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「地域」はどこにある?(荒井裕樹)

連載:黙らなかった人たち――理不尽な現状を変えることば 第5回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2018年6月8日にWEB astaで公開された記事を転載したものになります。

「地域」という名の地域はない

――「地域の絆を見直す」
――「地域の活力を取り戻す」 
――「学校で地域の事情を学ぶ」
――「防犯で大切なのは地域の目」

 毎日のようにどこかで見聞きする「地域」という言葉。特に出没頻度が高いのは、役所の書類かも知れない。もし仮に「行政関連書類 頻出単語ランキング」みたいなものがあったとしたら、かなり上位に食い込むと思う。
 でも、この言葉。あまりにも使われ過ぎていて、最近では意味の輪郭がぼやけてきている気がする。「書類」に好んで使われるということは、実は裏を返すと「都合の良い言葉」でもあるわけで、そういったものには何かしらのカラクリがあることが多い。

 試しに「地域」を辞書で引くと、「区画された土地の区域。一定の範囲の土地」(『大辞泉』)と出てくる。つまり「地域」とは「一定の範囲の土地」のことなのだけれど、ぼくらはだれも住んでいない土地のことを指して、わざわざ「地域」とは呼ばない。ある程度の人が生活していて、お店があったり、学校があったり、公園で子どもが遊んでいたり、バスが走っていたりする土地のことを「地域」と呼んでいる。
 冷静に考えれば「地域という名前の地域」はない。この言葉で呼ばれている「一定の範囲の土地」も、具体的などこかの「住宅地」であったり、「商店街」であったりするはず。でも、「地域」と言うと、なんだか「地域という名前の地域」が世界のどこかに存在しているように思えてしまう。
 かく言うぼくも、この言葉の意味を深く考えることはなかったし、特に違和感もなく使っていた。でも、それではいけないことを教えてくれた人がいる。
 脳性マヒ者の横田弘さん(1933-2013)だ。

"伝説"の運動家

 横田さんは「日本脳性マヒ者協会青い芝の会 神奈川県連合会」(以下「青い芝の会」)という団体に所属した障害者運動家だ。この会の精神的支柱みたいな人で、まさにレジェンド級の運動家だった。
「青い芝の会」は、障害者運動を変えた団体と言われている。それまでの障害者運動といえば、「恵まれない障害者のことをわかってください」という陳情や啓発が多かったのだけれど、「青い芝の会」はきっぱりと「障害者差別はやめろ!」と言ったのだ。

 この会が有名になったのは1970年代のこと。各地に支部が設立されて、障害者差別への反対運動が大きなうねりになった。
 彼らの運動の中には、いまや「伝説」みたいに語り継がれる抗議行動もある。車椅子利用者の乗車を拒否したバス会社に抗議して、多数の障害者でバスに乗り込んで運行をストップさせたり(川崎バス闘争)、「養護学校」は障害児を地元の学校から閉め出すことにつながると批判して文部省と交渉したり(54年度養護学校義務化阻止闘争)、といった行動がそうだ。
 最近、旧優生保護法(1948-1996)のもとで行われていた障害者への強制的な不妊手術が話題になっているけれど、実はこの問題、ずっと前から実態の解明と被害者への謝罪・補償が求められていた。
 この法律の問題を早い時期から訴えていたのも「青い芝の会」だった。法律第1条にある「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という文言に対し、「『不良な子孫』とは誰のことだ!」「この法律自体が障害者差別だ」と訴えたのだ。

「青い芝の会」の主張は、ものすごく画期的だった。それまでの「障害者イメージ」みたいなものを根っこからひっくり返してしまうパワーがあったし、主張を受け止める人の頭が真っ白になるようなパンチ力があった。
 例えば、「障害者は保護者のもとで生きるか、専門家がいる施設で暮らすのが幸せだ」という価値観に対しては「街中で普通に生きさせろ!」と反対したし、「少しでも障害を軽くした方が良い」という価値観に対しては「『できないまま』じゃいけないのか!」と反論した。
「青い芝の会」は、障害者団体の中でも評価が分かれた。明快な主張に共鳴して解放感をおぼえた人もいたけど、「あれはやりすぎ」と批判する人も少なくなかった。
 福祉の専門家にも、この会を倦厭する人は多かった。養護学校の先生の中には、生徒たちに向けて「『青い芝の会』には近づいちゃいけない」なんて言う人もいたようだ。

「地域」は空々しい?

 福祉業界では「施設から地域へ」というスローガンが叫ばれて久しい。障害者が生きる場所は、以前は郊外の大規模施設や実家(親元)が多かったけど、最近ではグループホームや訪問介護などを利用しての地域移行が進んでいる。
「障害者も『地域』で暮らす」という考え方をさかのぼってみても、実は「青い芝の会」にたどりつく。彼らは実家や施設を飛び出して、周囲の反対や世間の白い目にめげず、自力で介助ボランティアを集めては街中のアパートで暮らしはじめたのだ。
 横田弘さんも、実家を出て結婚し、子どもを育てながら、地元の横浜で生活していた。そんな横田さん、晩年の著書で次のように言っている。

「我が家と隣近所、今の福祉用語で言えば「地域」(わたし、この言葉キライなんです。空々しくて)の人たちとの付き合い、母親が職人のおカミさんで世話好きでしたから人の出入りもけっこう多かったことは確かです。」(横田弘対談集『否定されるいのちからの問い』現代書館、2004年)

