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「自己責任」と「勇気」の話(荒井裕樹)

連載:黙らなかった人たち――理不尽な現状を変えることば 最終回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2019年2月1日にWEB astaで公開された記事を転載したものになります。

 これまで、連載「黙らなかった人たち」をお読みくださり、ありがとうございました。約一年間続いた連載も、とうとう最終回です。
 このコラムでは、「言葉」という観点から、現代社会の生きづらさについて考えてきました。今回も、ある一つの言葉をご紹介して、連載を終えたいと思います。

「自己責任」の妙な不気味さ

 私がいま、とても不気味に感じている言葉の一つに「自己責任」があります。昔から用例のある言葉なのですが、現在のようなかたちで使われ出したのは、2004年の「イラク邦人人質事件」がきっかけでした。

 イラクの武装勢力に拘束された邦人を救出するために、多額の費用と労力がかけられた。そのことへの批判が、危険地帯へと「自らの意思」で赴いた当人たちへと向けられた。特に政府要人や国会議員からこの言葉が発せられ、一般の人々もその尻馬に乗るかたちで壮絶なバッシングが起きた。結果的に、同年の「流行語大賞」トップテンに入るほど「自己責任」が世間に溢れた。
 当時の状況は、概してこのようなものだったと記憶しています。

 最近でも、シリアで拘束されていたジャーナリストが解放された際、この言葉が飛び交いました。
 すでに多くの識者から、「自己責任論」の危険性や誤りが指摘されています。私も、当時からこの言葉に、妙な不気味さを感じていましたが、何だかその気味悪さが、最近ますます色濃くなってきたように思います。

拡大する「責任」の範囲

 私は「自己責任」という言葉に、おおむね次の三点において不気味さを覚えています。
 一つ目は、「人質事件で騒がれた時から意味が拡大し過ぎている」という点です。実際、この言葉は「社会の在り方を問う場面」に飛び火しつつあります。
 例えば、女性が性暴力の被害に遭うのも「自己責任」。不安定な雇用形態で働くことを強いられるのも「自己責任」。病気になるのも「自己責任」。貧困状態におちいるのも「自己責任」。仕事と育児の両立に苦しむことも「自己責任」。ブラック企業に入ってしまったのも「自己責任」。
 これまでも、病気・貧困・育児・不安定な雇用などで生活の困難を訴える人が、「甘え」「怠け」といった言葉でバッシングされることはありました。しかし近年では、こうした場面にも「自己責任」が食い込んできたようです。
 そういえば、原発事故で「自主避難」された人たちのことも「自己責任」と言った大臣がいました。被災や避難が「自己責任」だとしたら、次はどんなことが「自己責任」とされるのでしょうか。

封殺される社会への「問い」

 二つ目は、「自己責任」が「人を黙らせるための言葉」になりつつある、という点です。
 社会の歪みを痛感した人が、「ここに問題がある!」と声を上げようとした時、「それはあなたの努力や能力の問題だ」と、その声を封殺するようなかたちで「自己責任」が湧き出してきます。
 これは例えるなら、老朽化した建物で誰かが床板を踏み抜いてケガをしてしまったとして、建物の補修や改修を考えようするのではなく、ケガした当人を「不注意」「運が悪い」と罵ってお終いにするようなものです。
「この建物は古くない。危なくない。悪いのはあの人」といった発想に基づく言葉だと思います。

削がれるのは「痛み」に対する想像力

 三つ目は、この言葉が「他人の痛みへの想像力を削いでしまう」という点です。
「自己責任」という言葉には「自らの行いの結果そうなったのだから、起きた事柄については自力で何とかするべき」という意味が込められています。
「自己責任論者」からすれば、この社会で何か痛ましい出来事が起きたとしても、それは他人が心を痛めたり、思い悩んだりする必要はない、ということになるのでしょう。
 しかし、性暴力も貧困も病気も育児も被災も、「自分に起こり得ること」です。いまは誰かの身に起きていることかもしれないけれど、いつ自分や、自分の大切な人に起きてもおかしくはありません。
 にもかかわらず、「自己責任」という言葉は、そうした感覚を削いでしまいます。使えば使うほど、「他人の痛み」への想像力を削いでいくように思うのです。

