての新鮮さを失い、
色褪せてゆくが、音楽だけは、
色褪せない。

いつ、何度でも、
昨日でも、
明日でも、
十年前も、
二十年後も、
いつだってわたしの心を
不思議な力で圧し潰し、
午後の仕事を目前にして、
さあ、これからと
冷たく血を、たぎらせる。

これが科学者たちが
あり得ないと結論付けた
永久機関でなくて、
いったいなんなのか。

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