20年の人生を勝手に自己開示してみた

いつも初めてあった人で話すことが無くなった時は生い立ちを聞くようにしています。生い立ちを聞くことでその人の部分的な所だけでなく、全体を知ることがきるからです。

ですが毎回自分の生い立ちを話す機会はありません(笑)
というかたぶん誰も求めてないと思います

なので今回のnoteは自分の人生を振り返って今後どうするかを考えるために使います
それではスタート!

*ネガティブな表現を含みます。ご注意ください

【生後~年長】

広島県福山市出身で2000年6月29日に長男として生まれました

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上には姉さんがいて下は妹が2人いる4人兄弟
男は僕だけでした。
お父さんはJFE様の下請け会社に勤めていて、年収は600万ぐらい
うちの家庭は貧乏と言われて育ってきました


母親によく言われた言葉は「時間は守りなさい」と「女の子には優しくしなさい」の2つです。


年長までのことはあまり覚えていませんが、足の裏に画鋲が刺さっていたことは今でも覚えています
かくれんぼしていた時に下駄箱の裏に隠れていて「なんか足に違和感あるなー」って思っていたら刺さっていました(笑)


泣きながら保健室まで連れて行ってもらったことを覚えています
あとはレゴブロックのでかいやつ?みたいなので毎日遊んだことを覚えています。長いブロックが数が少ないので給食を早く食べてそのブロックを必死に確保していたと思います

他には名前も顔も思い出せませんがおそらく一歳下の子の弟子がいたことも覚えています。遊具の使い方とか木登りの方法とか教えてました(笑)

あとは小学校に上がる前の春休みに保育園に招待してもらって下級生のショーてきなのを見たのを覚えています。その時は成長したなーって思ってたと思います(笑)

【小学校低学年】

1年生の記憶はほぼ覚えていませんが、先生が毎日給食後に歯を磨いていたことや、6年生に連絡帳を書いてもらっていたことを覚えています。
あと入学したばかりの時は宿題が線をなぞったりするものでめちゃくちゃ簡単だったのを覚えています。

ちなみに幼稚園の時は字を読むことも書くこともできなかったと記憶しています。なので幼稚園で一人で絵本が読める友達が羨ましかったです


2年生で覚えている記憶は一つもありません。こんなことあったよねと言われれば覚えているかもしれませんが2年生で覚えていること教えてと言われても思い出せません。
ですが九九は全然できなくて完全にマスターしたのは小5とかだと思います



3年生では僕もクラスも一番荒れていた時代です(笑)

荒れてる

どれぐらい荒れていたかというと先生は1年で4回変わり1人は授業中に奇声をあげてそのあとやめたぐらい荒れていました。最終的には教頭先生が担任を務めるぐらいの状況になっていました


ここで自分がどれだけ荒れていたかを一覧にします(笑)
・山で火遊びして山火事になりそうになった(消防車も来た)
・火の中に新品のライターを投げて爆発するのを楽しんでいた
・授業中は基本教室をウロウロして授業は一切聞いていませんでした
・みんなで授業中に脱走して近くのスーパーで万引きした(自分は万引きせずに外で待っていました)
・校長先生に校長室で胸ぐら掴まれて怒られた(なんで怒られたかは覚えていません(笑))
・大きい側溝の下でみんなでたばこを吸っていた(しっかりバレました!)

覚えているだけでこんな感じです。当時は本当に荒れていて先生もめちゃくちゃ大変だったと思います。先生すいませんでした!

ですがなんで荒れていたかは覚えていません。とにかくクラス全体がそんな雰囲気で荒れていました(その中でも1番悪いグループにいました)
そのあと小5ぐらいまではそのグループと遊んでいましたが途中で合わなくなりあまり遊ばなくなりました
中学生以降の話ですがそのグループは全員不良になり少年院や鑑別所などに一度は入れられた経験があります。
つまり僕だけがそのような所にお世話にならなかったです(笑)

【小学低学年のまとめ】

今思うとめちゃくちゃバカで勉強できませんでした(今もですが)
何年の時に起きていた話か覚えていなかったので上記には書きませんでしたが、低学年の時は宿題が終わるまで遊びに行けなかったので部屋でコッソリ漫画とか見てたと思います。

部屋にお母さんが来て宿題をしてないとバレるとめちゃくちゃ怒られて叩かれたりしてたと思います。
自殺未遂?てきなのをしたのも3年生ぐらいだったと思います
その時はビニール紐(100均で売ってるやつ)で首を吊ろうと思いましたが確か紐が切れて諦めました(笑)

人生で3回自殺未遂をしたことがあるのですがこれが最初です
自殺未遂の定義に当てはまるかわかりませんが(笑)
自殺しようとしていた理由は覚えていませんがたぶん生きづらかったのだと思います

【小学校高学年】

4年生では不良の延長戦的なことをしていたと思います。
ほとんど記憶に無いですが九九は相変わらず覚えていませんでした

5年生人生のターニングポイントだと思います
新しい先生が来てその人のおかげで僕は落ち着きましたし、九九も覚えることができました
その先生は中年ぐらいで時間に対してシビアな人でした

時計

休憩時間まで授業が伸びたらその分休憩時間をずらしてくれました。
その分遅れたりしたらめちゃくちゃ怒られます(笑)
そして朝の時間は百マス計算などをしました
なぜそれをやるのか?などをスライドを使って説明してくれて生徒も納得できたと思います



この辺ぐらいからいじられキャラとしての地位を確立したと思います
半分いじめ?的なことも受けていたと思います
この後重要なポイントになるので覚えておいてくださいね(笑)
そしてここで2度目の自殺未遂がやってきます
理由は覚えていませんがパブロン(市販の総合風邪薬)を大量に飲みました

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次の日は熱が出て学校を休んだことを覚えています
親にはこれまで2回の自殺未遂はバレていません

6年生ではアメリカに住むことやソニーの社長になることが夢でした

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アメリカに住みたかった理由は「自由の国」だと思っていたからです
たぶんそれだけ生きづらかったのかなーと何も覚えていませんが思います
ソニーの社長になりたかった理由は当時周りの友達でスマホを持っている人が増え始め、自分の家にはPCもネットもスマホもない状況でした。親のガラケーでネットは使えるぐらいです。


母親と姉はウォークマンを持っていてなぜかソニーの栄光の時代を僕は知っていました。
だから世界のソニーの社長になって人が驚くことをしたいと思っていたのだと思います
あと6年生と言えば修学旅行!京都に行きました
すごく楽しかったですが、清水寺の水が大行列で飲めませんでした(笑)

【小学高学年のまとめ】

今振り返ってみるとこの辺ぐらいの時代からギリギリ思い出せるかなーといった感じです。
全体的に生きづらかったのかなーと思います
ですがソニーの社長になることやアメリカに住むなどの夢はありました
これが今の人生に影響していると思います
それと学校ではいじられキャラというかお笑い担当みたいな位置づけだったと思います


余談ですが3歳~小学6年生まではスイミングに通っておりそれなりに泳ぐことはできました。さらにバレーボールもしていました。まともに運動するのはこれが最後になります(笑)
この当時から給食をお代わりしまくってブクブク太っていたので親から三者面談の時にお代わり禁止令が発令されました(笑)
振り返れば6歳ぐらいから今までずっと太っている感じです!!!




【中学1年生】

ここから人生の本番みたいなとこありますよね(笑)
結構覚えてますしいろいろあったので詳細に書こうと思います!

中学受験なんてワードは1秒も浮かばず何も考えず公立中学に進学しました
確か3つの小学校から集まっている中学で小学校からの人もいたので緊張はしなかったです。

ですが相変わらずいじられキャラというのは継続しており、正直大変でした。中学1年の時はいじられ倒されたイメージです
授業中もそんな感じでした。
部活は一応美術部に所属していましたが、ほとんど行っていませんでした。

では何をしていたか?ゲーセンに毎日行っていました!(笑)中学から仲良くなった相棒(小学校同じ)とメダルゲームで遊んでいました。
中学生は日没には出されるので平日は1時間とかしかプレーできませんでしたが、毎日片道25分ぐらいかけて自転車でゲーセンに行っていました。

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中学生になってからお小遣いをもらうようになり、毎月1000円でした。
もちろんメダルゲームするには足りないので相棒とお年玉で5千円づつ出し合って1万円分メダルを購入しそれをちまちまと増やしていきました

こんな生活で成績がいいわけもなく宿題も出していませんでしたし英語に関してはローマ字も覚えていなかったのですぐに脱落しました(笑)
ですが好きな人はいました(以下Sさん)入学してすぐぐらいから一目惚れしてずっと気になっていました。どうしていいかわからずSさんにちょっかいばかりしていたと思います当時の関係はそこまで悪くありませんがそれ以上の進展はありませんんでした。ずっと片思いでダラダラ、、、

いじられキャラで放課後はメダルゲームをしてずっと片思いしてる中学1年生でした。
中1後半ぐらいからはいじられキャラが少しいじめみたいな感じになってきましたが、僕はあまり気にしてはいませんでした。


【中学2年】

人生で一番辛かった時期、それが中2です。
みなさんも共感できる人は多いのではないでしょうか?

