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掌編「イザベラの庭」沢渡晶

 喫茶店の名前はイザベラといい、生花店の方はレイミアといった。
 一度、どういう意味なのと尋ねると、知らないと言って二人は笑った。居抜きで買った時にはもう看板が出ていたし、名前を考える手間が省けたと思ったの。けれど、私が聞きたかったのは、店よりも実は庭のことだった。あの庭はいつから今のようになったのか。まるで腐敗する遺骸を青白い毛根が抱きしめているかのような、生と死の気配が旺盛に繁茂する庭。
 本当かどうかはわからないが、それまで二人ともお店を経営したことなどなかったという。それでも二人の店には、美人姉妹目当ての商店街のおじさん、おじいさんたちが結構通ってきた。
「笙子ちゃん、婆さんの仏壇にあげる花頂戴」
「あら、やだ、あたし亜季子よ」
「亜季子ちゃん、モーニング一丁、コーヒーは薄めで」
「まだわかんないの、わたし、笙子だから」
 二人がしょっちゅう持ち場を変えるので、そうした会話が一日に何度も交わされた。冗談だろうが、もうどっちがどっちかわかんなくなっちゃったの、と言っていたこともある。だから寝る前に決めておくの、朝になって、ベッドのこちら側に寝ていたのが笙子、あちら側に寝てた方が亜季子ってね。
「じゃあ、真ん中だったらどうなるんだい」と聞いたのは電気屋をやっている山田さんだったが、たぶん深い意味はなかったのだろう。それなのに、笙子(だと思うが)は、顔を赤らめて、「もう、中年って本当にエッチなんだから」と怒った。
 私が彼女たちの店に出入りしていたのは、祖父が身体を毀し、母が頻繁に家を空けなければならなかった半年ほどのことである。学校から帰ってもお祖父さんのところに行ってきますとメモが一枚あるきりで、家のなかはがらんと静かだった。いつもはいるはずの人がいないだけで、よく知っている場所がすっかり変わってしまう。あのとき、はじめて「からっぽ」には立派な重量感があるのだと気がついたのだと思う。のちになってペットが死んだときや恋人が去ったとき、私は窓硝子に青い空が映り込み、木の床だけが冷え冷えと光っていた灯りの消えた午後の室内を思い出した。
 当時の小学生は、今みたいに多忙ではなかった。習い事もせいぜい習字かそろばんで、バレエやダンスなんてよっぽどお嬢さまかハイカラな家の子でなければ行かなかった。塾に通っている子だってそれほど多くなかったし、うちはせいぜい「不良」にならなければいい、という程度のいい加減な教育方針の家だったから、別段何もしていなかった。唯一よその家と違うところがあるとすれば、テレビがなかったことくらいだろう。これも教育上の配慮などではなく、一時間以上テレビを見てしまうと、頭が忙しくなって眠れなくなると母が言うからに過ぎなかった。
 そういうわけで、私は暇をもてあました。もう木枯らしの季節だったので、外へ出ても遊んでいるこどもはいない。家で本でも読んでいればよかったのに、近所の花屋に入り浸った。そこが笙子さんと亜季子さんの店だったというわけだ。母親も都合がいいと思ったらしく、じきに、お店に行きなさいと百円玉を数枚食卓に置いて出ていくようになった。
 おそらくふたりは二十五は過ぎていただろう。そろそろ「いきおくれ」なる蔑称が囁かれはじめる頃合かも知れなかったが、私の目には充分に艶やかで美しいお姉さんに映った。この町に来るまで、どこで何をしていたのかは誰も知らない。ただ一度、これでも英文科を出ているのよと言って、イギリスの古い詩とやらの物語をしてくれたことがある。私のためのパスタを作りながらだった。父母の出払った休日などには、イザベラで昼食をとるようになっていた。
 昔々あるところに(で始まったかどうか)、一人の若い娘がいた。裕福な商家のお嬢さんだったが、使用人の若者に恋をした。倉庫や石段の陰での束の間の逢瀬。身分違いの恋だった。
 二人の兄がいた。若いのにこの街最高の富者と目されていた。妹もやがて有力者の家に縁付けて、と考えていた二人は、番頭の讒言で妹の恋を知り、若者を亡き者にしようと企んだ。
