幸せとは何か

こんにちは。

たぬきさんです。

ブログに書くほどでもなく、Twitterで収まるわけでもない。

そんな、垂れ流しの話を、吐き出す場所がなかったので。

なんとなくですがここに載せようと思う。


幸せとは、何か。

これは、自分が悩んだ時によく思うことだ。


元々、幸せという考えがあまり好きではない。

子供がいるから幸せだ。では子供がいなければ幸せではないのか。

今日は天気がいいから幸せだ。では天気が悪ければ幸せではないのか。

そう、いつも。

幸せを思うと、それは比較の話になってしまう。

つまりは、幸せを思うたびに不幸が産まれるのだ。


なので、比較での幸せは危険である。

不幸をどんどん作る。

そのことを肝に銘じながら生きている。


そんな自分が、Twitterでは毎日のようにハピハピ言っている。

これは、言葉から感じるイメージの明るさが気に入っているから。

本当を言うと、ワクワクウキウキ何でもかんでも前向きに考えればいいことあるよ、みたいな浅いスピ系みたいなものと一緒にされたくないと思うし、そういう前向きに生きれば見たいなのは嫌いなくらいだけども。

なぜだか自分が言っている。


今日もハピハピ良い一日を。

それは、願掛けのプレゼントのようでもあり。

共に、生き抜こうという宣言でもあり。

どんなことがあろうとも、自分の気持ちは自分で決められるんだ、という願いでもある。


私の、座右の銘は塞翁が馬なのだが。

幸せについて考えるときの、基礎になっている。

良いことがあるように、という短絡的な願いではなく。

良い方向へ向かうように、そのように願うようにしている。

目の前が下り坂でも、それが本当に不幸なのかはわからないということ。

常に最善なのだ。

そう思うことで、適度に緊張がほぐれ、むやみに落胆しないようになる。


そして、自分の人生について。

最善なのは何なのか、良い方向とはどちらなのか、についても考える。

表面的なゴールとしては、生き残る方が最善なのだと思う。

長生きし、生き残る選択を続けるということ。

今までの人生で、あちらの選択をした方が良かったのではないか、と思うことはたくさんある。

そんな時に、あちらの選択をしたら死んでいたかもしれない。

唯一の生存ルートを自分は今生き残ってきているんだ。

そんな風に、思っていた時期があった。

今でも、そう思うことはある。


ただ、最近。

死ぬことは、不幸なのか。

と思うようになって、このことについてボーっと。

それは信号待ちやお風呂の中や、ふとした時に目の前に出てきては物思いにふける。

死ぬことは不幸なのか、私たちは、不幸に向かって生きているのか。


そんなことを思いながら。

今日もハピハピ言っている。

過去に生まれたほとんどの人々は今生きておらず。

先頭で生きているわずかな人の中に自分はいる。

ただ何者になるわけでもなく。

何を成し遂げるでもなく。

ただ生きて、死んでいく。

その中で、何ができて。

何をしたいのか。

そんなことを思う。


明日死ぬかもしれない。

だから、良く生きようと思うのか。

だから、自暴自棄に生きるのか。

それを選べるのは自分。


目の前に、リンゴが一つ。

そのリンゴは幸せなのか。

一度、ゆっくりと考えてみてほしい。

静かな喜びを、持っているように見えないか。

私たちはそのリンゴと同じ。

ただあるだけなのだ。


死の先を、含めての最善とは何なんだろう。

死が最善の場合はあるのだろうか。

苦しくとも生きる。

それは誰の望んでいることなのだろうか。

なぜ死んではいけないのだろうか。


私は、それでも生きるを選択してきた。

それは、当たり前のことではなく。

でも、尊いでもなく。

意味はなく。

ただ、一瞬の喜びとか、感動とか。

気持ち動く瞬間の目に見えない自分というものが。

心臓の動く間にだけ宿る意思というものが。

いま感じられるならそれはとても素晴らしいことで。

自分というものが生きている、それだけで泣けてくるのだ。


過去には戻れず、未来は分からず。

気づけは死の当日になっているであろう今というものに。

一体、何を感じて生きていこうか。


今日もハピハピ良い一日を。


読んでいただきありがとうございました(^^♪