いじられキャラが完全に定着していた僕はその状況に慣れてきました
片思いのSさんともある程度仲良くなりました(進展は無かったですが)
当時はメダルゲームを一緒に行く相棒ともうひとり仲良くしている友達がいました(Fくん)彼はパソコンが得意でいろいろなことをしていました


ビットコインは必ず上がると言っておすすめしてくれたのもFくんでした取引所を開設するには親の同意が必要なので説明してもそんな怪しいものダメだと拒否され、購入することはできませんでした。


あの時は2万円ぐらいの時だったのでお年玉で1BTCでも買っておけば大学の学費には困らなかったなーと後悔しています笑

そして当時僕はAndroid搭載のウォークマンを購入したばかりで家にも相変わらずネット環境は無く、ベランダからフリーWi-Fiを拾っていました笑

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Fくんとの格差や周りがモンストなどをしているのを見て羨ましかったのを覚えています(ラインは親のスマホでしていました)
Fくんの影響でITの知識がほんの少しづつ広がっていきました
その中の1つとしてプログラミングを知りました

僕はプログラミングをしてみたいと親に言うとギリギリ自腹でのPCの購入を許してくれました。
でも相変わらずネット環境は整えてくれなかったです
今思えば中2は時代を先取りしていたなーと思います(今はプログラミング教育は一般的)


ネット環境がない状態で本などを買ってやってみましたがわかるはずもなく調べる手段もないままプログラミングの興味は薄れていきました。
ちなみに初めて購入したPCはノートPCでNECの15インチ、Pentium、メモリ4ギガでした。家庭にあるような普通のPCですね
それを中古で購入してめちゃくちゃ嬉しかった記憶があります



一方で学校生活は徐々に病み期に突入します
いじりは徐々にひどくなっていきハゲと言われて頭を叩かれたり乳首を思いっきりねじられたりされました。
「死ね」「ハゲ」「デブ」「ゴミ」などの暴言は言われてもなんとも思わないようになってきました

昔からいじられてきたのでいじりといじめの境界線がわからなくなってきたのだと思います。
なのでどこからが境界線なのかは悩んでいましたが、あくまでもこれは”いじり”であると思いたい自分がいました


いじめといえばトイレの個室で水をかけられたり机に落書きがされていたり無視されるだとかを思っていたのでもっとひどくないといじめではないだとうなと自分で我慢していました。
今思えばいじめだったなーと思っています



今ではネタですがそんな時に「痔瘻」というものになりました
皆さんはご存知でしょうか?
それは痔の王様と言われるもので最もひどくなる痔ということです笑
症状としては座っている時はなんとも無いのですが、立ち上がる瞬間と座る瞬間に耐え難い激痛が走ります
原因としてはいろいろなことが考えられます
ですが当時の僕はストレスから下痢なことが多くそれが原因だと思います


最初は我慢していたのですが3日目ぐらいから辛すぎて病院に行きました
病院の先生にケツの穴を見られ「痔瘻」だねーと言われました笑
人にケツの穴を見られるのはめちゃくちゃ恥ずかしかったです笑
その場で軽い手術をすることになりました

麻酔をお尻に刺され原因となっているところを切るというものでした
手術はすぐに終わりましたが大変なのはその後でした
膿のようなものが切ったところから出続けるのでお尻にガーゼをしないといけません

さらに学校に行っている間はガーゼの交換が頻繁にできません
なので生理用のナプキンを付けました笑
ふざけてなく実際に看護師の方がアドバイスしてくれた方法です。
学校に行ってからはしばらくそのことについていじられました
ナプキンを付けているとは言ってないですがガーゼを貼っているので明らかにおかしいのですぐにバレました

寝ている間はガーゼは交換できませんので夜用のナプキンも付けました
男でナプキンを付けて生活したことがある人なんてほぼいないと思います笑
実際に付けてみて感じたことはゴワゴワしてうっとうしいということです

女性はこれを付けてさらに体調も悪くなるなんて本当に大変だと思います。そんな経験をできたという意味では良かったのかもしれません笑
ですがこの痔瘻が数年後にさらに大変な状態で帰ってくることになります笑


そんなこともありましたが痔いじりはそこまでひどいものではありませんでした
一番ひどかったのはハゲいじりです
自分で何度も頭の写真をとったり髪型を気をつけてた記憶があります
そんな”いじり”(いじめ)の毎日が続いていましたがSさんが学校にいるから登校するみたいなモチベーションもあったと思います

経緯は記憶が曖昧ですが、確か周りに押されてSさんへ告白することを計画していました
告白する日時も決まってドキドキする毎日が続きました



ですがここで事件は起こります
確か告白する前日ぐらいだっと記憶していますが文化祭?的なイベントの準備で遅くまで残っていました

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親友のFくんも一緒になって準備をしていました
図書室で準備をしていたのですが図書室の前の階段で少し「疲れたねー」みたいな話をしていました
そこでいきなり真剣なムードでFくんは話始めました
「俺Sさんと付き合うことになった」と言われ僕は頭が真っ白になりました
でも平然と「そうなんだーおめでとう」みたいなことを言った記憶があります
つまり告白する前日にSさんを親友のFくんに取られることになったのです



そこからはFくんともしゃべることが少なくなり、Fくんも態度が変わってきました。
SさんとFくんが一緒に帰るところなどを見て僕は後悔しか残りませんでした
こころなしか徐々にいじりも痛くなってきて僕の心臓を槍で毎日刺されているようでした

なにせずっと片思いしてきたSさんと親友のFくんを失い
告白するチャンスも与えあられず毎日のいじりも耐えないといけない日々が始まりました

そんな日々で僕は生きてる意味を考えるようになりました。
こんな辛いことがずっと続くように思えました。


もちろん周りのたくさんの人に相談しました
男子に相談するのは恥ずかしいですし、相手にしてくれないので女子を中心に相談していたと思います
そこで「ひゅう(僕の名前)だから悩み事なんて無いでしょ!」と一言 言われることが多かったです
周りの人には毎日いじられて僕も笑顔で笑いの中心にいたので悩み事なんて無い最高の人生だと思われていました
ついに僕は相談する人もいなくなってしまいました

さらには今となっては人生最大のネタである「ごはんですよ~事件」がおきました

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荒れている女の子が同じ班でめちゃめちゃ大変な時期を送っていました。
ノートを僕の机に乗りで貼り付けたり、タオルで叩かれたりしていました。そんな時にその子がふりかけや柴漬けなどのごはんのお供を大量に持ってきていました。


じゃんけんで負けた人は授業中にふりかけなどを一気に食べるという遊びをしていました(僕はしていません)
それできっかけは忘れましたが、お昼ごはんになってごはんですよや柴漬けなどをパレット代わりのように僕の机の上に出しました

それをぐちゃぐちゃと混ぜて僕の顔に塗りたくられました。

みんなに笑われて僕は複雑な気持ちになりましたそんな状況で腹も立ちましたが女の子を殴ることもできず先生が来て自体は収束しました
僕の机はクラスメートが片付けてくれたみたいでありがとうございます



そんな辛いことが重なりこんな考えをするようになりました。
幸福を+として不幸を-とすると人生+で終えたいですよね?
今の僕はまだ+の方が多い人生だと思っていました。


それならここから不幸ばかりおこるなら
今ここで人生を終えたなら+の人生で終われると考えました。

そこから具体的にどうやって自殺するかを調べ始めました
それでも生きたいという希望はあったのだと思いますがラインのアイコンや一言は病んだ感じにしていました
今思えばただのかまってちゃんにしか見えなかったと思います笑


自殺の方法も様々ありました。首吊や飛び降りなどが代表的かもしれません
ですが首吊は内蔵などが肛門から出たりとかなり酷い感じになるので嫌でした。飛び降りも自分で飛び降りる勇気はありませんでした。


いろいろ調べるとカフェインを飲んで死ぬという方法を見つけました。
これなら薬を飲む瞬間は痛く無いし即死するわけではないから飲むのも怖くないと思いこの方法を実行することにしました
ドラックストアにはカフェイン剤というものが売っていて眠気覚ましに使われるものです。それを致死量と言われる量購入しました。

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そこからいつ死のうかばかりを考えていました
学校も毎日行っていましたし相変わらず笑顔でいじられていたので周りは一切気づいてなかったと思います


「あと1日生きてみよう」ずっとこれを繰り返していました
ところがある日、なぜ送ったのか覚えていませんが学年のライングループに英語で「死にたい」みたいな文言を送信しました


そうすると「死ぬなら死んでみろよ」的な返信やこのグループに送る内容ではないだろ!」みたいな返信がたくさんされ僕は突発的に死のうと思い
「わかった。さよなら」的なラインを送ってしまいました

心配してくれた女子が電話をかけてきましたが無視しました
僕は自分の部屋に行き、隠しておいたカフェイン剤を大量に飲みました
お茶で飲んでいたのですが途中で気持ち悪くて飲めなくなったのでファンタグレープの中にカフェイン剤を溶かして流し込みました
すべて飲めたかは覚えていませんが限界まで飲みました




「あー俺ついに死ぬんだなー」と思いながらぼーっとしていると友達2人が家まで来てくれました。

その時は平然を装って外で喋っていましたが死ぬことの怖さからか足の震えが止まらなくなりました。
10分ぐらい喋って「大丈夫だから」と言って友達を帰らせるとまた1人になって死ぬなら寝てるときが良いと思いベットで寝ようと心がけました
これがカフェイン飲んでいるので全然寝れません笑

