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誰かの「一線」を守るための言葉(荒井裕樹)

連載:黙らなかった人たち――理不尽な現状を変えることば 第9回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2018年10月2日にWEB astaで公開された記事を転載したものになります。

「文学者」の仕事って、何だ?

 息子が4歳の時のこと。「パパのお仕事ってなに?」と聞かれて、思わず黙り込んでしまったことがある。
 そういえば、「文学者の仕事」って何だろう......。
「『文学者の仕事』を言葉にするのは、文学者にもむずかしいのだ」なんてことを言っていても仕方がないので、がんばって説明してみよう。
「文学者がやるべきこと」はたくさんあるけど、その一つに「"ない"言葉を探すこと」があると思う。
 以前、「ぼくたちは『励ますための言葉』を持っていない」という話を書いたけど、この社会には「あったら良いはずの言葉がない」ということがある。
 そうした言葉を見つけ出して、そこから社会の在り方を問い直すことも、文学者の大事な仕事だ。

この社会には「染みこみにくい言葉」がある

 学生時代から悩んでいることの一つに、「なぜ、この社会には『人権』という概念が染みこみにくいのか?」という問題がある。
 日本国憲法の三原則の一つにも「基本的人権の尊重」が掲げられているのに、なかなかこの概念が浸透していかない。
「人権の尊重」って、本来は「人間の尊厳を守るために、人はみな、誰からも絶対に侵害されない一線を持っている。それを大事にしよう」という意味だ。
 でも、なぜかこの社会では、「人権=きちんとした人だけが申請できるご褒美的なオプション」みたいな感覚で捉えられてしまう。

 これには、いろんな理由があると思う。そもそも、「人権」という概念を生み出した西欧諸国と日本とでは、歴史的・文化的な土壌が異なるわけだから、染みこみにくいのも当然だろう。
 でも、やっぱりそれだけでもない気がしていて、いつもモヤモヤと悩んでいる。

 最近は、「人権」という概念だけでなく、この言葉を受け止める動詞のほうにも問題があるんじゃないか、なんて考えている。
 つまり「人権の尊重」と言った場合の、この「尊重」の部分に入る言葉に、なんというか、もっと「切実感」とか「危機感」のようなものあればいいのに、と思うのだ。

「人権」を〇〇する?

 日本語には、何かを自分よりも「上」に置いて、ありがたがったり、優遇したり、うやうやしく扱ったり、丁重に遇したりする語彙は多い。「尊重」もその一つだ。
 だからだろうか、例えば「子どもの人権を尊重する」という話になったとき、教育関係者からも「子どもを甘やかすと、大人の言うことを聞かなくなる」とか「子どもを叱るな、というは無理です」なんて言葉が返ってくることがある。
 つまり、「子どもの人権を尊重する」という言葉が、子どもを「チヤホヤする」とか「甘やかす」といった浅いレベルで捉えられてしまったり、「人権とは『社会から尊重される人』だけが持てるもの(だから子どもにはまだ早い!)」と誤解されてしまったりすることがある。

 別に、子どもを「甘やかす」わけでも、「チヤホヤする」わけでも、「叱らない」わけでもない。たとえ親だろうが、教師だろうが、国だろうが、自治体だろうが、社会だろうが、子どもに対して「絶対に侵害してはならない一線」があるはずで、それを大事にしようというのが、本来の「人権」なんだと思う。
 でも、日本語には、「絶対に侵害してはならない一線を守りましょう」という意味合いの言葉がほとんどない。例えば「子どもの人権を○○する」という一文を考えたとき、この○○にズバリと当てはまる言葉が(こんなこと書いているぼくにも)思いつかない。
 だから、子どもに対して「一線を守る」ということが、具体的にどうすることなのか、パッとイメージが浮かばない。
「社会の中に言葉がない」というのは、こういうことなのだろう。

「絶対に侵害してはならない一線」を守るための闘い

 文学者のぼくが、一見、畑違いの社会運動(特に障害者運動)に関心を持つのは、こうした問題を考えるためのヒントが秘められているからだ。
「絶対に侵害してはならない一線」とは何なのか? それを守るとはどういうことか? どんな言葉で訴えればよいのか? 障害者運動家たちは、それを必死に考えてきた。
 その苦闘の歴史に、「言葉探し」の大切なヒントがあるように思うのだ。

 今回も一つ、過去の事例を紹介しよう。
「府中療育センター闘争」という運動があった。障害者運動の歴史では有名で、障害者施設の問題を告発した、とても重要な闘争だ。
 府中療育センターは1968年に開設された。重度の身体障害者・知的障害者・心身障害者を対象とした大規模複合施設(定員400名)で、当時は「東洋一」の設備を誇るとさえ謳われた。

 問題の発端は1970年。東京都が入所者の一部を他の施設(八王子)に移転させることを勝手に決めてしまった。これに対して入所者数名が「有志グループ」を作り、都に対して、事情の説明・強制的な移転反対・センターの生活環境改善などを訴えた。
 当時のセンターは、間仕切りのない大部屋での集団生活、プライバシーはゼロ、面会は月に1回親族のみ、トイレの時間も決まっていて自由に排泄できない、食事の時間が来ればとにかく口に突っ込まれ、入所するには死亡後の解剖承諾書にサインすることが条件になっている、といったようなところだった。
「有志グループ」は、こうした施設の在り方に反対の声を上げた。医師や職員たちから嫌がらせを受けながらも、ハンガーストライキ(*)にでたり、都庁舎前にテントを立てて1年9ヶ月も座り込んだりと、壮絶な反対運動を繰り広げた。(*ハンガーストライキ=「抗議や要求貫徹のための闘争手段として断食する示威行為」大辞泉)
「有志グループ」はセンターの環境改善を求めて、42項目の要求事項を東京都に提示した。数項目、紹介しよう。