 翌朝彼らは急ぎの旅に出ると告げて若者を供に指定した。そうして森の奥に連れて行って殺した。遺骸は大きな樹の下に埋めた。
 いま私は本当に聞かされた通りに語っているのか、あまり自信がない。なにしろまだ十だったときに聞いた話なのだ。いつのまにか脚色が加わっていると考えたほうが自然だろう。しかし、ずいぶんひどい話だと思ったのはさすがに覚えている。
「それで、娘のほうはどうしたの」と私は聞く。
「もう、それは泣いて泣いてね」と沸き立った鍋にパスタを放り込みながら片方が言う。
「数日してお兄さんたちは帰ってきているのね。それで、若者のほうは先に帰したって嘘をついて」ともう一人が刻んだ玉ねぎを炒め始めた。
「娘はずっと待ってるんだけど帰ってこなくてね」
「すっかりやつれて、顔の色も悪くなって」
「あの人はどうしたのか、盗賊に襲われたのか、急病になったのか」
「そんなとき、夢を見るの」とトマトピューレをフライパンにあける。
「夢に若者が出てきて、自分は森の中にいるって」
「それで娘は翌朝、下女と一緒にこっそり森まで馬を走らせて、」
「すると本当にあるの。夢の中で言っていた四辻が」
「そこの樫の木の根元を掘ると、変わり果てた若者の姿が」
「娘は泣きながら若者の首を切り落としてね。女手じゃ遺体全ては運べないから」。
「げげっ、首だけ」と私。
「そう、こっそり持って帰って綺麗に洗ってから、金の櫛でこうやって」と亜季子さんは片手に持ったお皿に乗せた見えない首の髪をやさしく梳いてみせた。
「ほら、皿、下に置いて。パスタ盛るから」
「それから兄たちに見つからないよう、深い鉢の土の中に埋めて」
「鉢?」
「そう、ちょうどこれくらいのサイズかな」と笙子さんは、秘伝のソースが入っているのだという大ぶりの壺から中身をお玉ですくってフライパンの中にかけまわし、つづけて茹だったパスタを入れた。
「バジルの苗を植え、毎日涙を注いでやると、すくすく育って、見事に美しく繁りましたとさ」
「バジルってなあに」
「ほら、これだよ」とフライパンにサッサッと何かをふりかけると、その中身を皿に盛り付けた。未知の香りが湯気とともにふわりと立ち上がった。初めて嗅いだハーブの香りだった。
「どうぞ、召し上がれ」
 スパゲティやカレーライスなどどこの喫茶店にもあるような平凡なメニューだったが、一工夫あってどれもおいしかった。どこか都会的であったといってもいい。大抵の店にはケチャップの味のするミートソースかナポリタンしかなかった時代だ。
 食事が済むと、喫茶店の隅で漫画を読むか、宿題をする。飽きると、花屋の方を覗くこともある。
 姉妹の経営する生花店は少し変わっていた。様々な花がバランスよく適量並んでいるのではなく、小さな店内が、ときにはポインセチアの真紅のビロードで埋め尽くされたり、太陽のような向日葵の氾濫で溺死しかけたりした。だからたまたま店先を通りがかるだけで、にわかに頬をはたかれたみたいに季節が実感されるのだった。もちろん花市場から仕入れはしていたと思うし、そうでなければ商売はできなかっただろう。けれど店内でもっとも豪勢で猛々しい花々は、自分たちで栽培したものと決まっていた。それらは確かに大きさも形も不揃いだったし、葉にギザギザの虫喰いがあったりしたけれど、專門の花卉農家で育てられたものとは違う傲慢なまでの輝きを放っていた。自分たちで言うように、姉妹は生まれながらの「緑の親指」を持っていて、植物を育てる特別な才に恵まれていたのだ。
 花を育てている店の裏の庭。そここそが私の憧れの場所だった。店の建物はL字型になっていて、長い方の辺に二軒の店が並び、短い辺が住居になっていた。暇なときよく私は店の隅に座って、庭を窓から飽かず眺めた。古びた窓硝子は、場所によってわずかに厚みが違うので、ゆっくりと頭を動かすと、呼応して風景も歪んでいく。ぐんなり変形していく庭は、奇妙に荒々しい気配に満ちていた。打ち捨てられた素焼きの壷(テラコッタ)、壁を這う緑の蔓、デルフィニウムの青や紫、槍の穂先のようなルピナス。そこでは傍若無人に伸びようとしている植物の生命と、盛りを過ぎ、死滅しかけているものたちの思念とが拮抗し、不思議な緊張関係を形作っていた。しかし、どれほど頼んでみても、二人は決して庭に入らせてはくれなかった。私は額に痕がつくほど窓硝子に顔をおしあてて、鍵穴をのぞくアリスのようにその庭に焦がれた。
