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「自分だけの経験」をノンフィクションとして書くとき、作家が考えていること

時子さんが亡くなる前、何気なく、ぽつりとつぶやいた一言。
「私の人生を、書き留めておけばよかった……」
その言葉を聞いたとき、私の口をついて出た言葉は、自分でも予想外のものでした。
「それなら、私がいつか時子さんの物語を書きます!」
そう、あきれるほど簡単に、私は反故にはできない、重大な約束をしてしまったのです。
佐藤由美子『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』(ポプラ社)より

 最初にお断りしておくと、今回の記事はだいぶ私的な動機にもとづいて作成されている。テーマは、「ノンフィクションを書くこと」

 佐藤由美子という書き手を担当して5年以上になる。彼女にとって初めての著書『ラスト・ソング』(2014年)は、私にとっても初めて企画編集した本だった(17年には『死に逝く人は何を想うのか』という新書も担当させていただいた)。そして今年の3月からは『戦争の歌がきこえる』というウェブ連載も始めた。これが3度目のお仕事となる。

 佐藤さんのことを簡単に紹介しておこう。アメリカのホスピスで10年間、「音楽療法士」として働いたのち、2013年に帰国。その後、国内の緩和ケア病棟や在宅医療の現場でも音楽療法を実践した(現在は再び渡米し、現地で執筆活動などを行っている)。

 最初に書いた『ラスト・ソング』は、彼女がアメリカのホスピスで出会った10人の患者の物語を綴ったもの。デビュー作ながら口コミで広まり、現在3刷。ラジオドラマ化されたり、この本をもとにしたコンピレーション・アルバムができたりもした。

 「音楽療法」について前提となる知識も共有しておきたい。音楽療法とは、「患者さんやそのご家族の心身の健康の回復、向上を促すために効果的に音楽を利用するもの」。なぜそれが有効かというと、「音楽を共有することで、末期の患者さんが自分の気持ちを表現できるようになったり、ご家族との時間を有意義に過ごせるようになったりする」からだ(『ラスト・ソング』5、6頁から引用)。

 こう書いていくと、佐藤さんの書き手としてのユニークなポイントが、いくつか浮かび上がってくる。それは大きく、「経験」と「言語」に整理できると思う。

 「経験」というのは、日本人としてアメリカのホスピスで働き、多くのアメリカ人の最期に寄り添ったこと。しかも音楽療法士として。こうした経験が一冊目の本に繋がったし、その経験を「第二次世界大戦を生き抜いた人たちとの出会い」というテーマで切ってみたときに生まれたのが、現在のウェブ連載『戦争の歌がきこえる』である。

 「言語」というのは、佐藤さんが執筆や思考の大部分を英語に拠っているということ。日本に生まれ、日本人のご両親に育てられたが、高校卒業後はアメリカで単身過ごしてきた。いわばバイリンガルだが、過去の書籍も今回の連載も、いったん英語で執筆、あるいはアウトラインをつくったのちに、自ら日本語に翻訳し直している。

 佐藤さんは、「自分ならではの経験」を、どのように作品に落とし込んでいるのだろう。しかも、彼女が書く対象は、言ってしまえば「他人の人生」で、そのほとんどがもうこの世にはいない人たちのものだ。書くのが怖くはないのだろうか。また、「ふたつの言語」で書くことは、その文章にどのような影響を及ぼしているのだろう。ノンフィクションを書くこと――そんな大きなテーマを掲げた今回の記事で聞きたかったのはこういうことだった。

 ただ、ここにもうひとつだけプライベートな事情が加わる。実は『ラスト・ソング』を書きあげたときに、佐藤さんはこんなことを言っていた。

 この本を書いているとき、ずっと涙が止まらなかったんです。セラピストをしていたときは、涙なんてほとんど流したことがなかったのに。日々、新しい患者さんをみないといけないから、立ち止まっている暇もなかった。仕事を離れて、あの日々を改めて思い返し、それを書くことで初めて、「ああ、私はずっと悲しんでいたんだ」と気づきました。

 編集者は、誰かに文章を書いてもらうのが仕事だ。でも、当然ながら、「書く」って簡単ではない。「書きながらずっと泣いていた」という話を聞いたとき、私はなんとも言えない気持ちになってしまった。それなのに今、また佐藤さんに「戦争」という重たいテーマで執筆を頼んでしまっている。

 だからこそ、聞きたかった。
 佐藤さん、また泣いたりしてませんか? 書くの、つらくないですか? 