そしてしばらくすると猛烈な吐き気に襲われました


そこから人生で一番長かった夜が始まりました

トイレに駆け込み晩ごはんのカレーをほぼすべて吐いてしまいました
そこから30分に1回ぐらいのペースで吐き続け3回目ぐらいからはほぼ何も出ないのに吐いていました。


喉は胃酸でめちゃくちゃ痛くなりました。
熱もあったと思います。
全身がだるかったです。



そこから長い夜が明け、親が病院に連れて行ってくれました
僕は先生に自殺しようとしたなんて言えないのでよくわからないと言っていたと思います。
実は薬を飲んだあと致死量の計算を間違えていて実際には致死量の3分の1の薬しか購入していませんでした

病院では原因がわからないので骨髄液まで取られて検査しました
そこから僕は緊急入院することになり、点滴(生理食塩水)をされベットで寝ていたと思います
そこからしばらくは入院生活が続きました。
親にも自殺しようとしていたことがバレて点滴もずっと繋がれたまま、自殺対策のために部屋には常に親かおばあちゃんがいました。

入院直後はどうやって自殺しようかばかり考えていました
重度の不眠症とまではいきませんが、寝てもすぐに起きてしまっていました

ですが死ねないとわかった僕は病院の先生には早く学校に行きたいと言い僕はクラスでの心配ばかりしていました


ライングループであんだけ叩かれて僕の居場所はあるのだろうか?

「ほら死ねなかった」とか言われないだろうか?

早く学校に戻らないとどんどん僕の居場所が無くなる気がして不安でした



退院した僕は相変わらずずっと不安でしたが今度はいざ学校に行くとなるとどんな感じで行こうと悩みました
そして登校当日教室に入る前に自分で笑顔のチェックをして笑顔でおはようと何事も無かったかのように教室は入りました


すると予想外のことに意外とみんなも平然と受け入れてくれました
インフルエンザで長く休んで登校した日みたいな感じで、、、
みんな気を使ってくれました。
そして落ち着いた日々が少しあり徐々にいじりも始まってきました。


多分学年全体が僕の自殺未遂は知っていました。
ですがみんな原因は三角関係だと思っていました。
僕がSさんに片思いしてることはなぜか多くの人が知っていましたし、FくんとSさんが付き合っていることもみんな知っていたと思いますだからいじりが原因で自殺未遂したのではないと思ったのでしょう


実は退院してから心療内科?的なとこに行くことになり毎週カウンセリングを受けていました。
僕は自殺した原因なんか言いたくないので生きている意味がわからなくて悩んだ結果自殺しようとしたと言いました


カウンセリングは楽になりましたが、同時に早くやめたいと思いました。
なんか心療内科とか病んでる人が行くところだし俺はそんなに頭おかしくないって思っていたからです



一方、学校ではまたいじられる日々が始まりました
相変わらず病んではいましたがなぜか本気で死にたいとは思いませんでした
今思えば中2が本気で死にたいと思った最後です
ですが代わりに消えたいという感情が出てきました


ただあの事件からはすごく親身に相談に乗ってくれる女の子がいてめちゃくちゃ頼っていました(電話をかけてきてくれた人)
その子はいじめられた経験からリスカや自殺未遂の経験がある子でした。
ですが中2の当時はクラスのリーダー的な存在でした

そんな日々で理由は覚えていませんが自分の腕を思いっきり噛みました。
痛いのですがスーっとしてその間は何も考えなくても良かったので一時的に楽になりました。


この感覚から腕を噛むことがやめられなくなってきました。
いわゆる自傷行為です。
ここから僕は自傷行為に苦しむことになります


徐々にそれも慣れてきてあまりスッキリしないようになってきました
そこからリスカってどんな感じなんだろうと興味が湧くようになりました
最初はカッターで擦り傷程度の傷しか怖くてできませんでしたが、徐々に慣れてくるとどんどん深くなっていきました


それでもリスカは跡が残ることを知っていました
相談に乗ってくれる女の子の腕には跡が残っていたのであまり深くしないように広範囲にしないように気をつけていました

それでも血が出てると生きてるなーっと楽になりました
みなさんに知ってほしいのはリスカはかまってちゃんと言う人がいます
ですが、けしてそんなことは無いということです


物にも人にも当たれないから自分を傷つけることで
必死に生きようとしてるんです。


だからリスカしている人がいたら絶対にやめなよとか言わないでください。ただそばにいてあげてください。
可能なら抱きしめてあげてください。



リスカ癖が治るのには時間がかかります
僕は完全に治るまで2年以上はかかったと思います
リスカ癖が治るのは変わりのストレス発散が見つかった時か、ストレスが減るかのどちらかだけだと思います

そんな感じで続けていたので腕は誰にも見られたくなかったですし半袖になるときはできるだけ見えないように意識していました



【中学3年】

自殺未遂が2月ぐらい?だったこともあり、あの事件からすぐに3年生になりました。ある時パンフレットが配られました。


そこには「弓削商船高等専門学校」と書かれていました
見ると5年制で船やプログラミングについて学べる国立の学校でした。
僕はこのパンフレットを見たその日にここにすることを決めました


そこからは時間がすぎるのは一瞬でした
バカすぎる学力を向上させるために塾に行き勉強しました
部活もなぜか少しだけ出るようになりわけのわからない作品(割り箸のランプカバー)を作って遊んでいました。


美術の先生が言っていた言葉はいまだに覚えています
「大人は体が大きくなっただけ」と言っていました笑
実際20歳になって今時点ではそう思っています!


いじりは無くならずたまに自傷行為もしていましたがなんとか生活していました。
受験関連で印象に残っているいじめ(いじり)があって卒業まであと何日みたいな日めくりカレンダーが黒板に設置されていて僕の受験日には
「飛空(僕)が弓削に落ちる日)と書かれていました

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それで受験日が近くなると結構いじられた記憶があります

受験勉強は今振り返ると完璧にしていたとは言えませんでした
ですが塾で学び直し、数学を中心に頑張っていました(点数が2倍になるため)そして受験日になり数学の時間になりました。


緊張していて紙が配られると頭が真っ白になり全然わからなくなりました。その時点で僕が弓削に落ちたことはわかっていました
ですがいざ結果を聞いて家でたくさん泣いたことを覚えています



その後弓削以外行くことを考えていなかった僕は公立の学校を探しました。喪失感であまり考えれていなかった時、先生が「尾道商業に行くのはどう?」と聞かれました。実は僕は中3ぐらいから起業して世界を変えたいと思っていました


ですが親に止められ高校入ってからにしなさいと言われていました
なので尾道商業に入るとビジネスのことが学べると同時にビジネスを学びたい人が来るから起業仲間を集められると思い受験を決めました
当時は商業学校はビジネスに興味がある人が来る学校だと思っていました笑

そこから無事に合格し(偏差値低い)入学の準備が始まりました
僕の中学からは僕しか行かないので完全に新しい状態で高校生活がスタートできると思いました。
隣の市の高校だったため電車で通学しないといけません。自宅から最寄りの駅まで10分、電車で24分、駅から高校まで10分の片道44分でした。



【高校1年】

いざ入学して初日はどうすればいいかわからず周りの状況を見ていました
知っている人が0の状態は初めてでしたがすぐに友達もできました
そして無事に軽くいじられるポジションになりました笑

ここで大きなことに気が付きました。


それは「これがいじりなんだ」ということです。

叩かれたりしませんし、汚い言葉も使わない、表現しづらいですが一線を超えていないのです。
そこから僕が中学校で受けていた「いじり」は「いじめ」だったと気づきました


それを理解している今ですらこうやって中学の時にいじめられていたと書くのは抵抗があります。
あくまでもいじりだったと信じたい自分がいるのだと思います

入学して気づいたことは誰もビジネスを学ぶために入学してきたわけではないということです。起業を意識している人はほぼいなかったと思います。
だるいみたいな空気感が学校全体に充満していると僕は感じていました。
ですがこの高校に入学することで僕の人生は大きく変わりました

高校からはスマホも買ってもらい家にWi-Fiを契約してもらいました。

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初めてのスマホはソニーのXperiaZ5です笑

さらには自分のデスクトップパソコン(本体)を9万ぐらいで購入しました
貯金していたお年玉を使って初めてこんなにも高い買い物をしました
学校は尾道という全国的にも有名な観光地でしたので刺激的でしたし毎日が楽しかったと思います


そんな中ある日朝会で校長先生がフィリピンの短期留学について説明していました。「今ならPTAの補助もでるし、行ける人は行っておいた方がいい」と言っていました。

それまで一度も海外には行ったことなかったですし、憧れではありましたが自分が行くとは想像もしていませんでした
しかも英語は0点でしゃべることも書くことも一切できません
ですが校長先生の話を聞いて「行くしかない」となぜか思いました

ですが親は放任主義だったのでいつものようにお金の支援はしてくれません
調べてみると奨学金制度がありそれを利用することにしました
パスポートの申請も自分で調べてしましたし、その他必要なことは自分で準備しました
そして奨学金20万円とPTAの補助(確か5万ぐらい)とお年玉10万ぐらい?を使って何とか支払いをしました



