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勉強

会社に勤めていた頃のこと。

一時期、情報システム部門に配属されていた。

勤めていた会社の子会社に、情報システムを開発運用する会社があったのだが、勤めていた会社とその子会社とで、将来のICTについて調査研究するグループが作られたことがあった。勤めていた会社の情報システム部門の数名と、子会社の開発スタッフ数名が参加することになった。

集まったメンバーで、それぞれの夢や理想を語り合い、持っているスキルを披露し合うことに期待をしていたのだが、そのような展開にはならなかった。

特に、子会社から参加したメンバーは、夢や希望を持って情報システムの会社に就職したわけではなく、ただ、会社に就職して、給料をもらうために、情報システムを勉強したに過ぎなかった。

おそらく、高校進学のときに、人数で専攻科を割り振られたような感じだったのだろう。情報システムを勉強したかったわけでもなく、将来情報システムの仕事に就きたかったわけでもなく、ということだったのだろう。

その調査研究するグループは、何らの議論もなされず、一度も会合を開くことなく、自然消滅してしまった。

昨今、小学生のプログラミング教育ということが言われているが、おそらく、一定の成果をあげるだろうが、その一定以上の成果は上げないことだろう。

一定の成果とは、最低賃金未満の給与を受けて、情報システムの開発運用をするマンパワーが多少は増えるだろう、ということだ。これはつまり、ICT土方というものだ。

僕は、ICTについては、学校では学んだことはない。すべて独学だ。独学ゆえの限界はあるが、半面、独学ゆえに限界はない。多くのプログラミング言語を学び、売れることのないプログラムを書き、失敗してきた。

Houdini のプロシージャルな世界にすぐに対応できたのは、そんな背景があったからなのだろう。

学校で勉強する必要はさらさらないし、教える必要もない。多くを教えなかった宮沢賢治の授業が、至上の授業のひとつと言われる所以を、人々は、よく噛みしめて、咀嚼しなければいけない。

学校で勉強することなんて、勉強のうちには入らないと言っていい。そこを多くの人たちは勘違いをしている。


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