(聞き手=企画編集部・天野潤平)

自分ならではの経験を伝えること

天野 佐藤さんには今、「戦争の歌がきこえる」という連載をしていただいています。まず聞きたいのは、どうしてこのテーマで書こうと思ったのか、ということです。僕がオファーしたからというは抜きにしていただいて……(笑)。でも、真面目な話、オファーされても「書かない」という選択肢もあったわけですよね。

佐藤 一年前に一時帰国したとき、天野さんと「戦争」について話しましたよね。「これ、書きとめておいたほうがいいんじゃない?」と言われたことを覚えています。

 私がアメリカで音楽療法士のインターンシップを受けていたのは2002年のことだから、第二次世界大戦を経験した人たちが、ちょうど患者さんとしてホスピスのケアを受けていた頃なんです。そういう時代の偶然というか必然的なめぐりあわせがまずありました。さらにその中で、私が日本人であることによっていろいろな会話があったわけです。

 たとえば2019年の今、私が音楽療法士としてアメリカで働き始めたとしても、第二次世界大戦で戦った人のほとんどは亡くなってますから、患者さんとしてはおそらくもう、あまりいないでしょう。逆に、これからはベトナム戦争の退役軍人が患者さんになっていくと思います。

 だからこそ、アメリカのホスピスで、日本人として、第二次世界大戦を経験した患者さんと関わるというのは、とても稀で、貴重な経験だったと思います。現地の同僚に聞いても、患者さんから戦争の話を聞いたことはほとんどない、とみんな言っていました。私がこれまでに出会ってきた患者さんたちの中で、最も印象深い人の多くも、そのような経験をした人たちでした。

 彼らからは本当にいろんな言葉を聞きました。「戦争のことを忘れないでくれ」とか、「僕は日本兵を殺した。本当に申し訳ないと思っている」とか。あるいは家族を殺された日本人女性が語った「それでも私は生き抜いたのよ」という言葉……。

 それらはもちろん、目の前の私に語られたのですが、私だけに言っている感じではなかったんです。なんというか、たまたまそこに私がいたというだけで、もっと多くの人に向けて発せられた言葉というふうに受け取れました。だからこそ、他の人にも伝えなきゃ、とはずっと思っていたんです。

 ただ、いざ書くとなると、そこに没頭しないといけない。これまでの本はもう少し広いテーマでしたが、「戦争」というテーマだけに取り組むというのはやはり、抵抗感というか葛藤みたいなものがありました。でも今回、改めてお話をいただいたことで、自分にできるのはせめて伝えようとすることなんだろうな、と思えたんです。

音楽療法のセッション風景、アメリカにて

もらったものは返せない。だからこそ、書く

天野 せめてでもできること、ですか。でも、そこで「伝えなきゃ」と思わない人もいると思うんです。自分が受け取って終わり、見送ったら終わり、という人もいる。どうして佐藤さんは「伝えなきゃ」と思ったのでしょう。

佐藤 言ってしまえば、患者さんたちは「他人」です。彼らから見た私もそう。でも、そんな関係の中で、もちろん誰もがではないけど、私が書いている人たちは心を開いて、それまで家族にも言えなかったようなこととかを共有してくれたわけです。本当に短い時間しか会えなかった人も、一回きりの人もいたのに、それでも語ってくれた。そのときにできた繋がりや関係性は、かけがえのない「ギフト」だと思っています。

 何より、その出会いによって私自身が変われました。私が好きな作家、マヤ・アンジェロウは、「学んだときは教えなさい。手に入れたときは与えなさい」と言っています。非常にシンプルな言葉なんだけど、生きるってそういうことだと思うんです。何かを与えてくれた人に対する感謝の気持ちって、その人には直接返せないことのほうが割かし多いんですよね。

 大学で教えてくれた先生であったり、インターンシップ時代のスーパーバイザーであったり、亡くなってしまった患者さんであったり……その人たちからもらったものを返すことはできないんだけれども、それを他の人に、なんらかのかたちで返す。英語の「Pay it forward」も同じことでしょう? 自分にできることはそれしかないし、そういう生き方をしたい。だって、それさえも今までに出会った人から教えてもらったことなんですから。

 私にとっては書くことも、誰かの前で講演することも、ペイ・イット・フォワードの精神に基づいているので、自然な流れなんです。

「書く」ことはセラピーに似ている

天野 受け取ったものを誰かに返すための手段として、「執筆」や「講演」などが位置付けられているのですね。そういったときに、本日のような対面での「会話」や、一対不特定多数の「講演」のようなかたちで伝える場合と、文章を「書く」ことによって伝えることとの違いって、何かあるのでしょうか。