そして高校1年の夏休み僕はフィリピンに短期留学しました 
初めての海外は僕にとってすごく刺激的なものでした
まず空港で入国カードを手にもっていなくてカバンに入れていたら入国審査の係員に無言で机をバンバン叩かれました。
急いで出すと「マミー?」とだけ言われ「ノー グループ」と返しました。そうすると無言でパスポートを返されました。

出国すると係員が普通にスマホをいじってダラダラしていたり、当たり前ですが英語しか聞こえてこない環境が僕にはかなりの衝撃でした

他には船で出かけて泳いだりストリートチルドレンに衝撃を受けたり英語の喋り方が授業で習ったものと全然違ったりとにかく刺激がたくさんでした

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留学の詳しい内容は省きますが2週間の留学で午前中は現地高校で午後は滞在している語学学校の授業でした


その2週間は人生で最も楽しかった時間です



そして9月からはバイトを始めました
人生始めてのバイトは個人経営の居酒屋でした
そこを選んだ理由はゆるそうだと思ったからです笑


いざ始めると覚えることが多く最初の方は苦労しました
ですがその職場で今でもバイトしており今では第二の実家みたいな感じです

バイトも慣れてきて、そろそろ起業について考えないといけないなーと思い何から始めればいいか悩んでいました。アイデアも仲間もいませんでした
そんな時にビジネスコンテストの存在を知りました。僕はネットで調べまくり、NESという高校生限定のビジコンに参加することにしました
東京で開催されるので人生で初めて一人で東京に行きました

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夜行バスから降りて最初の新宿の一枚笑

そして会場に行くと周りの高校生に圧倒されました

開成高校や筑波付属高校などめちゃくちゃ偏差値が高い上に起業を目指していたり、もうすでにプロジェクトを始めていたりしていました

留学経験がある人も多かったです
当時はビジネス用語なんて1つも知らなかったので言語が違うぐらい話を理解することができませんでした

そして話をしていると大体親がある程度のお金持ち以上の人が多いことに気が付きました。

僕は猛烈な劣等感に襲われました

彼らは学校の勉強ができる上に学校以外の知識もあってすでに行動していて、その行動は親が金銭面でバックアップしてくれる。


そう思っていました。
それに比べて僕は学校の勉強は全然できないし、学校以外の知識も彼らにはかなわない上に親の金銭面のバックアップもないと思いました(東京に行くのもすべて自腹でした)

このイベントは2ヶ月ぐらい開催され毎週東京で講義がありました
イベントに参加している人も8割ぐらいは関東圏の人でした
ですが一人だけ広島出身の一個上の年上の人がいて彼のアイデアが良かったのでチームに入りたいというと「お前はダメだ」と言われました
多分バカなのがバレていたのだと思います笑


劣等感と同時に毎週東京に通わなければならず、そんなお金もあるわけも無く、一度参加しただけで僕はやめました。
なんとなく毎日を過ごしNESに参加してる人が今どんなことしているのかFacebookで確認したりしていました。
あとはAIU高校生国際交流プログラムという無料でアメリカに行けるプログラムに応募もしてみましたが、無事に一次選考落ちで何もできませんでした


そしてNESが終わりました。
優勝したチームどこかなーと思っていたらなんと広島出身の彼だったのです
彼はほぼ毎週東京に行き、講義を受けていました


後で聞いた話スポンサーがいたそうです
まじか!と思い僕は連絡しました
僕も広島人だから手伝えると思うといった感じの連絡をすると今度はあっさり仲間に入れてもらいました


そこからは僕はマーケティングを担当したりサービスの紹介ビデオなどを撮影、編集しました。
当時作成したビデオ https://www.youtube.com/watch?v=pT85mR-W35s
この活動は非常に楽しかったです。

アモライド

*当時のロゴ

ですがうまくいかず、リーダの号令によってチームは解散しました

【高校2年】

チームが解散したのがちょうど1年生と2年生の間でその後は何もなくダラダラと過ごしていました
ですがある日教頭先生に広島県派遣事業というのを紹介してもらいました


それは無料で1週間中国に行けるというもので、最高のイベントでした。
審査は面接や書類などがありますが、なんと定員割れしておりよっぽどのことがなければ落ちることは無かったと思います
今でも毎年していると思うので広島県の高校生は応募するべきです笑

そして当日になり広島空港に集合しました

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*中国に行く前に広島空港で下の妹二人で撮った写真

もちろん知り合いはいませんでした
確か中国東方航空に乗ったのですが枕を頼んで少しシミがあったので変えてほしいというと枕カバーをひっくり返して渡されました笑
なんか中国にきたなーという感じが飛行機に乗ったときから思いました

上海経由成都行きだったのですが、無事に上海に到着しました
するとなぜか出口でCAさんがテッシュを配っていました
降りると地面が一面水たまりのようになっていたのです。
僕たちが来る前は大雨だったようで沖止めだったので僕たちは靴と靴下を脱いでバスに乗り込みました笑こんなことは日本だとありえないと思うので海外に来たなーと思い楽しかったです

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*水たまりができた上海空港

そのあとは案の定、成都行きの飛行機は遅延しており搭乗口には人がごった返していました。

そこで見たのは客が大きな声で怒鳴っていることです
日本なら係の人はすいませんと言って謝ることが多いと思いますが、そこでは係の人もキレていました笑
係の人と客が普通に口喧嘩しているのです。
中国やべーなとシンプルに思いました笑 数時間待ってようやく飛行機に乗り成都に到着しました

到着するとホテルは非常に豪華でした。
どうやらミリタリーVIPなどが泊まる5つ星ホテルのようで部屋にガスマスクがありました笑
今回は現地の滞在費などは成都の政府が持ち、飛行機などは広島県が持つといった感じだったのでおもてなし精神がすごかったです。

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*実際にホテルにあったガスマスク

次の日は歴史の博物館?的なところに行ったりしました
お昼ごはんは円卓の中華でした。

本当の中華料理がたくさん出てきて独特な味(四川料理)でした。
僕は全然食べれましたが周りはあまり食べていませんでした笑

中国は取り箸の文化が無いので自分の箸で大皿から取ることになります
なので最初はみんな遠慮していたのかもしれません

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その後は世界最大の建造物というグローバルセンター(ショッピングモール)に行きました。とにかく大きくて中国は派手だなと実感しました
その後はショーを見ながら中華のフルコースをいただきました

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*こんな感じの中華フレンチみたいな感じでした

3日目は世界遺産の楽山大仏という座っている大仏を船で見に行き、イトーヨーカ堂で子どもたちと交流して漬物博物館?みたいなところに行きました
その日の夕食は現地の市長とごはんを食べました
すると「うちの街にある噴水ショーは最高だよ」と言ってごはんを食べたあとに見に行きました。そこで中国の怖さを実感しました
警察が僕たちの場所を場所取りしておりロープまでついていたのです
この短時間で思いつきなのに警察を動かせることに驚きでした
考えてみると僕たちはめちゃくちゃVIP扱いでした。道路を横断するときも警察が道を封鎖して横断したり、けして悪い部分は見せてくれませんでした
噴水ショーは人生で一番大規模なもので感動しました

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*びっくりするぐらいの大きさの大仏

次の日はホームステイ先の人と自由時間を過ごしました
彼も高校生でしたが、寮に住んでおり(家が近いのに)めちゃくちゃ勉強しているのだと思います。繁華街などに行ったり火鍋を食べたりしました
驚いたことは街に全くゴミが落ちていないことです
ゴミを拾う人がいてその人が常にゴミを拾っています
日本の場合そのような人は制服で清掃員という感じがひと目でわかると思うのですが彼らはホームレスのような格好でした。
ここで中国の闇を少し見た気がしました

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*成都の中心街

ホームステイ先は多分都市部の少し裕福な人の家だったと思います
外観は立派な高層マンションでしたが、中はハリボテ感が否めなかったです

次の日はパンダ基地に行きパンダをたくさん見たりしました
その後はホームステイ先の家でお母さんの手作り料理を食べました
どれも美味しかったです

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*辛いものもなく美味しかった手料理

そうしてまた上海経由で帰ることになったのですが成都からの飛行機が遅れ、その日に広島に帰ることができなくなりました。僕はもう1泊できるのは嬉しかったです。航空会社からもらった食費で結構豪華な食事をして次の日は弾丸の上海観光をしました
そんな感じで中国の旅は終了しました

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*上海での一枚

後日、湯崎知事(広島県知事)にプレゼンする機会があり、広島に行きましたがそれもセットで貴重な体験になったと思います




この短期留学よりも前に実は大きな出来事がありました
それは「生徒会長就任」です
立候補した理由はネガティブな感じの学校を変えたかったからです
「だるいなー」と言いながら1時間目が始まりとにかくみんな”高校生”はエンジョイしていたと思いますが”高校”はエンジョイしていなかったのではないかと思います