声を上げる人たちは「特別」なのか

 こうした言葉が溢れ、社会に降り積もっていけば、ゆくゆくは、社会問題を告発しようとして、勇気を出して声を上げる人がいなくなってしまうのではないか。そんなことを危惧しています。
 しばしば、「社会問題を告発する人」は、特別な人で、選ばれた人で、勇気のある人だと考えられています。確かに、「社会問題を告発する」というのは「勇気」の要ることなので、そうした声を上げる人たちが「特別」に見えることはあります。しかし、「声を上げる人たち」が、はじめから「特別」であるということはありません。
 少しだけ歴史を振り返っておきましょう。

 戦後日本の障害者運動は、ハンセン病療養所や結核療養所からはじまりました。特にハンセン病患者たちの「らい予防法闘争」(1953年)と、結核患者だった朝日茂が起こした「朝日訴訟」(1957年提訴)は、人権闘争の先駆的な事例です。
 この「らい予防法闘争」に尽力した人物に、森田竹次(1910―1977年)という人がいます。戦前から療養所の中で言論活動を行い、戦後も人権闘争に奮闘しました。その森田が次のような言葉を残しています。

人間の勇気なるものは、天から降ったり、地から湧いたりするものでなく、勇気が出せる主体的、客観的条件が必要である。
(森田竹次「勇気についてー患者の立場からー」『愛生』1954年、『森田竹次■評論集 偏見への挑戦』長島評論部会、1972年、収録)

「孤立した勇気」を戒める言葉

 森田の発言を、私なりに噛み砕いて説明してみます。
 差別されて苦しむ人に対して、しばしば「勇気を出して立ち上がれ」といった言葉がかけられることがあります。しかし、森田はこうした言葉を厳しく戒めています。
 というのも、差別されている人は精神的にも経済的にも追い詰められていることが多く、そうした人が孤立した状態で立ち上がれば、間違いなく社会から潰されてしまうからです。

 そもそも、差別と闘うことは恐ろしいことです。そんな恐怖を前にして、人はそう簡単に「勇気」など出せるはずがありません。
 だからこそ、差別されている人に「勇気を出せ」とけしかけるのではなく、勇気を出せる条件を整えることが大切で、そのためには孤立しない・孤立させない連帯感を育むことが必要だと、森田は訴えています。

 森田は、孤立した弱者は「犬死にする」とも指摘しています。「犬死」という言葉を使うあたり、この人は差別されることの恐ろしさを骨の髄まで知っていたのでしょう。だからこそ逆に、差別との戦い方も熟知していたはずです。
 森田の言葉は、一読すると厳めしく見えるのですが、人は独りでは闘えないことを認めているわけですから、とても現実的な発言でもあります。「人権闘争」や「差別との闘い」と書くと、いかにも偉大で崇高なことのように見えるのですが、実際に声を上げる一人一人は、恐怖心をもった生身の人間なのです。
 森田の言葉は、こうした事実に改めて気付かせてくれます。

「言葉」は、それだけでは成り立たない

「言葉」には「受け止める人」が必要です。「声を上げる人」にも「耳を傾ける人」が必要です。
 しかし、「自己責任」は、声を上げる人を孤立させる言葉です。最近では、声を上げた人を孤立させて「犬死」するのを待つような嗜虐的な響きさえ帯び始めてきたように感じられます。
「従順でない国民の面倒など見たくない」という考えをもった権力者は、今後も「自己責任」という言葉を使い続けていくでしょう。国民が分断されていることほど、権力者にとって好都合なことはないからです。

 権力者がこの言葉を使うことは、とても腹立たしいことではありますが、不気味なことではありません。私たちが、そうした権力者を支持するかしないかの問題ですから。
 私が真に不気味に思うのは、むしろ一般の人たちが、この言葉を使って互いに傷つけ合うことで、「他人の痛み」への想像力を削ぎ落としていくことです。