佐藤 書いているときって、その文章を読むのは誰なのかがわからないですよね。顔が見えない。もともと私はセラピストだから、一対一で人と向き合うことのほうが慣れているんです。ただ、私の中で「書く」こととセラピーは、非常に似ている部分があるとも感じます。

 セラピー、特にミュージックセラピー(音楽療法)と言ったとき、多くの人は「音楽で癒される」みたいなイメージをすると思うんです。「癒し」というものを受け身にとらえている人が多い。ですが実際には、その人自身が能動的に取り組まない限り、心の回復や成長には繋がりません。そしてそれは、私が無理矢理やらせたり、正解を与えたりできる性質のものでもない。自らが気づき、自分なりの答えを見つけられる環境、つまりそのようなスペース(空間)や関係性をつくることがセラピーの目的であり、セラピストの役割なんです。「あなたが生きた意味はこうだったんですよ」って、私が答えのようなものを押し付けたって意味がありませんから。

 「書く」ことも同じではないでしょうか? 私が知ってほしいことや感じてほしいことを1から10までだらだら書いたとしても、読んでいる人にはあまり響かないと思う。読む人が文章を通して、そこに書かれていることと自分の過去とを重ね合わせて、何か大切なことを思い出したり、「ああ、そっか」って感じ入りながら答えを出したりすることによって、初めて何かしらのインパクトが生まれると思うんです。

 だから、難しいのは「何を書くか」ではなく「何を書かないか」。書かなすぎてもよくわからないし、書きすぎても伝わらない。私は、「どうやったらこの文章が、読む人にとって考えるきっかけになるだろうか」「答えを見出すきっかけになるだろうか」ということを考えています。

 このように、目的だけを考えるのであれば「書く」こととセラピーは似ているのですが、アプローチはまったく違いますね。セラピーはひとりひとりに合わせられるし、表情や様子、エネルギーのレベルなどをその場で見られるから。書くときは、読む人が目の前にいないから反応がわからない。ある意味、アグレッシブな方法ではあると思います。

 ただ、ひとりひとりに会って話すには限界があるし、いくら時間があっても足りませんから、「書く」ことでより多くの人に伝わる可能性がある、というのは大きなメリットですよね。いろんな場所で、時を超えて伝わり得る。それがポイントではないでしょうか。

初めてお会いした時にお預かりしたホスピスで働いていた頃の日記の一部。すべて英語で書かれていた

「ふたつの言語」で書くこと

天野 「書く」といったとき、佐藤さんには言語の問題もありますよね。一冊目の『ラスト・ソング』の執筆は特に苦労されていたし、今でもまず英語で書いて、それを自身で日本語に訳している。やっぱり、英語のほうが書きやすいというか、頭の中をより表現できるのでしょうか。

佐藤 そうですねえ……。そもそも私は英語も日本語も、どちらも100%ではないんです。生まれたときから英語を話していたわけではないし、育ちは日本だから。ただ、19歳のときにアメリカに渡ったので、大人として物事を考えたり、音楽療法やセラピーの理論を学んだりしたのは全部英語だったし、起こった出来事もすべて英語です。今こうして喋っているときには英語で考えていませんけど、自分ひとりで考えるときには自然と英語になりますね。

 それから、言語の特徴もありますよね。英語って、日本語よりも構造がロジカルだと思います。日本語は、私にとっては英語よりも詩的な感覚が強い。英語のほうが思考するにはいいんですよ。すごくストレートじゃないですか。

 なので、ふたつの言語で書くにあたって苦労するのは――自分で自分の文章を翻訳するとよくわかるのですが――単語レベルで翻訳しても、意味が通じないことがすごく多いということ。文化的背景が共有されていないと、伝わりづらいことがあるんです。

 たとえば韓国と日本、アメリカとフランスといったように、ある程度、文化的背景が似ていればそこまで問題ないのかもしれないですが、日本とアメリカって文化も考え方も価値観もまったく違う。ただ言葉を訳すだけだと意味合いが変わってしまうことさえあるんです。

天野 以前も、「看取り」という日本語を使うべきか、「寄り添う」とはそもそもどういう意味なのか、という点などを話し合いましたね。今回の連載であれば、「責任」という言葉の捉えられ方の違いについて議論をしました。

佐藤 日本語にはいろいろな言葉がありますが、意味がはっきりと定義されないまま使われていることがすごく多いな、と感じます。英語は徹底してプラクティカルでロジカルだから、意味もしっかりしているわけですよね。