なので毎日ワクワクできて楽しい学校に変えたいと思い立候補しました
立候補したときの公約は

「毎月アンケートを取りその中の1つ以上を必ず変える(改善)」

というものでした
選挙の結果は対抗馬の3倍の票差をつけて生徒会長になりました
そして選挙の日は学校全体がワクワクしていたと自分でも思います

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あの時は学校が変わる。楽しくワクワクするものになっていくという期待感が生徒一人一人にあったのではないかと思います
私はまさにそんな状態を学校にずっと作り続けたいと思っていました

ですが生徒会長になると先生の壁が立ちはだかりました
私たちは検閲と呼びましたがとにかく生徒会としての独立性は無く、何をするにも先生の許可が必要でした

それはアンケートとることもそうでした
様々な方向からアンケートを取ろうと努力しましたが先生の許可がおりず結局一度もアンケートを取ることも変えることもできませんでした

就任してから1か月ぐらい経ってから周りにまだアンケートを実施しないのか?と言われるようになりました
さらに一か月すると3年などからも言われるようになりました
ついには全然喋ったことも無い3年生から「使えない生徒会長」と言われるようになりました。

トイレに行っても同級生や3年生に言われ朝会で前に立つとなぜか笑われるようになりました
そんな毎日で僕は学校に行くことが憂鬱になりました

ついには学校をやめようか悩むようになりました
ピークにはせっかくやめた自傷行為をまた始めるようになっていました
そんな感じでみんなのバッシングが長く続くわけも無く、事態は収束していきました
ですがそこから僕は生徒会長としての挑戦をしなくなりました

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今でもそれが後悔ですし、生徒会長になるためにもう一度高校に入学しようか悩んだぐらいです
そして初めて知らない人からバッシングを受けるという経験をして、総理大臣ってすごいなと感じました
演説してると「死ねー」と言われどんな政策をしても反対派はいるのでアンチは湧いてきます
彼らにはそれをスルーする力と強靭なメンタルがあるのだなーと思いました

ただ挑戦はやめましたが次の作戦は考えていました。というかこれしか何かを変える道は無いと思いました
それは生徒会予算案の採択です

大人の皆さんは忘れているかもしれませんが1年に1度生徒会予算案の決議があります。
それは全校生徒で行い、過半数を取ると予算が決まるということでした。

僕は出口戦略は全く考えていませんでしたが、僕が変えれるところはそこしかないと思いました(あとは全て先生が決裁権を持っているため)
当日もちろん僕たちが予算案を作ったわけではなく、先生が作った予算案を決議することになりました


私たちが予算案の会議で決めれるところは採決の仕方でした
普通は「賛成の方は拍手をお願いします」でみんな拍手して終わります


それだと何も変わらないので「賛成の人は手を挙げてください」に変更しました。
そうするとわざわざ手を挙げる人が少ないため予算案は否決されると思っていました。
そして実際に「賛成の方は手を挙げてください」と言うと誰も手をあげていませんでした。僕は心の中ですごく喜びました


普通ならこれで否決されると思うのですがなんと先生が舞台袖から司会にもう一度言うように促しました
もう一度「賛成の方は手を挙げてください」というとバラバラと手を挙げ始めたのです
僕はイライラが止まりませんでした。なぜ賛成0だったものを再採決するのか意味が分からなかったからです


あのときステージにいた僕は今でもキレるべきだったと後悔しています
そんな中国みたいなやりかたするなら多数決なんかするべきではないし、それがこの高校の教育方針なんだと思いました

僕は教室に帰って悔しさのあまり本気で泣いてしまいました
そして僕はついに何も学校を変えることができないまま
生徒会長を終わることになります




時間軸を戻します


短期留学を終えた僕は生徒会の活動にかなり力を注いでいました
そんな感じで12月になりました。
12月といえば僕たちの学校はデパートを開催します。
文化祭が無い代わりにデパートを開きます


経営などを疑似体験できる貴重な時間です
いろいろなお店が出店し、保護者や地域の人がたくさん訪れます
一年生は生活用品部門で不人気な部門でした
僕はマネージャー(クラスのリーダー)をしていました
ですが、先生がほぼ仕切ってしまったので割愛します

2年生では「八百屋部門」になりました
ちなみに部門はくじ引きで決まります。
これも2年生の中では一番不人気でした。
保護者や地域の人は文化祭の気分で来ているのに野菜を買っていくなんて少し考えればわかりますよね(笑)
今回も僕はマネージャーになりました

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野菜は1年生の時に最後まで余っていて買う人も付き合いで買うことが多い印象でした。
さらに段ボールに入れて販売しており野菜の種類も特色は無かったです
僕はその感じを変えたかったです


むしろデパートに来て野菜を買って帰りたいと
思わせる八百屋をやりたかったのです。


そのためにどのような野菜や方法なら買ってもらえるか考えました。


するとここでしか売っていないような
特別な野菜とオシャレな雰囲気があれば
お客さんが納得して買ってくれる八百屋になると思いました


そのために地元で無農薬なあまり見たことが無い野菜をネットで探しました
お店の雰囲気はヨーロッパのマルシェ風を目指しました
仕入れ先をネットで探していると近くに無農薬の野菜を作っている人を見つけました


すぐに連絡をして見学されて欲しいと依頼しました
見学に行くとどんな思いで野菜を作っているのかを教えてくださいました
無農薬で色付き大根やネギなどを作っており、帰りに少し分けてくれたのですが、めちゃくちゃ甘くて人生で食べた野菜の中で一番美味しかったです
僕たちは甘い感じで見学に行っていたので少し怒られました(笑)
パイプを吸っていてしぶい感じでした(笑)

さらに見学した時の映像を編集してどのような人が野菜を作っているのかわかるように店頭にテレビで流しました
僕たちが開拓した仕入れ先はいまだにデパートで付き合いがあるみたいです
なんか嬉しいですよね(笑)

仕入れ先を確保した僕たちは次に店内のレイアウトなどを考え始めました
各クラスに1万円が支給されその中でやりくりしないといけません

木箱に入った野菜ってなんかおしゃれですよね
ということでネットで木箱を探したのですがどれも高いです一個3千円ぐらいして10個は必要だったのでとても手が届くようなものではありませんでした。


そこで同じクラスの友達の親が廃材屋をしていたのでそこから廃材をもらい自分たちで木箱を作ることにしました
廃材と言っても釘が刺さっていたりボロボロだったので一つずつのこぎりで切り、手でやすりをかけていきました
作業場所は生徒会室を勝手に使いました(笑)

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*多分あの当時日本一汚かった生徒会室


次第にみんなが協力してくれるようになり、時には夜9時まで作業することもありました。その木箱も今でも受け継いで使ってくれているみたいでめちゃくちゃ嬉しいです



ですが毎日の夜遅くまでの作業(帰ってからもしていた)で疲労は溜まっていきました。

そんな時に事件は起きました

デパート開催前日は丸一日準備でした
気合を入れて少し早い電車に乗りいつも通り学校に向かっていました
突然電車の中で胸がドキドキするようになりました
最初は緊張しているのかなーと思っていたのですが明らかにおかしく脂汗をかくほど胸が苦しくなりました


これはやばいと思い電車の中で、心肺停止などになると一秒を争う事態になると思い電車を降りなければいけないと思いました
そして電車が駅に到着する少し前に立ち上がりました
すると頭がスーっとした感じになり気を失ってバタンと倒れてしまいました
この瞬間倒れながら「あ、俺死ぬのかな」と思いました


ですがすぐに意識を取り戻した僕は何とか電車を出ることができ、柱にもたれかかった感じで倒れていました。
すると女性が「駅員さん呼ぼうか?」と言ってくれて僕はうなずきました
救急車も呼んでくれましたが来た頃には何事もなかったかのように落ち着いていました。そのあと一応検査を受けて学校に戻りました

みんなが心配してくれましたが、準備することがたくさんあったのでどんどん準備をしていきました

そして当日になり、珍しい野菜やおしゃれな雰囲気ということもありお店は大繁盛しました。
1年生の頃は最後の最後まで生徒に押し付けて売っていた八百屋部門はそんなことをする必要も無く完売しました




そして年末には東京でStartupBaseU18というイベントに参加しました
このイベントは出会ったばかりの人たちとチームを組みビジネスアイデアを実行し、MVP(最小構成のビジネス)を作ることが目的のイベントです

そこで僕はAGOというサービスを考えました
旅が大好きだった僕ですが、高校生ということもあり、お金がありませんでした。
その問題を解決するために考えたビジネスアイデアです。
内容はTシャツやリュックなどに企業の宣伝になるものをプリントし、観光地で着用してもらう、ただそれだけです。
大きな割引にはなりませんが、1日1000円ぐらい割引になればいいと思っていました。

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*こんな感じで青春してました笑

実際にチームでこのビジネスアイデアを実践することになりました。
実際に少しでもこのビジネスアイデアを実行することがこのイベントの目標なのでまず、どうすれば最小構成で実行ができるか考えました

その結果、当時流行っていたポルカという少額クラウドファンディングサービスを使ってスポンサーを集め、浅草で実行するという結論になりました
2700円をポルカで集めることができ、そのお金で実際にボードと一緒に写真を撮ってくれる人を探しました
外国人を含む3組が協力してくださり、MVPを作ることができました