 どうしてあんなにあの場所が魅力的に思えたのだろう。その頃読んだ赤い表紙の少女小説の影響もあったのかもしれない。それは孤独な孤児の少女が高い塀に囲われた庭園を発見する話だったけれど、そもそも十くらいの女の子は誰でも自分だけの秘密の場所があればと願っているのではないだろうか。それが小さな花盛りの庭であればなおさらだ。「砂漠が美しいのは、どこかにひとつの井戸を隠しているから」。これも同じ時期に読んだ妙に感傷的な物語の一節だったが、私もこの庭は何か秘密を隠しているからこんなに素敵なのに違いないと思い込んだ。
 こうして私は庭に踏み入る機会をうかがいながら、毎日のように姉妹のもとを訪れていたのだった。するとときには小さな波乱もあった。
 その日も常連の客たちがカウンターの姉妹と世間話を交わしていた。
 こうしたとき、必ず口にのぼる話題のひとつに「キヨシくん」があった。
「あれはいつだったっけね、キヨシくんがふらりと現れたのは」と山田さん。
「もう四年近く前になるねえ。ひどい雨降りだったじゃない。びっくりしたよ、傘もささずに戸口に立ってねえ」と鈴木さんが応じる。
「彼はなにかい。学生運動崩れかい」佐藤さんがたずねると、「そんなことも言ってたかしらねえ」と亜季子さんがコーヒーを淹れながら言う。
「俺は親父と喧嘩して家を出たんだって聞いたよ。家を継げってうるさいから。いいとこのぼんぼんだってねえ」と木下さん。
「そう言われてみればそんなとこもあったかもね」と笙子さんが笑う。
「それが翌日には厨房に立っているんだもの。驚いたのなんのって」
「お金がないっていうから、働いてもらってたの」
「俺は悔しくってね。愛しの笙子ちゃん、亜季子ちゃんがこんな若造に取られちゃうのかと思うと」
「やだ、人聞きの悪いこと言わないで」
「だって住み込みだったんだろう。俺たち、連名で抗議しようって話し合ってたんだ。その青っちろい面の兄ちゃんを叩き出せってね。なあ、山田さん」
「そんなに興奮すると血圧上がりますよ」
「で、結局、どれくらいいたんだっけ」
「半年くらいかなあ」
「本当に突然いなくなっちゃったのかい。その、前触れみたいのなかったの」
「なあんにもなかったの。朝起きて見たら、いなくなっていて。もともと持ち物もショルダーバッグひとつだったしねえ」
「朝起きて見たらって、ちょっと、亜季子ちゃん」
「鈴木さん、おかしな想像はしないこと。もちろん部屋は別々でしたよ」
「本当かなあ。だけどキヨシくんは二人のうちどちらかと一緒になりたかったんじゃない。どう、そんな風に言われたことない?」
「本当言うとね、一緒に逃げないか、と言われたことが」と亜季子さんが声をひそめる。
「なに言ってるの。キヨシくんはわたしに駆け落ちしないかって言ったのよ」と笙子さんが食ってかかる。
「それはキヨシくんが姉さんをわたしと勘違いしてたのよ」
「ちがう。それは逆。あなたのことをわたしだと思い込んでたの」
 二人が大袈裟に睨み合ってみせると、常連の誰かが、嬉しげに割って入るのだった。
「まあまあ、おさえておさえて。一人の男を巡って痴話喧嘩かい。妬けるねえ。俺ならいつでも連れて逃げるよ。笙子ちゃんでも亜季子ちゃんでも」
「そんなこと言っていると、奥さんに言いつけますよ。そういえば、娘さんの結婚式の御衣装決まったの?」
 いつもなら、このあたりで次の話題に移っていくはずだった。ところがその日は、隅の席に座っていた男がおもむろに口を開いたのだ。
「そのキヨシくんの話、もう少し聞かせてもらえませんか」
 店内には、不自然な沈黙が広がったと思う。もともと常連以外が店の会話に口をはさむことはまれだった。
 男は立ち上がって名刺を差し出す。
「わたくし、キヨシくんのご家族から調査を頼まれているものです。彼がここにしばらく滞在していたことまでは我々でも調べがつきました。ただ、そのあとの足取りがどうにもつかめないのです。行き先など、何か心当たりがないでしょうか」