 たとえば、「寄り添う」という日本語はよく使われるものですが、「それって一体どういう意味なの?」と10人に聞いたら、10の違う答えが返ってくると思います。私は英語の「being present」を「寄り添う」と訳しているわけですが、私が「being present」と言ったときに伝えたい意味を、日本語で読んでいる人たちに正確に伝えられているかというと、そうではない。

 そして、そのことに、私が書いているときに気づくこともあれば、あとになってから、「これはもっと説明しないとわからなかっただろうな」と気づくこともある。そういうことがとても多いので、講演やセミナーで実際にお話しすることは私にとって重要なんです。そうした機会がないと、「何がわからないのか」がわからない。

 とりあえず、私が「書く」ときには、ユニバーサルな定義ができなかったとしても、「こう言葉を使うときにはこういう意味ですよ」と、自分なりの定義は示すようにしていますね。

クリエイティブ・ノンフィクションの発想

天野 そういう言葉の問題がある中で、佐藤さんが書いているのは、大切な言葉をくれた方々であり、しかも、もうこの世にはいない方々です。原稿をチェックしてもらうこともできない。曖昧さの残るほうの言語で書くことの怖さはないのでしょうか。

佐藤 他の人のことを書くということで言えば、何語であろうが「責任」は生じます。セラピストの立場としても当然、その人のことを特定できないかたちで書かないといけないですよね。

 それに、私は記者ではないので、真実をそのまま書こうとしているわけではありません。なんというか、「フィクション」と「ノンフィクション」って、白と黒とで単純に分けられるものではないと思っています

 たとえば、ある患者さんに本当は3人の子どもいたとして、書くスペースが限られているのであれば、1人にしちゃうわけですよ。無理にその通りに書いて、それなのにちゃんと説明をしなかったら、「残りの2人はどうなったの?」と思われてしまう。それでは伝わるストーリーにならない。同様に、本人が誰だかわからなくするために、性別を変えたり、場所を変えたり、名前を変えたりとしていくこともあります。そこにはもう、フィクションのエレメントが入っちゃっているわけです。

 こういうのを、英語では「クリエイティブ・ノンフィクション」とか言います。ただ、フィクションの要素を入れるとしても、たとえば病名まで変えたら趣旨が変わってしまう、という場合は変えません。ALS(筋萎縮性側索硬化症)であることが、その人を語る上で欠かせない要素であるのなら、そこは「ALS」なんですよ。いちばん伝えたいことはなんなのか、その判断が大事。その人のエッセンスが伝わるようにすることが、私なりのリスペクトなんです。

 ただ、そうは思いつつも、伝えるのって難しいですよね。実際にその人のすべてを伝えきれるはずもないから、限られた文字数の中で何を伝えるかという「テーマ」を真剣に考えないといけない。私はここにものすごく時間かけます。「実在した人が生きたこと」を書くのだから、やっぱりベストを尽くすしかありません。そこを怠って、その人のエッセンスを伝え損ねてしまったとしたら、やっぱり残念じゃないですか。怖いとしたらそこだけです。

少しでも患者さんの理解に近づくために、佐藤さんは実際に戦争が行われた場所を訪れている。写真はサイパンにて、打ち捨てられた戦車

「書く」ことは、あったことを二度経験すること

天野 ちなみに佐藤さんは、書くときに「特定の誰か」や「読者の顔」のようなものを思い浮かべて書いたりしますか?

佐藤 まったくしないですね。誰に向けてというよりも、基本的には「自分のため」にやっているんだろうな、という認識でいます。

天野 「自分のため」と言ったときに、書くことで佐藤さんにとってよかったことはなんですか。書くことで、何が得られるのでしょうか。

佐藤 「書く」って、あったことを二度経験することだと思うんです。書くことによって、その人に対する理解が深まる。

 もちろん、実際にセラピーをしていた当時も、「私がこの人だったらどうだろう」と共感しようとしたり、いろいろなアプローチを使ったりするわけだけど、そのときに得られた患者さんに対する理解と、何年後かに「セラピー」ではなく「書く」ことを通じてその人を理解してみようとすることは、違うプロセスなんです。現実にいる人ではもうなくなっているし、時間が経った分、自分自身のことも客観的に見ることができますから。

 さらにいうと、実際にセラピーしているときって、患者さんはその人だけでなく、同時期に何十人もみているから、ひとりに対して深く考える時間もエネルギーも限られているんです。それも、いまなら時間をかけて考えることができる。

