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「息苦しさ」の正体(荒井裕樹)

【連載】黙らなかった人たち:理不尽な現状を変えることば 第1回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2018年2月8日にWEB astaで公開された記事を転載したものになります。

「つらい」とか「苦しい」ってはっきり言えますか?

 この文章を読んでくれているあなたは、「つらい」とか「苦しい」とかって、はっきり言えますか? 
 わざわざ「はっきり」なんて強調したのは、単なる愚痴とか弱音とかいうより、もうちょっと踏み込んで、怒りとか憤りとか、そういう要素を込めてということなのだけれど。
 もう少し言うと、会社とか学校とか友だち付き合いで「理不尽だ」と感じることがあったとき、「それはおかしい」って、はっきり言えますか?

 簡単に自己紹介をさせてもらうと、ぼくは「自己表現」を研究テーマにする文学者。とらえどころのない肩書きだけれど、簡単に言うと、読んだり・書いたり・聞いたりと、とにかく言葉のことばかり考えて、日々生活している人間だ。
 そんなぼくは、いま強い危機感を覚えている。ぼくたちが生きるこの社会に、「言うのは簡単だけれど、言えば言うほど息苦しくなる言葉」があふれていることに。

Aさんが「ありえない」と思っていた「うつ」になるまで

 ぼくがこんなことを考えるようになったのには、きっかけがある。

 ぼくが慕っていた先輩(仮に「Aさん」としておく)が、職場のハラスメントが原因で「うつ病」になり、苦しい思いをしたことがあった。
 症状そのものもつらそうだったけど、それよりも苦しそうだったのは、「うつになった自分」を受け入れられない自己認識のトラブルみたいなものだった。
 Aさんは、とにかく仕事を休むことを嫌がった。心配した人からクリニックの受診をすすめられても、かたくなに拒んだ。自分はそんなに弱くない。ここで怠けたら職場に戻れなくなる。そう言って毎朝、定時に家を出続けた。 
 ある日、重い身体を引きずるようにしてバス停のある国道を歩いていると、ふと「あの大きな車の下に飛び込めば楽になれる」という考えが頭をよぎった。その瞬間、Aさんは急に怖くなって、自分の限界を自覚した。

 のちのちAさんの状態が落ち着いてから話を聞いたけど、なんとも複雑な気持ちになってしまった。
 その職場には以前にも、心を病んで休職したり、出社しても簡単な仕事しかできない社員がいたらしい。Aさんは、そういった人たちを陰で批判していた。「仕事ができない人がいるから、こちらの負担が増えて困る」とか、「あれで給料もらえるならうらやましい」とか。
 Aさんは別に「悪い人」というわけではない。こうした言葉って割とよく耳にするし、その場の雰囲気を壊したくない人なんかは、つい同調してしまったりする。Aさんもそういったタイプの人だ。
 そのAさんの心が悲鳴を上げた。自分が批難していた人と同じ状況になった。いままで自分が言い放ってきた否定的な言葉が自分に返ってきた。「ああいう人たち」と思っていた立場に、自分がなってしまったと認めるのが怖くて、助けを求められなかったというのだ。

 こうしたハラスメントが起きると、「やめてって言えばよかったのに」「被害を訴えればよかったのに」なんて言葉が飛び交ったりする。
 でも、それは形を変えた自己責任論。こういった言葉に、どれだけの人が黙らされてきたのだろう。
 ハラスメントって「個人的な問題」だと思われがちだけど、本当は会社とか組織のあり方が問われる「社会問題」。その社会問題に個人が直面しているのであって、ハラスメントで傷つけられることは「個人的な問題」なんかじゃない。
 だからこそ、相談できる機関を整備して、被害を私事化させないことが大事なんだけど、ハラスメントの怖いところは、個人から「相談しよう」という考えそのものを奪ってしまうところにある。
 しかも、Aさんの場合はなんともやりきれない。自分が「ああいう人たち」に対して放ってきた言葉に、自分自身が苦しめられるスパイラルに陥ってしまったのだから。

何がこの社会の「息苦しさ」をつくっているのか

 ハラスメント被害者への「やめてって言えばよかったのに」もそうだけど、本来なら社会の問題として考えなければならないことを、特定の個人に押しつけようとする言葉をよく見聞きする。

 こうした言葉って、「言う」のはとても簡単だ。
 深く考えなくていいし、手間もかからない。ちょっと「上から目線」で言えるから、優越感も味わえる。
 でも、この種の言葉は、言えば言うほど息苦しくなるものだ。

 最近、病気がある人、障害がある人、高齢になった人、貧困状態になった人、家族に何らかの問題を抱える人、犯罪被害に遭った人などのことを、「生きづらさを抱えた人」という言葉で表すことが増えた。なんだか回りくどい表現だけど、とりあえずこの言葉を借りておこう。
 冒頭でぼくが書いた「危機感」というのは、実はここに関わってくる。
「言うのは簡単」だけど、「言えば言うほど息苦しくなる言葉」が社会にあふれて、こうした「生きづらさを抱えた人」を黙らせようとする圧力が急速に高まってきているように思うのだ。