①外出・外泊の制限をなくすこと ②面会の制限をなくすこと ③1日の生活を私たちで決めたい ⑤入浴の際の同性介助を ⑥入浴時間の変更と週2回の洗髪を ⑦トイレの時間制限をなくすこと ⑨私物の持ち込みを自由に ⑩夜、寝間着に着替えること、また、私服の着用を認めること ⑪全館往来自由にすること(以下略)

 現在の感覚からすれば、こんな当たり前のことさえ認められていなかったのか、と驚くような内容だ。いちおう繰り返すけど、この施設は当時「東洋一」と称えられていた。

「当たり前」が"ない"ことの怖さ

 「有志グループ」の中心人物に、三井(新田)絹子さん(1945-)がいる。実兄の新田勲さん(1940-2013)も同じセンターに入所していて、兄と妹、それぞれの立場から闘争に立ち上がった。
 三井絹子さんが訴えたことの一つに、入浴・トイレの同性介助があった。
 当時のセンターでは、女性障害者の入浴・トイレの介助を、男性職員が行うことがあった。裸を見られること、身体を触れられること、そして時には「いたずら」されることに、女性たちは大変なショックを受けていた。
 これに三井さんが反発して入浴を拒否すると、医師や職員たちから「恥ずかしがっていたら仕事にならない」「もう入るな」「ひねくれている」といった言葉が投げかけられ、嫌がらせを受けた。

 でも、当時センターで働いていた職員だって、自分が入浴する時に、異性に裸を見られたり、触られたり、ましてや辱められたりするのは嫌だろう。だったら、三井さんが嫌がるのも当たり前だ。
「誰かの力を借りなければお風呂に入れない人」がいたとしても、その人に対して「風呂に入れてやるんだから何をしたっていいだろう」とはならない。
 こんなこと「当たり前」なんだけど、でも「障害者」だというだけで、こうした「当たり前」が置き去りにされてしまうことがある。
「施設」に反対する運動家たちには、実際に施設生活を経験している人が多い。施設の集団処遇の中では、この「当たり前」の感覚がなくなってしまう怖さを、身をもって経験している人が少なくないのだ。

「チヤホヤ」してほしいわけじゃない

「府中療育センター闘争」真最中の1972年。三井さんは次のような言葉を残している。

「わたしたちは人形じゃない......わたしたちは人間なのだ」(『朝日ジャーナル』1972年11月号)

 とてもシンプルだけど、力強い言葉だと思う。
 正直に言うと、ぼくは「障害者も同じ人間」という主張を信用していない。
「同じ人間」という言葉の中身がスカスカだったり、「同じ人間なんだから障害者側も遠慮しろよ」という発想に転換されやすいからだ。
 でも、三井さんの言葉にはしっかりとした芯がある。人形じゃなくて人間なんだと訴えた三井さんの言葉から、ぼくらは「絶対に侵害してはならない一線とは何か」を考え、学ぶことができる。

 障害者運動をめぐる絶望的な誤解の一つに、「チヤホヤしてほしい人たちが騒いでいる」というのがある。でも、ぼくが知る限り「障害者をチヤホヤしろ」と訴えた障害者運動は存在しない。
 多くの運動家たちが訴えてきたのは、すごく「当たり前」で「普通」のことだ。これを奪われたら生きる喜びさえ味わえないという、その「一線」を取り返すことだ。
 ちなみに、この連載でたびたび紹介している横田弘さん(「青い芝の会」神奈川県連合会)は、運動の中で「権利」という言葉をほとんど使わなかった。「生きる」ことは「当たり前」のことであって、「権利」以前の問題だからだ。
 三井さんも、横田さんも、自分たちの「一線」を守ろうとする言葉の深みが半端じゃない。

誰かの「一線」を守るための言葉

 障害があろうが、病気があろうが、子どもだろうが、ルーツが違っていようが、人には「絶対に侵害してはならない一線」というものがある。 
 でも、ここ最近、この「一線」を乱暴に踏み越えたり、立場の弱い人たちの「一線」の幅を勝手に狭めようとする動きがある。しかも、お金があったり、権力があったり、影響力を持っている人たちが、この「一線」を軽んじてきている。
 特に、文学者として悲しいのは、ずっと文学を支えてきた老舗の出版社でさえ、この「一線」を軽んじる言葉の片棒を担ぐようになってしまった、ということだ。
 こうした言葉が降り積もった社会を、「次の世代」(つまり、いまの子どもたち)に引き継げというのか。それは、どうしたって許せない。

 ぼくらは「絶対に侵害してはならない一線」を守る言葉を、急いで積み上げなければならない。
 誰かの「一線」を軽んじる社会は、最終的に、誰の「一線」も守らないのだから。

参考:「府中療育センター闘争」については『施設と街のはざまで―「共に生きる」ということの現在』(影書房、1996年)に詳しく紹介されています。また、三井絹子さんには、『抵抗の証―私は人形じゃない』(2006年)という素晴らしいご著書があります。

荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

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