 ただし、どれほどトレーニングを受けたセラピストであっても、どれだけ言葉を尽くしたとしても、相手の気持ちを100%理解することは不可能です。まして、戦争を経験した人の経験は、私たちが想像できる範疇を超えている。経験した人にしかわからないものがどうしても残る。どれだけ本や映画で勉強しても、戦争の経験というのは本当にわかり得ない。

 でも……そうやってセラピストとクライエントという関係性から離れて、ただその人を理解するためだけに考え続けているせいか、興味深いことに最近、夢を見るようになったんですよ。

「灰色の街」を歩く夢

天野 夢、ですか?

佐藤 夢の中では、私がその患者さんなり、ご家族の立場になっているんです。まったく同じシチュエーションではないんだけど、その人がかつて置かれたであろう状況に置かれている。苦しかったであろう状況に同期するというか……。

 たとえば、この連載をやるとなったときに最初に見た夢は、すごく怖かった。まわりが全部、灰色なんです。昼間なんだけど、太陽が雲で遮られてしまっていて、人もいない。日本なのかアメリカなのかもわからない。それで「ここはどこなんだろう」と思っていたら壊れた仏像があって、「あ、日本なんだ」と思った。そして、その瞬間に気づいたんです。「このシーン見たことある!」って。

 その光景は、原爆が落ちたあとのものでした。この夢はもう、いままで見たこともないくらいに鮮明で、本当にそれが自分に起こったかのようでした。夢だということもわからなかった。

 私はその景色の中をずーっと歩くんだけど、誰もいないし何もない。建物も、死体も、全部が灰になっている。「ああ、こういう風になってしまったんだ。すべて焼けて灰になってしまったんだ」――そう思っているうちに、ハッと目が覚めたんです。

 この夢はたぶん、アメリカで出会ったある退役軍人の方が私に話してくれた、終戦後に見た広島の光景なんですよ。もちろんその通りの光景であるはずがないんですが、たぶん彼の経験はこういう感じだったんだろうなって、初めてわかった気がしたんです(『戦争の歌がきこえる』ユージーン編を参照)。

わからなかった祖父の気持ち

天野 夢とはいえ、ものすごい経験ですね……。

佐藤 まだ連載では書いていないですが、祖父の夢も見ました。私の祖父は、かつて兵隊として南方に送られそうになった経験があるそうなんです。でも彼は、「子どもがいるから送らないでくれ」と言ったそうなんですよね。しかも、上官に気に入られていたおかげで行かなくて済んだ、と。そんな話を一度、笑いながらしてくれたことがありました。

 私はずっとその話が気になっていたんです。私の祖父って、どこにでもいるような農家のおじいちゃんなんです。私みたいに突拍子のないことをする性格でもなかった。そんな彼が、「生きて帰ってきてね」と親が子に言うことさえ非国民とされた時代に、「戦地に行きたくない」なんて言えたのだろうか。そんなリスクを冒すのだろうか。いくら南方に行ったら死ぬ確率が高いとはいえ、にわかには信じがたかった。でも、噓を言っているようにも見えなかった。

 それで、いろいろ考えているうちに、やっぱり夢を見たんです。今度の夢は自分、つまり私が死ぬ夢でした。戦死ではなく、余命を告知される夢。あと何ヶ月しか生きられないという、これまたすごくリアルなものでした。

 やっぱり、余命を告知されるとびっくりするんです。もう避けられないのか、と。そのとき真っ先に思浮かんだのは、親や夫のことでした。自分が死ぬこと以上に、家族のことを心配したんです。この状況を何か変えられるんだったらなんでもするって、本気で考えました。もちろん何も変えられないんだけど、とにかくこの最悪な状況をなんとかしたくて、じたばたと考えているうちに目が覚めた。「ああ……よかった! 夢だった……!」って、心底ほっとしましたね。

 それで、この夢はなんだったんだろうと思ったときに、きっと祖父もこういう状況だったんだ、と思い到ったんです。家族のために死にたくなかったんだな、って。私も夢の中でそう思いましたから。死なないためなら、そりゃあもうなんでもするよな、って。やっぱり、そこで初めて祖父の気持ちがわかったんです。