 厄介なことに、言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。そうした言葉の蓄積が、ぼくたちの価値観の基をつくっていく。
「心ない言葉」なんて昔からあるけど、ソーシャルメディアの影響で「言葉の蓄積」と「価値観の形成」が爆発的に加速度を増してきた。しかもその爆発を、個人が仕掛けられるようにもなってきた。それが怖い。
「誰かを黙らせるための言葉」が降り積もっていけば、「生きづらさを抱えた人」に「助けて」と言わせない「黙らせる圧力」は、確実に高まっていくだろう。

 Aさんが直面した「心の病」も、「弱い」「甘えてる」「怠けてるだけ」なんて言われることが多い。Aさんもそう言っていた。でも、そうした言葉が積もり積もって、本人がその「圧力」に潰されそうになってしまった。
 忙しくて疲れていれば、「こっちだって大変なんだけど」と愚痴のひとつもこぼしたくなる。毒づきたいときだってある。ぼくだって、そんな感情と無縁で生きてるわけじゃない。
 でも、「生きづらさ」の重さ比べをしても、決して楽にはならない。むしろ、結果的に「黙らせる圧力」を高めてしまうだけだ。
 こんな「圧力」を高めちゃいけない。理由は「生きづらい人が可哀想だから」じゃない。「可哀想」というのは、「自分はこうした問題とは無関係」と思っている人の発想だ。
 こうした圧力は、「自分が死なないため」にも高めてはいけないのだ

「息苦しさ」にあらがった「普通」の人たち

 残念なことに、「黙らせる圧力」は、黙っていても弱くはならない。
 これに抵抗するためにも、ぼくたちは、何らかの言葉を積み重ねていかなければならない。
 でも、どんな言葉がいいのだろう?

 ありきたりなことかもしれないけれど、「過去」に学ぶしかない。
 歴史を振り返ってみると、社会に向けて敢然と「黙らなかった人たち」がいた。たとえば、こんな言葉がある。

ある視点からすればいわゆる気が狂う状態とてもそれが抑圧に対する反逆として自然にあらわれるかぎり、それじたい正常なのです。

「精神病」というものへの偏見がいまよりもずっと強かった1974年、「全国『精神病』者集団」という団体が結成された。「精神病者」が連帯して差別や偏見に立ち向かい、患者の人権を軽んじる精神科医療の問題を厳しく指摘した団体だ(いまもし続けている)。

 引用したのは、ここに参加した吉田おさみ(1931-1984)の言葉。当時、「心を病む」ことは、「その人が悪い」の一言で片付けられていた。心を病んだ人は、とにかく薬を飲ませておくか、長期入院させておけば「問題は解決した」と考えられていた。

 その理不尽さに対して、吉田おさみは黙っていなかった。
 心を病むのは「抑圧に対する反逆」として「正常」なのだと言い切った。

 この言葉は、返す刀で「では『異常』なのは何? 誰?」という問いを突きつけてくる。
 環境や条件さえ整えば、誰の心だって壊れうる。
 だとしたら、心を壊しにかかってくるものの方が問題だ。
 この言葉を知ると、人の心が壊れうることへの想像力のない人が、この社会のあり方を決めていくのが、どれだけ恐ろしいことかがわかるだろう。
「心を病む」ということのイメージを根底から変えてくれる一言だと思う。

 自分の中にある価値観や先入観を揺さぶって、より深く考えるきっかけを与えてくれる言葉を「名言」と呼ぶのであれば、これはレジェンド級の「名言」だ。この社会には、こんなにも素敵で、でも埋もれがちな「言葉遺産」がある。

 それほど遠くない昔、吉田おさみのように、社会に対して「黙らなかった人たち」がいた。
 そして現在も、社会に対して「黙ってない人たち」がいる。
 この連載では、そうした人たちの名言を紹介したいと思う。言葉が社会の息苦しさをつくるのであれば、言葉でそれに対抗することもできるはず。そのためのヒントが「黙らなかった人たちの言葉」の中にあるはずだ。

 ぼくの研究の都合上、マイノリティ運動に関わった人たちの発言が多くなる。こうした社会運動に関わる人たちって、「特別な人」とか「偏った人」というイメージを持たれることが多いけど、ぼくが知っている運動家たちは、わりと普通で平凡な人たちが多い。
 ぼくらと変わらない「普通の人」が、社会や世間に対して黙らなかった。それが格好いいと思う。勇気をくれる。
 その人たちの名言――言った本人すら忘れてるような小さいものから、業界では伝説みたいになっているものまで――を、現代の問題にひきつけつつ紹介していきたい。
 でも、この連載は決して「まじめ」なものでも、「崇高」なものでもない。飽きっぽいぼくがマイノリティ運動を研究し続けられたのは、単純に「面白い」からだ。その「面白さ」を伝えたい。

 最後に、もう一言。
 言葉が「降り積もる」とすれば、あなたは、どんな言葉が降り積もった社会を次の世代に引き継ぎたいですか?
 ある人の「生きる気力」を削ぐ言葉が飛び交う社会は、誰にとっても「生きようとする意欲」がわかない社会になる。ぼくは、そんな社会を引き継ぎたくない。
 だから、こうして黙らないでいようと思う。
 この時代の息苦しさに、少しでもあらがえると信じて。


参考:吉田おさみ『"狂気"からの反撃――精神医療解体運動への視点』新泉社、1981年

荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

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