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*浅草での一枚

そこからこのメンバーとAGOを実際にビジネスにするために動かしていくことになります。




そして東京滞在が終わると僕はその足で長野に向かいました
実はAmoRideのメンバーが長野で人を集めて面白いことをするから来ないかと言われ向かいました
彼の名前はSSくんとします
僕はわけもわからずノリで長野に向かい、たくさんの人と出会いました
このSSくんは僕の人生にとって今後重要な役割になります

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*初の雪国で興奮して撮った写真

そして年が明けた3月にそのイベントが開催されるということで長野に向かいました。ちなみに当時お金を節約するために東京や長野に行くのは全て青春18きっぷを使い鈍行で13時間ぐらいかけて向かっていました(笑)
今でも東京に行くとなったら電車で行くと思います
長野県須坂市という所の魅力をHPで伝えるという企画だったと思います


【高校3年】

充実した春休みが終わりついに高校3年生になりました
5月には航空券が安かったので、1人で台湾に旅行に行くことにしました
親はそのことを許してくれないと思っていました。

なので僕は作戦を考えました。
航空券を買ってから行くことを報告すれば「まぁしょうがないか」と言われるのではないかと思いその作戦を実行することにしました。

すると最後まで反対されましたがLCCのチケットのためキャンセルができず、最後には許してもらえることができました
土日を挟んで3泊4日で行ったため学校を休むことになりましたが、先生は英語の先生で海外には理解があり、すんなりと理解してくれました

初めての一人海外はドキドキでした
台北の有名どころを周り、ご飯は屋台でたべました
全部込みで4万円ぐらいぐらいだったのでレストランなどは行けなかったと思います

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*緊張した一人旅


ここから海外旅ラッシュが始まります

7月の終わりから8月の最初にかけてからは当時一番仲良くしていた友達と韓国に行きました
下関から船で釜山に行きました

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*スポンサー様の名前入り写真

その旅行ではスポンサーを募集し、往復の船代ぐらいの資金を集めることができました。
釜山は刺激は少なく、カルチャーショックも少なかったです
街はきれいですし治安も悪くない。料理以外は日本とそんなに変わらない印象でしたが、非常に楽しい旅行になりました

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*すごく美味しかったテジクッパ(豚骨スープ)


このあたりから自分を「高校生バックパッカー」と名乗るようになりました
高校生バックパッカー ツイッターと調べると当時は一番上に出てきており一定のブランディングには成功していたと思います

9月には大学の受験で東京に向かいました
そういえば大学の話をしていなかったのでしますね笑
当時の僕は進路のことなんか考えていませんでした。

ですが親からはなんとなく「行くとしても専門学校だよね?」みたいな圧力をかけられていました
親には100万までしか支援できないと言われていましたし、自分も大学についてはあまり選択肢にはありませんでした

何か面白い大学が無いか調べているとある時「教えない大学」と書かれた大学のHPを見つけました
この大学は完全オンラインの大学でビジネスやITについて学べる大学でした
普通の大学には行きたくないと思っていたのですが「教えない大学」と書かれていたので「ここいいね」と思い入学を志望しました


先生には反対されましたし、親も全面的に賛成ではありませんでした
様々な交渉をし、最終的にここを第一志望に決定しました
当時の葛藤をnoteで公開していたのでよければどうぞ
https://note.com/ponta0629/n/n82cc0ce54b8ehttps://note.com/ponta0629/n/n82cc0ce54b8e

9月は東京に2回行っていて中旬頃に友達の別荘にみんなで遊びに行きました

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*お昼は素敵なお店で新鮮な野菜を食べました


その時東京でやったのが人間モバイルバッテリー!
今思えばバカなことしてるなーと思います
リュックに大量のモバイルバッテリーを積んで秋葉原で充電しませんかーとひたすら叫んでいました
一人だけ充電してくれたかたがいてその方はニコ生の配信者で癖が強かったです。

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*秋葉原のメインロードにて撮影

そのほかにも自分の宣伝をするために渋谷でこんなボードを持って宣伝したりしていました

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*渋谷スクランブル交差点にて撮影

なんの目的も無くただ面白そうだからと思い一人でしていました笑
でもなんか楽しくて充実した毎日でした



そのあとは11月になり航空券が安いという理由で香港に行きました
もちろん一人です笑
航空券が税込み往復で12000円ぐらいだったと思います
安すぎますよね笑
香港は物価が高く、やりくりが大変だったのを覚えています

そこではバイト先の居酒屋で出会った香港人に会って案内してもらいました
お土産やお小遣いもくれて優しい人でした

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その次の日には深センに行きました
香港とは国民性も街の感じも全然違って楽しかったです
ですが電気街を堪能することはできませんでした

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その1ヶ月後の12月には楽天ITスクールというイベントに学校として参加し優勝はできませんでしたが、東京でのプレゼンも非常に勉強になったと思います。
昔からプレゼンは得意だったのでそこは評価していただき自分に自信がついたのを覚えています


そして12月といえば高校で開催されるデパートです
高校生活で一番の成功体験であり青春です
彼女はできませんでした、、、笑

3年生で最後のデパートということで気合を入れていました
抽選で僕たちはスイーツ部門を担当することになりました
スイーツ部門はこのデパートで最も人気のある部門で花形です


2年連続でマネージャーをしている僕は最後に企画部を担当することにしました。
CEOに立候補することも考えましたが、先生が選出するため破天荒な僕は選ばれないし、生徒会のように操り人形になるのが嫌だったのでやめました


そしてマネージャーは野球部のため実際には僕が多く稼働しました
なぜか今年から本部から最低仕入れ金額を設定され、その金額以上に仕入れなければなりませんでした
本部というのはCEOやCFOなどの幹部のことです

その金額はむちゃくちゃな金額で去年の売上の倍以上の設定されていたと思います
理由は毎年すぐに売り切れて機会損失が出ているからというものでした
ですがこの金額を見て僕はめちゃくちゃな理論だと思いました


去年のデパート全体の売上を来場者数で割り一人あたりどれぐらいお金を使っているか客単価を計算してみました
そして仮に今年も同じぐらいの客単価だとしたらスイーツ部門で80%ぐらいのお金を使わないといけない計算になっていたのです
お昼は屋台などある中で80%のお金をスイーツに使うとは考えられません
経営をしたことが無い僕もそれが不可能なことがわかりました

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本部におかしい数字だと言うと先生が設定したみたいなことを言い出し、先生に抗議すると数字を説明したのにも関わらずまぁ売れ残っても社員販売で全部売れるだろうと言っていました

なら何か客単価を上げる戦略があるのかと言うと抽選会をすると言っていました。
何円以上お買い上げで抽選券もらえるあれです!
しかも1等はお米。いや誰がそのためにわざわざ買うんや!と思いました笑

散々説得しましたが最終的に変更は無いまま仕入れをすることになりました
実は仕入れの最低金額はほとんど仕入れる内容が決まっていた後に指示されたものでした。
もう一度仕入れを見直しましたが、どうやっても既存の商品だけでは最低金額を超えることはできませんでした

なのでその他の商品を仕入れることになりました
時間がなかったのであまり議論することもなる決めてしまいました

実際に販売当日になるとどんどん売れますが大量に仕入れているため最終的にはすごく多くの商品が余りました
社員販売でも売れ残りが発生し、僕は商品を無料で配ることを考えていました。ですが本部から止められ廃棄することになりました

その数まんじゅう100個ほど

一個100円台前半だったと思います
捨てるという判断に僕は納得がいきませんでした
あれだけ説得して最終的には廃棄するのか、食べ物を粗末にしているように僕には思いました。
売れなかった悔しさともどかしさで教室で泣いてしまいました


デパートも終わり1月にはキャンプレという福山市立大学で開催されたイベントにも登壇させていただき、貴重なプレゼンの機会とともに初めて平日の何もない日に大学に入りました

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*理解できない文章 笑

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*キャンプレのチラシ

2月には1分で話せピッチイベントin岡山に参加し「人生は幸せになるためにある」というプレゼンをしました

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*イベントの集合写真

さらに同じく2月には福山から東京までの人生初ヒッチハイクをしました
母親に福山SAまで送ってもらい高速道路からのヒッチハイクでなんと1日で海老名SAまで行くことができましたが、そこからずっと車が捕まらずヒッチハイクを断念して電車で東京に向かいました

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*寒くて死にそうになっていた時に撮った写真

東京に行った理由はNESに参加するためです。
僕の人生を変えたNESに高校生最後の年にもう一度チャレンジしてみたいと思ったからです
ですが結果的にメンバーなどの問題で想像していたものではなくなっていて僕は途中で棄権しました

人生初の二郎ラーメンを食べたのもこの旅行中です笑
最初は全然美味しくなかったのですが、次の日には食べたくなっていました
僕はここから二郎にハマっていくことになります笑

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*人生初二郎は三田本店でした

高校の卒業旅行としてベトナムに1週間ほど滞在しました
これほど長い旅は短期留学以降はしていなかったのでワクワクしました
もう海外に行くのも慣れたものですが、今回のベトナムは少し今まで行った国よりハードでした

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*うまかった屋台飯


前半はホーチミンに滞在し、ベトナム戦争のことなどについて学びました
おいしいバインミーも食べました

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*バインミーとホーチミンで一番高いビル

ですがこのあと海外での旅最大の試練が襲ってくることになります
それは「体調不良」です
熱とだるさが僕を襲いました
さらに重い荷物をずっと背負っていることで肩がすごく痛くなりました
通常ならいろいろな薬を持っていていましたが今回の旅から荷物を少なくするために持っていく必要は無いと思い持ってきていませんでした