佐藤さんの祖父。生前、家族に戦争の話はほとんどしなかったという

少しでも、理解に近づきたい

佐藤 こんなふうに、最近ではひとりのことを書こうとするたびに、なんらかのかたちで自分が似た状況に置かれる夢を見るんですよね。

天野 もうなんと言えばいいのか……身を削って書かれているのですね。

佐藤 身を削っているのかはわかりませんが、とにかくそうなるんです。夢ってすごくて、目が覚めているときの意識で考えるのとはまったく違う体験なんですよ。本当に自分がそこにいると思っているわけだから、本当に怖いし無我夢中。論理的ではいられません。

 でも、だからこそ、そういう状況だったんだ、と理解できる……なんて言ったら大げさかもしれないけど、その人の気持ちに近づくことはできる。

 私は、自分が人を殺してしまった夢も見ました。それだってすごく怖かったけど、目が覚めるとわかるんです。「ああ、日本兵を殺してしまったと言っていたあの患者さんは長年、こんな気持ちをひとりで抱えてきたのか。そりゃ大泣きしてしまうよな……」みたいにね(『戦争の歌がきこえる』ロン編を参照)。

 理解したい相手がもうこの世にいないからこそ、私には「夢」という手段しかないのかもしれません。それだけ必死になっちゃってるんだな。

 このように、私は「書く」ことで、すでにあったことを二度経験し、理解を深めていくわけですが、これは「二次的トラウマ」を消化するプロセスでもあるんです。やっぱり、トラウマを経験した人の話を聞くときって、聞いている側にも精神的な負荷がかかります。それを消化するには内省し、自分の感情と向き合うしかない。でないと次には進めない。私は今、その過程にいるのだと思います。

 だから、書き終わって誰かに共有することができたときは……肩の荷が下りたような、そういう感覚になります。ユングの言うように、そこに辿り着くためには「情熱の炎」を通り抜けないといけないのでしょうね。

天野 それって、とても危うい書き方のようにも思えます。よくその「炎」の中から戻ってこられますね。いつか焼き尽くされてしまう不安はないのでしょうか。

佐藤 ああ、でも、私は芯がすごく強い人間なので(笑)。だからこそ、10年もホスピスでセラピーができたんでしょう。

 ただ、それは私に弱さがないということではないんです。誰が言ったかは知りませんが、私が好きな言葉に、「木にとまっている鳥は、決して枝が折れることを恐れない。なぜなら、その鳥が信じているのは枝ではなく、自分の翼だからだ」というのがあります。まさにそんな感じです。

 アメリカに行ってひとりで生活したり、兄が若くして亡くなったり、そのたびに「もうダメ、もうダメ、もうダメ」と何度も思ったけど、それでも自分の力……だけではなくて、いろんな人との出会いがあって前に進むことができたから、大丈夫なんです。

 『ラスト・ソング』の最後に書いた時子さんも言っていましたよね。それでも生き抜いたんだ、って。大変なことがあっても、それを乗り越えることができれば強くなれます。

 だから夢も、すごく嫌な夢ではあるんだけど、「それでその人の理解に少しでも近づけるなら、またどうぞ」って感じです。近づくことができなければ、書けない。自分がわかっていないことを書いても、伝わらない。それをわかっているんです。

 何より、遠くない過去に、何千、何万という人たちが、こんなにも苦しくつらい経験をしたという事実に触れること。それは自分にとってとてつもないギフトです。平和な時代、平和な国に生まれたことをありがたいと思うと同時に、今のアメリカや日本の政治状況を見ていると、このままのほほんとしていてはいけないよな、と切羽詰まったような気持ちになります。そういうことも書いていかないといけないですね。私に戦争の記憶を託してくれた人たちのためにも。

 やっぱり、私は人を理解することを諦めたくないし、意地でも諦めません。その理解は、自分自身に対する理解にも繋がると思うから。それが、私が「書く」ことの原動力なのでしょうね。

地域医療ジャーナル主催「医療と音楽の出会い」講演風景(2018/6/10)

今回のお相手=佐藤由美子(さとう・ゆみこ)
ホスピス緩和ケアの音楽療法を専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院音楽科を卒業後、オハイオ州のホスピスで10年間音楽療法を実践。2013年に帰国し、国内の緩和ケア病棟や在宅医療の現場で音楽療法を実践。その様子は、テレビ朝日「テレメンタリー」や朝日新聞「ひと欄」で報道される。2017年に再び渡米し、現地で執筆活動などを行う。著書に『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』、『死に逝く人は何を想うのか――遺される家族にできること』(ともにポプラ社)がある。現在はWEBアスタにて『戦争の歌がきこえる』を連載中。
 HP: https://yumikosato.com

▼WEBアスタの連載『戦争の歌がきこえる』

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