44)必要としている人の目に触れるために

ちょっとした思いつきに舞い上がるとき、即座に、まあ自分が考えるくらいだから世の中のほかの誰かも同じようなことを考えているに違いない、それをすでにどこかに書いているはずだ、と思ってしまう。それなのに自分がおぼつかない文章で書く意味などあるのだろうかと気持ちが引けてしまうのだけれど。

あるテーマについて思わず熱っぽく語り合ったあとに、ぼんやりと気にかかっていた二つのことが突然ぴたりとかみ合った。そうか、そういうことか、とひとりで納得しながら、いつものようにもう誰か書いている人は必ずいるはずだと冷静になって、文献探しを始めた。それほど多くはないだろうと予測してはいたが、実際、なかなか見つからない。それでもやはり、一つの記事にたどり着き、初めて手に取ったその雑誌を読んで、まさに我が意を得たりとうれしくなった。

せっかくなので次の機会には同じ相手にその記事を読んでもらい、話はさらに深まっていった。そのときに、「『季刊刑事弁護』なんていう本があるんですね、こうして紹介されなければ一生手に取ることもなかったでしょうね。」と感慨深そうに言われて気がついた。

畑違いの専門雑誌など、めったなことで人は読まない。存在に気づきもしない。今、自分が困っていること、悩んでいること、知りたいと思うことのヒントが、意外にもそこにあると気づくには、なにかのきっかけが必要なのだ。  

専門分野だの業種だのという枠組みがあっても、ひとりひとりの人間の興味関心はその人の歴史と生活に基づいてそれぞれに分野横断的である。他人とその重なり合いを共有しつつ、はみ出しを提供し合うことで見える世界が広がっていく。 

気が多くてあちこちに首を突っ込む自分は、その重なりとはみ出しのバリエーションが他人より少し多いように感じている。ある分野で常識と思われていることが、他の分野では関連があるのに知られていなかったり誤解されていたり、場合によってはさらに先に進んていて古い常識とされていたりする。そのちぐはぐに直面してため息をつくことが多いが、むしろ、そのズレに気づく機会が多いこと自体が強みなのかもしれない。

渦中の問題が、別の畑ではすでに解決済みということさえある。そんなヒントを、必要としている人の目に触れるように橋渡しをすることができたら、ささやかながら誰かの役に立てるということか。

2020/02/01

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