 さあ、と姉妹は顔を見合わせた。常連たちは、居心地が悪そうにきょろきょろした挙句、やがて、それじゃと言って一人ずつ足を忍ばせるようにして帰っていった。
 姉妹たちは、男とカウンター越しにしばらく低い声で話し合っていたが、やがて亜季子さんがこちらに来ると、「ごめんなさい、今日はちょっと帰ってくれる」と言った。長い髪が簾のように目の前にかかって、その表情が妙に凄艶に感じられたのを覚えている。笙子さんの方はカウンターから出て、「続きのお話は奥の方で」と男を案内していた。
 家に帰る道すがら、そういえば恋人を鉢植えに埋めたあと、娘がどうなったか聞きもらしたことに気がついた。その後の兄たちの運命も。娘は若者の首が入っている鉢を抱えて毎日泣き暮らしたのだろうか。バジルの木はいつ頃まで青々とした葉を繁らせていたのだろう。
 その日の夕刻、昼間の調査会社の男が、吹きっさらしの駅のホームに佇んで電車を待っているのを見た。表情まではわからなかったけど、その影はどこか悄然としていた。
 それから二週間ほどあとのことだ。私は花屋にいた。
 クレマチスの花弁のしっとりとした色彩を眺めていると、すぐ隣にいた上品な老婦人が、不意に小さく息を飲んで、私の肩をきつくつかんだ。と同時に、小刀のような金属の色彩が、緑の茎のあいだをうねりながらすばやく滑っていくのが見えた。ほんの十センチほどだったが、確かに蛇だった。どこからか紛れ込み、花叢のあいだにじっとひそんでいたのだろう。老婦人は今度こそ高い悲鳴をあげ、彼女の指が私の膚に食い入るのと、笙子さんたちが異変に気がついて駆けてくるのが同時だった。
 ひとたびありあわせの椅子に腰を下ろして落ち着くと、亜季子さんがお茶でも持って来ましょうと立ち去りかけるのを老婦人は引き止めて、いえ、あなたたちに会いたくて来たんです、と言った。わたしたちに? ええ、キヨシのことを教えてもらおうと思って。笙子さんと亜季子さんの顔がこわばるのも気づかぬ様子で、老婦人は立ち上がり、大袈裟な笑みを浮かべながら近づいた。ねえ、本当はキヨシがどこか知っているんでしょう。返してほしいんです。一人息子ですもの。にこやかだった表情が変わり、目がつりあがって瞳孔がゆっくりと広がった。何もいますぐ帰ってくれとは言いませんけれど、便りのひとつくらい出すべきじゃないかしら。わたしだって心細いんです。おわかりでしょう。あなたたち、キヨシに何をなさったの。ことばの中身と関わりなしに、声はますます甲高くなる。亜季子さんが一歩あとずさる。いやだ、少しは返答なさいな。失礼ですよ。わざわざ来たのに。どこ、あの子は、今どこにいるの。ねえ、ほら、キヨシを返してよ、この売女売女売女売女。最後のことばは罵声にかわって、笙子さんにつかみかかると、しがみつき、押し倒した。その弾みで私も転倒し、水で濡れた冷たいコンクリートの床に叩きつけられた。最後に覚えているのは、硬直して立ち竦んでいる亜季子さんの青ざめた表情と、警察を、という笙子さんの甲高い叫び、そして紫のライラックの棚がゆっくりと倒れてくる姿である。むせかえるような香りに包まれて私は意識を失った。
 たんこぶができちゃったけど、もう大丈夫。次に目覚めたとき、亜季子さんはそう囁きながら、ひんやりと冷たい濡れタオルをこめかみにあててくれた。かたわらでは亜季子さんが、心配そうにこちらを覗き込んでいる。私は太陽の香りのする毛布にくるまっている自分を見出した。どうやら住居部分の居間にいるらしい。身じろぎするたびに躰の下で沈むのは、ソファのいささか緩みのきたスプリングだろう。
「あの人は」と尋ねると、救急車が来て連れていったと返事があった。まだ痛い? お医者さんのところに行く?と聞くので首をふった。
 それならもう少し寝ていなさい。そう言って二人が店に去ったあと、言葉通り眠りについた。
 夢の中で訪れたものがあった。紫の唇はところどころ裂けて血が滲み、蒼白の額には泥がついていた。その唇は何度となく虚しく開かれたけれども、ことばは石のように喉でつかえてしまい、どうしても出てこない様子だった。すっかり肉の落ちた頸周りの、喉仏がそのたびに上下するのが哀れだった。