保険に入っていたので病院に行こうか悩みましたが、大したことは無いだろうと思い薬局で薬を買うことにしました
僕はホーチミンの薬局に行きサロンパスと薬を購入しました
ベトナムでもサロンパスは一般的な湿布として販売されていました
薬に関しては箱などはなく、シートで販売されているのでどんなものかはよくわからずに飲みました

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*問題の謎の薬とサロンパス

その後もあまり体調が万全ではないなか観光を続けました
僕は次にダナンに行きました
ダナンは日本でも人気になりつつある観光地でベトナム第3の都市でリゾート開発が盛んに行われている地域です。
韓国からの投資が多いため、韓国人が多かったです

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*ダナンの夜景と右手には有名な龍の橋

ですがついに体調が悪化し1日宿で療養することにしました
薬は飲んでいたのですが追加でのど飴みたいなのを購入しました
ダナンはそこまで都会ではないのでおじいちゃんがやっている薬局に行き英語が通じないなかジェスチャーで自分の症状を伝えました
ドミトリーの横のベットの人がタイ人の看護師さんだったのですが、この薬を飲んでいると言って見せたら「これはあまり良くない薬だね」と言っていて怖くなったのを覚えています

次の日は体調が良くなったと思い観光を再開しましたが山を登っていて山頂についた時にめちゃめちゃめまいがしてやばいと思った記憶があります
その時の写真がこれです笑

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その後もホイアンやフエなどを観光しました
フエではイベントで知り合った人とも合流し少しの間遊びました
なぜかノリでバイクタクシーの人と一緒に写真もとりました笑

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*世界遺産ホイヤンの町並みと川

そんな感じで無事にベトナムの旅を終えることができた僕ですが、改めてどのような薬かを調べるとなんと日本の基準料の3倍の成分が含まれていることがわかりました
つまりめちゃくちゃ強い薬だったのです
今思えばこの薬のせいで体調が悪くなったのだと思います笑
薬を飲むのをやめたら体調が良くなったので、、、



【大学1年生】

その後無事に高校を卒業し、僕は長野のイベントなどを開催していたSSくんに誘われ一緒にシェアハウスすることにしました
前回の東京訪問で泊まらしてもらったこともあり、部屋の感じもわかっていたのでその時から上京するかなやんでいました
親に上京したいと言うともちろん反対されました
ですが半年間だけということを条件に許してもらいました

当時僕の現金は10万円しか無く、その状態で上京しました
荷物を郵送することなくすべて手で運びました
青春18きっぷを使い鈍行で13時間ほどかけて東京に上陸しました
初めてここまで荷物を持って行動しましたが、もう絶対にやりたくありません笑
キャリケースの中には大きなデスクトップPCも入っており今思えばアホ過ぎると思います

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*実家の最寄り駅での一枚

シェアハウスとっても1LDK で自分の部屋はありません
そこに3人で住んでいました
そして大学の入学式に出席し、バイトはウーバーの配達員を始めました
書き忘れていましたが、上京した理由は
・人生で一度は東京に住んでみたい
・港区で光熱費、ネット込で月額4.5万円という破格で住めること
・楽しいと思える友達が多く東京にいたから
・インターンをしてみたい
こんな感じです

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*部屋はこんな感じの1LDKでした

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*部屋からはレインボブリッジが見えました

上京したての時は毎日ビジネスモデルを考えて議論してみたり、バイト先やインターン先を探していました

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*とある日のビジネスモデル

しばらく経つとインターン先を見つけ合格することができました
ですが行ってみるとコミュニケーションをとりながらクリエイティブな仕事をするイメージだったのですが、静かに黙々と作業していました。
さらに給料は完全成果報酬でお金をもらえるかわからない状態でした
そんな職場からブラックインターンかもしれないと思い1日でやめました


その後は近くの高級な焼肉屋さんでバイトをしていました
個人店でしたが自分にはあまり合わなかったです


そんな毎日が続きインターン先もずっとリサーチしていました
そんな時「タイミー」という日雇いバイトアプリが新しく「タダ旅」というサービスのβ版を公開していました
タダ旅というサービスは旅行先で少し働く代わりに旅費がタダになるというものでした
僕はそれの第一号として参加しました
タダ旅というサービス名なので旅行気分で行きましたが全然違いました

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案内されてた部屋は客室ではなく従業員用の部屋でめちゃくちゃ汚かったです。ごはんはバイキングの余り物ですがそれなりに美味しくお腹いっぱいいただけました

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*従業員用の部屋とまかない


ですが労働時間が長く1日8時間労働という普通に仕事をするのと変わらなかったです
その上給料は出ないので抗議したところ普通の客室に変更してもらい6時間労働まで減らすことができました
詳しくはnoteに書いたのでこちらを御覧ください
https://note.com/ponta0629/n/nb758445677c9


そんなタダ旅から帰ってきてからしばらくして一緒に住んでいるSSくんがあるゼミを紹介してくれました
そのゼミは1ヶ月に2回ほど集まり毎回違う話題について議論したりするゼミでした。
この場所は僕にとってすごく居心地のいい環境でした
僕の頭が悪すぎてついていけないこともありましたがうまく立ち位置を確立していたと思います

そこからこのゼミが僕の大学生感を出す場所になりました
BBT大学で学んでいると大学生感が圧倒的に足りないことに悩んでいました
友達にいつも会えるわけでも無いし、大人の人が多く若い人は少ないのでリアルの場はありますが何かが違うと思っていました
毎回議論したあとにみんなで食べに行くのですがそこでいろいろな話をするのがすごく楽しかったです

結局インターンもせず、バイトとウーバーをしながら大学とゼミに参加する日々が続きました
こんなはずじゃなかったと悩むことも多かったです
わざわざ東京に来て貧乏生活をする必要も無かったからです


そんな感じでダラダラしていると僕の誕生日がきました
6月29日が誕生日なのですがこの時僕は19歳になりました
一緒に住んでいた人や友達などが家に集まりパーティーを開いてくれました
こんなにも友達から祝ってもらえる誕生日は初めてでした
すごく嬉しかった記憶があります

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そしてどのあたりからかは忘れましたが住んでいたシェアハウスは最大6人で住んでいました
1LDKに6人で住むなんて今考えるとありえないと思います笑
なので徐々にみんなのストレスが溜まっていました
ただ家賃や光熱費は3万円ぐらいでした笑


僕は昼間は家にいてみんなは外出していたのでその時にゆっくりしていたのであまりストレスは溜まっていませんでしたが、今考えればみんな相当我慢していたんだろうなーと想像できます

そんな時にゼミの先生からバイトをしないかと提案されました
東レが毎年開催しているサマーキャンプで小学3年~5年を対象にしているイベントでした。僕はお金にも困っていたし楽しそうだったので参加しました
そのバイトは想像以上にハードでした
小学生のパワーに圧倒されました
なので学校の先生ってすごいなーと単純に感じました

ですがみんなからポンタ先生と言われ人生で初めて「先生」と言われる機会でした。最後はお別れするのが寂しかったことを覚えています

一方でシェアハウスは限界を迎え、8月末でついに解散しました
僕は住む場所を失いました。
一人暮らしするお金なんか無いし、もうすぐ広島に帰らないといけません
困った僕は友達の家を転々としました
いろいろな人にお世話になりました
まだ恩返しできていないのでいつかしないといけないと思っています

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*一番部屋が狭かったのに泊めてくれた仏様


9月中旬になりゼミの合宿が開催されることになりました
3泊4日の仙台方面での合宿でした
ですが僕の現金は2万円で参加できるわけがないと思っていました
ですがゼミの部長にとりあえず来いと言われ参加しました
人生初のゼミの合宿はめちゃくちゃ青春ですごくすごく楽しかったです

最終的に1万円ほどしか使わず、ゼミの先生がみんなの分を出してくれました。いつもゼミの飲み会でも全額払ってくれる先生で大変お世話になりました。
挨拶もせずに東京を離れたので本当に失礼なことをしたと思っています

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*みんなで泊まった一軒家

帰ってきてからも友達の家を転々としました
大学の寮に居候していたこともあります
そこでは酔っ払った人の看病をしていた記憶があります笑
こんな感じでトイレに連れていきすべて吐き次の日まで起きない人もいました笑

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実はシェアハウスを解散してからはめちゃくちゃ貧乏生活をしていてもやしと焼きそば麺を買って焼きそばを作って食べていたぐらいです
確か現金が3千円ぐらいしか無かったこともあります
それでもなんとか1日中バイトしてお金を確保しました


そして10月になるとシェアハウスで一緒に住んでいた人と中国の深センに行くことにしました
今でもどうやってお金を確保したのかは覚えていませんがなんとかなったのだと思います笑
その人が広島まで送ってくれることになっていたので帰る途中のセントレア空港から深センに飛び立ちました
ちなみに彼の実家が名古屋なので実家に荷物は置いていました