 この文章を読んで、ぼくは生前の横田さんに「『地域』って言葉、そんなにダメですか?」と聞いたみたことがある。そこで返ってきたのが次の一言。

「地域」じゃない。「隣近所」だ。

 当時、「地域」という言葉を疑ったこともなかったぼくは、ガツンと頭を叩かれたような思いがした。

「隣近所」で生きたい

「青い芝の会」の運動家たちが街へと飛び出した70年代は、車椅子を見かけること自体が珍しい時代だった。もちろん、街中で暮らそうとする障害者への風当たりも、いまよりずっと強かった。
 当時にくらべたら、障害者の地域生活も進んできたと思う。「障害者も地域で暮らす」というスローガンに対する反対意見も、(直接的には)あまり聞かない。
 では、世の中全体が障害者の地域生活を自然に受け止めているかと言うと、残念ながらそうとも言えない。仮に「地域」という言葉を「隣近所」に置き換えてみてほしい。「『地域生活』には賛成だけど、でも、うちの『隣近所』はちょっと......」という声は、やっぱり出てくると思う。

「地域」という言葉は、使い方次第では結構あやうくなる。
 例えば「この施設は夏祭りとクリスマスに地元住民と交流しているので、地域との共生に取り組んでいる」という言い方もできなくはない。でも、夏祭りとクリスマスにしか交流がなかったら、それは「住み分け」になってしまう。
 あるいは、グループホームが街中にあれば「地域生活」になるかといえば、そうとも限らない。入居者への管理が厳しくて自由に外出できなかったり、福祉関係者以外の人と付き合う機会がほとんどなかったりすれば、それはやっぱり「地域生活」じゃない。

 横田さんたちは、約40年前から「地域で生きさせろ」と訴えてきた。横田さんたちが言ったり書いたりしてきた「地域」は、はっきりと「隣近所」という意味だった。障害者も、あなたの「隣近所」に住みたいのだ。あなたの「隣近所」で、あなたが生活するみたいに暮らしたいのだと訴えてきた。
「隣近所」という言葉には、生々しい生活実感がともなう。「地域」には、その生々しさがない。ほどよく生々しくないから行政文書でも使いやすいのだろう。でも、横田さんたちが求めてきたのは「書類に書きやすい地域」なんかじゃなかった。
 横田さんの目には、この言葉のハードルがずいぶんと下がってきているように見えたのかも知れない。でも、このハードルを下げてしまうと、「地域」という言葉が「実際には住み分けているけど、あたかも共生しているかのような印象を与えるマジックワード」になりかねない。
 横田さんが言った「空々しい」というのは、そのあたりを見抜いた感覚だったんじゃないかと思う。横田さんは「詩人」でもあったから、「言葉」にはとても敏感だった。

「共生」への壁は、すぐそばにある

 自分の「隣近所」を守ろうとする時、人は驚くほど保守的になったり、攻撃的になったりする。障害者運動の歴史を調べていると、そう感じることが多い。障害者が街中で暮らすこと。地元の学校(普通校)へ通うこと。それに反対してきた人の多くは、どこにでもいる普通の人たちだった。
 人を遠ざけるのは「悪意」ばかりじゃない。「何かあったら大変です」「困るのはあなたじゃないですか」そうした「善意」が人を遠ざけることもある。横田さんたちは、そうした「善意の顔をした差別」を鋭く告発してきた。

 こんなことを書いているぼくにも、こうした保守性や攻撃性は、きっとある。子育てをしていると、「隣近所」で起こる変化に敏感になっている自分がいる。この敏感さは、どこかで誰かを傷つけないだろうか? 
 ぼくは、自分の息子に「それぞれに、いろんな事情をもった人たち」と共に生きてほしいと思っている。なぜなら、ぼくの息子も「それぞれに、いろんな事情を持ったひとり」だからだ。息子が排除されないために、息子には排除してほしくない(前回の記事で、ぼくは「ダイバーシティ社会」のことを「それぞれの事情を安易に侵されない社会」と定義してみた)。

 とはいっても、もし仮に、まったく異なる生活習慣や価値観をもった人から、突然「あなたの『隣近所』に住みたい」と言われたら、やっぱりぼくはたぶん「ピクッ」とすると思う。
 この「ピクッ」という感覚は何だろう?
「ピクッ」としてしまう自分って何だろう?
 自分を「ピクッ」とさせるものは何だろう?
 それが何かは、自分自身で考えなければならない。
 横田弘さんには「自分で自分を見つめること」の大切さを教えてもらった。乗り越えるべき壁を見誤らないためには、「冷徹に自分を見つめること(自己凝視)」が必要なのだ。
 共生社会への壁って、どこか遠くにあるわけじゃない。それこそ、ぼくたちの「隣近所」にあるのだと思う。


参考:横田弘さんのことを知りたい方は、ぜひとも横田弘著『障害者殺しの思想』(現代書館、2015年)を読んでください。自分の中の「障害者像」を根底から揺さぶられる経験になるはずです。それから、ぼくが書いた横田弘さんの評伝(『差別されてる自覚はあるか――横田弘と「青い芝の会」行動綱領』現代書館、2017年)も、あわせて読んでいただけたら嬉しいです。

荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

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