 目覚めたあとも面影は脳裏に焼き付いていた。起き直り、室内を見渡していると、壁にかけられた大きな姿見を何か影のようなものがすっとよぎっていった。ようやく私は気がついた。彼はまだここにいて、私の目覚めを待って、出ていったのだ。
 立ち上がり、窓際に立ってサッシを開けた。濡れ縁の下にあったサンダルをつっかける。
 室内からは、すっかり研がれた刃(やいば)の色に暮れていた空も、外に出てみるとまだ光の微粒子を含んでいた。西の地平線は、橙色の筋が滲んでいる。
 昏い沼の水にゆっくりと身を浸していくように、一歩ずつ、憧れの庭にわけいっていく。名前の知らない葉叢がざわめき、肩に触れたアカンサスの花穂が揺れた。夕暮れの庭は私を陶然とさせた。それがあまりにもながいあいだ夢見ていた通りだったので、なんだか嘘のような気がしたほどだ。闇に半ば溶けかけたブルースターの色があまりに非現実的で、思わずためいきが洩れた。
 切り傷のような新月が空に架かっている。
 一本だけ立っているフウの木をまわりこみ、黒くなめらかな硝子の温室の脇を通り過ぎると、繁みに閉ざされて、庭のほかの部分から見えない場所にその池はあった。池といっても、いかにも人工という風の、石とタイルで縁取られたごく浅いものだった。そこは、主に水辺の植物の栽培にあてられているらしく、ユリやクロッカスの花が岸辺に咲き乱れている。
 私はかがみこみ、黒い鏡のような水面に目をこらした。あのとき、不安とも惑乱ともつかぬまま激しく高鳴り始めた心臓の鼓動を、今でもくっきりと思い出すことができる。たぶん、私はもう知っていたのだ。
 水仙の花が強烈な芳香を放っている。その白い指のような根にやさしく絡まれているのは、もう肉はすべて腐り落ちて泥にかわってしまったようだったが、残された一房の髪の毛が、藻のように水に揺らいでいる、横たえられた、白い頭蓋骨。
 二人の店が閉められたのは、それから十日ほどたってからのことである。二人がかりで大きなトランクを駅へ運んでいく姿を見たものがいるらしい。取り残された常連たちは、しばらくのあいだ、腑抜けた顔つきであてもなく商店街を徘徊していた。道の端でぶつかると、二人が好きだったのは本当は自分だとか、山田や佐藤や鈴木や木下のセクハラめいた軽口に愛想をつかしたのだとか言い合っていたが、そのうちそれも、同居する家族の愚痴や体調や持病の話題に横滑りしていくのだった。
 学校の帰りしな、柵ごしに、打ち捨てられた庭を眺めるのが私の日課になった。その庭に特別な生命を与えていた秘密の呪文はとけてしまって、花々は日ごとに黒く萎び、草叢は無秩序に広がって、かつてあった均整を覆い隠してしまった。こどもたちが石でも投げるのか、温室の硝子は割れ、そのギザギザの隙間から立ち枯れた植物が見えた。やがてセイタカアワダチソウが繁茂し始め、夏が終わるころには目に入る限りの場所を、野蛮で野放図な緑と黄色の色彩で埋め尽くしてしまった。それから一気に衰亡が庭を襲い、冬になると、気がつけば、そこは茶色い雑草がまだらに生えているだけの、貧相な空き地に過ぎなくなっていた。さすがにわたしも、義務のようになっていたその場所で足をとめる癖をやめることができた。
 あれ以来、高校を卒業して街を出てからも、あの場所を訪れたことはない。
 一度、青山の花屋から、双子のようにみえる老女二人が、大きな花束を抱えて出てくるのとすれちがったことがある。一瞬、笙子さんたちではないかと立ち止まったのだが、何と声をかけたらいいのかわからずに、気づかぬふりをしてしまった。だが、あれはこちらの気の迷いだったのだろう。全然、姉妹には似ていなかった。
 あれから四十年が過ぎた。だが、今でも時々夢をみるのだ。
 目覚めたあと、不思議な気持ちになる。なぜ私が、こんな夢を。
 私は若い娘だった頃に戻っている。片手に大きな皿、その上に男の首。そして、雫をたらしている濡れそぼった髪を静かに櫛けずり、涙を流しながら、冷たい唇にくちづけするのである。


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