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深センや香港は一度行ったことがありましたが、今回は広州まで足を伸ばしました
ところでこの当時の香港というとデモが一番激しかった頃です
僕たちはデモが激化する前にチケットを取っていたので行くか悩みましたが行くことにしました

ですが宿をデモの開催地の場所だということを知らずに予約していたのでデモの日と被ったこともあり大変な状況でした
当時のことを忘れないようにメモしておいたので御覧ください


10月20日僕は香港のデモの真ん中にいた
僕たちのホテルのエリアはスタート地点なのでそこまでひどくはなかった

地下鉄が使えないのでスターフェリーで帰って来てホテルまで行くとゴーストタウンになっていた
ニュースになったモスクがホテルの50メートル先ぐらいにあった

好奇心と報道の事実を知りたくて前線に向かって北上してみた

徐々に状況は悪くなっていた
道はその辺のバス停やゴミ箱で封鎖され道にはゴミが散乱していた

さらに火炎瓶を投げ込まれたatm破壊されて警報やスプリンクラーで水浸しの中国銀行

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目の前で堂々と破壊行為が行われている
もちろん地下鉄の入り口もぐちゃぐちゃでそこらだらけにプーさんの張り紙や中国国旗や落書きがされていた
吉野家も破壊されていたし日用品売り場のお店は中がぐちゃぐちゃになっていた

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もう無法地帯だ
犯行は傘で隠されて見えないようになっている

さらに先に進むと戦争の準備をするかのように地面のレンガが破壊され、それをバケツリレーの要領で最前線に運んでいた

いきなり空気が変わりバケツリレーは解散して突撃ー!と言わんばかりにみんなが前線に行った
そのあと最前線では銃声が聞こえてきた
たぶん200メートル先ぐらいだったと思う
警察の姿は目が悪いから見えなかったが

2回ほど銃声が聞こえて大慌てで走った
途中に大きな水溜まりがあったがそんなことは気にしなかった
50メートル先で爆発が起きたりもしていた
僕は危険を感じて前線を離脱することにした
帰っていると普通に歩いて前線に向かってるる人や走って向かっている非デモ参加者もいた

このことから挟まれていると感じたのでお弁当を配っていたデモ参加に話しかけるとホテルのエリアは安全だと言っていた
彼が言ったのは警察と目を合わせると怒ることやゆっくり歩いていけば問題ないことを教えてもらった
警察は見なかったし無事にホテルに帰ることができた


このような感じでひどかったです
今回実際に目で見て感じたことはデモ隊は必ずしも平和的ではないということです。一部で暴徒化していましたし一般市民を殴ることはありませんが、多くのものを壊していました

そして10月末に無事に帰ってきた僕はすぐに元バイト先に戻りバイトを始めました
実家に帰ってきた目的として海外にもっと旅をしたいと思ったからです
東京にいると生活費からどうしてもキツキツな生活だったので海外に行く余裕など一切ありませんでした

なので帰ったらたくさん旅に行こうと思っていました
資金を貯める期間としてある程度のバイトをし貯金もしました
気づいたら年が明けて2020年になり、焦りを感じていました
その間に地元の福山で開催されたStartup Weekendというビジネスコンテストにも参加しましたがあまり貪欲な人がいなく、ぱっとしないまま終わりました

この辺から世界中が今も戦っている「コロナ」が襲ってきました
僕はそんな中でもすぐに終わるだろうと思い旅の準備を進めていました
学費を払うと旅に行けなくなるので休学もしました

そんな時に悪魔の「痔瘻」が帰ってきました笑
また中2の時と同じ症状が出て今度はすぐに気づきました
なので早い段階で病院にいきました
すると入院が必要な手術をすることになりました笑

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*病室の窓からは毎朝マスクを求めて行列ができてました

前回の手術は応急処置のようなもので再発するようならちゃんと手術をする必要があるということを先生に言われました
バイト以外予定が入っていなかった僕は翌日から入院しました
初めての本格的な手術はすごく緊張しました
手術室には音楽がかけられていてある程度リラックスできましたが結構な汗だったことを覚えています
下半身麻酔でほぼ下半身が動かなくなり、痛みは一切ありませんでした
手術が終わり、僕は赤ちゃん以外で初めておむつを履きました笑
写真も取りましたが気分を悪くされる方がいると思うので自粛します笑

一週間ほど入院し僕は退院しました
その後もしばらくナプキンをつけて生活しました


【大学2年】

2020年4月から大学2年生になりましたが、休学していました
当時はコロナが広がっていて休学中に旅はできないと確信しました
居酒屋のバイトは休業で仕事がない状態が続き僕は何をしようか悩みました

ラジオをしてみたり、ウーバーの配達員をしてみたりしました
あとは3日間断食したりもしました
ですが長期的な目標は定まらずただダラダラ過ごす日々が続きました

そんなことをしているとあっという間に誕生日がきました(6月29日)
最後の10代何かやり残したことは無いかと考えました
そんなことを考えながら20歳になったと思います

合法的にお酒が買えるようになった僕は日をまたいでからお酒を買いに行って友達と飲んでいたと思います笑

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*妹からもらった誕生日プレゼントのステーキ

20歳になってからすぐにやりたいことは決まっていました
それは証券口座の開設です
昔から投資には興味がありました
説明は省きましたが仮想通貨は2017年のブームのときに購入していましたし18歳になった時には海外のFX口座も開設しています。
もちろん勝ってはいません笑


トータルで10万円ぐらいは負けていると思います
ですが投資をやるならほとんどの人が最初は負けることを知っていたので若いうちに失敗していたほうが金額が少なくて済むと思っていました

事前にどの証券口座にするかは決めていました
なので誕生日当日に証券口座を作りました
SBI証券と楽天証券を作りました
SBI証券は短期投資(数週間~数ヶ月)
楽天証券は投資信託の積立をしています

初めて買った銘柄は三越伊勢丹です笑
安易な感じで購入してしまいました
ですが1200円ほどの利益が出てすぐに利確しました

今は積立投資を中心にしています
短期投資はタネ銭が無いので笑


そんなことをしていたら9月が迫ってきました
そう学費の支払いです
多分お金をかき集めればなんとか支払いができると思いましたが資金が圧倒的に少ないと当時は思っていました
しかもバイトはコロナで少ないので地元で他のバイトを探すことにしました
ですがいい条件のバイトが見つからないのでリゾバなども検討しました
そんな時に大学のグループラインでバイトの募集がありました

僕はそこで働くことにしました
場所は山梨県で毎日8時間ほど働いて日給9000円という条件で寮費や食費は会社が負担してくれるというものでした


実際に行ってみると話と全然違うところでした
最もおかしかったのは毎日12時間ぐらい働かされるところでした
日給なので9000円固定ということで僕は一週間ぐらいでそこをやめました
労働監督署に相談することも考えましたが、一週間しか働いていないので労力のほうがかかると判断しやめました

紹介していた人はBBTの学生ですがその人とは一生関わりたくないです
BBTの生徒の方は注意してくださいね笑

一週間だとまともにお金を稼げなかったので僕は何も考えず東京に向かいました。前にシェアハウスしていた人の家に泊めてもらいました
東京ではENEOSでんきの営業をしていました笑
給油に来た人に話しかけてその場で契約してもらうというものでした
時給は1200円と高かったですが夏場なのでハードでした笑
結局東京でもそこまでまとまったお金を稼ぐこともできず実家に帰りました

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*二郎は何度か食べました笑


8月の中旬に帰ってきましたがそこからは旅行などは行きましたがあまり刺激的なことはありませんでした

刺激を求めて10月には地元で開催された起業体験イベントみたいなものに参加しましたが、しっくりくることなく終わりました
ですがイベント終わったあとの飲み会では人生で一番酔っ払いました笑
その飲み会はめちゃくちゃ楽しかったです(大学生感があった)

そのあとは旅行には行きましたがそれ以外面白いことはしていないです


【まとめ】

こんな感じでめちゃくちゃ長い感じになりました笑
人生で一番長い文章を作りました。

小学生~中学生を思い出しながらキーボードを打っているとたまにしんどくなることや涙が出てくることがありましたが文字に起こすことで当時の感情を整理することができたのではないかなーと思っています

高校生を思い出している時はこんなにも自分は行動していたのだなと今の自分と比較してしまいました
大学生になってからは行動することが少なくなり、何かモヤモヤする日々が続いています
どこかで吹っ切れる瞬間が来るとは思いますがどんどん行動力が落ちてきている自分に焦りも感じています


大学生になってから大きく変わったことは夢が無くなったことです
小学生の頃からなんとなく起業だとか社長だとか一貫した夢がありました
今は無理にその選択もする必要が無いと思っています
起業は必要な時にやるべきだと思います
今までは起業することを目的にしていましたが手段と認識した瞬間に夢が無くなりました

なのでここ2年ぐらいはそのような状態が続いていてどこに向かえばいいかわからない感じです
それが僕の今抱えている最大の課題です
ただ深刻には捉えていません笑
自分のやりたい方向にしっかり進んでいけば大丈夫と信じています


最後は自分に向けてジョブズの有名な言葉で終わりたいと思います


Stay hungry, stay foolish
ハングリーであれバカであれ

今後の旅の資金として使わせていただきます ちなみに自分より他人にお金使ったほうが幸せになるらしいよ