 森田竹次の言葉を、私なりに発展させるならば、「他人の痛み」への想像力は、人々が社会問題に対して声を上げるための「勇気」を育む最低限の社会的基盤です。
 いま、「自己責任」という言葉の氾濫によって、この社会的基盤が危機的なまでに浸食されている。私はそうした危機感を抱いています。

「黙らされた人たち」による「黙らせ合い」の連鎖

 もう少しだけ、掘り下げさせてください。
「自己責任」という言葉は、これからも氾濫し続けると思います。特に、この言葉で切り捨てられた経験を持つ人が、自分と似た境遇にある人に向けて、この言葉を投げつけてしまう。そうした事態が連鎖的に起こっていくことを懸念しています。
 というのも、傷つけられた経験を持つ人は、時として「自分を傷つけた論理」を、自分と似たような境遇の人に対して振りかざしてしまうことがあるからです。

 どれだけがんばっても報われなかったり、理不尽なかたちで傷つけられたりした経験を、「自己責任」という言葉で受け入れさせられてきた人たち。
 社会の在り方に怒ったり、困難な状況の中で助けを求めたり、といったことを「してはならない」と思い込まされてきた人たち。
 そうした人たちの目に、この社会を問い返そうとする人の姿が「無責任な振る舞い」として映ってしまうとしたら、これほど不幸なことはないと思います。
 特に近年、社会に蔓延している「緊縮」という風潮が、こうした事態に拍車をかけるのではないか。

「国にお金がないのだから公に助けを求めるな」
「自力で生きられる者だけが生きる資格がある」
「パイが少ないのだから競い合うのは当然」

 こうしたムードに苦しめられた人の口から、「自己責任」という言葉がこぼれてしまうのではないか。
 同じような境遇の人たちが、互いに牽制し合い、黙らせ合っていくのではないか。
 こうした負の連鎖に歯止めがかからなくなり、その結果生じた分断が、社会問題を問う「勇気」を生み出す基盤を破壊してしまうのではないか。
 そうした懸念を持っています。

「黙らなかった人たち」、そして「理不尽に抗う方法」

「自己責任」という言葉は、だれでも使えますし、だれにでも使えます。こう書いている私自身、少し気を抜けば、この言葉を呟きそうになることがあり、背筋が寒くなることがあります。
 この言葉が溢れている現代は、「いつ、だれが、どんな理由で、だれから虐げられるかわからない状況」に突入していると思います。私たちは、「自分が理不尽な目に遭ったとき、どうやって抗うか」を考えながら生活しなければなりません。

 ただ、このように書きつつ、こんな疑問が湧いてきます。
 そもそも、私たちは「理不尽に抗う方法」を知っているでしょうか?
 だれかから教えてもらったことがあるでしょうか?
「理不尽に抗う方法」を知らなければ、「理不尽な目に遭う」ことに慣れてしまい、ゆくゆくは「自分がいま理不尽な目に遭っている」ことにさえ気づけなくなります。
「自己責任という言葉で人々が苦しめられることを、特に理不尽だとも思わない社会」を、私は次の世代に引き継ぎたくはありません。
 だとしたら、私たちは「理不尽に抗う方法」を学ばなければなりません。
 かつて、どれだけ理不尽な状況に直面しても「黙らなかった人たち」が、この社会にはいました。その人たちの言葉から学びたい。
 この連載をはじめた理由も、そこにあります。

 最終回でご紹介した森田竹次にならうなら、理不尽な社会と闘う「勇気」を得たいなら、孤立しない・孤立させないことが大切なようです。
 そのためには何をしたらよいのでしょうか。
 差し当たり、私は、「いまこの瞬間に、怒っている人・憤っている人・歯がみしている人」を孤立させないことからはじめたいと思います。
「自己責任」という言葉が、「人を孤立させる言葉」だとしたら、「人を孤立させない言葉」を探し、共に分かち合っていくことが必要です。
 一人の文学者として、そうした「言葉探し」を、これからも続けていくつもりです。

荒井裕樹
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

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