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「お国の役」に立たなかった人(荒井裕樹)

連載:黙らなかった人たち――理不尽な現状を変えることば 第7回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2018年8月6日にWEB astaで公開された記事を転載したものになります。

伝説のデパートマン

 実は、祖父母と接した記憶がほとんどない。「じいちゃん、ばあちゃん」というと、ぼくには何だか遠い存在だった。
 そのせいか、「祖父母ほど歳の離れた人」に惹かれるところがあって、学生時代に親しくさせてもらった人にも「不思議なおじいさん」が多かった。

 某有名デパートの接客係を長く務めた「Tさん」もそうで、これまた素敵なおじいさんだった。何やら業界では伝説的なデパートマンだったみたいで、居酒屋にいくと「もう時効だから」なんて言いつつ、思い出に残るお客さんの話をしてくれた。
 三島由紀夫はいつも素肌に革ジャンだったとか、坂本九が亡くなる一週間前にラウンジで一緒にコーヒーを飲んだとか、そんな話がたくさん出てきた。「レコーダー回しとけば良かったな」なんて気もするけど、ぼくの経験上、こういう話はレコーダーを回すと出てこない。世の中には「残そうと思うと、残せないもの」があるのだ。

身体が叫んだ「ありゃ勝てない」

 この人には、よく「太平洋戦争」の頃の話も聞かせてもらった。
 敗戦時に下士官だったTさんは、その後「いろいろやって」米軍の艦船に雇ってもらったらしい(詳しい経緯は不明)。
 いざ米軍の内部に入ってみると、驚くことがたくさんあったようだ。
 例えば食べ物がうまい。缶詰を支給されて「こんなうまいもの食ってんのかって驚いたよ」とのこと。それからライフルが軽い。「あんなに身体でかい連中が、あんなに軽いの持ってんだもの」なんて言っていた。
 食ってみて、持ってみて、出た結論が「ありゃ勝てない」。
 戦争を生き抜いた人間の身体がはじき出した結論だけに、なんだか妙に説得力があった。

 そんなTさん。実は敗戦直後の硫黄島(言わずと知れた激戦地)にも行ったことがあるとか。上陸してみると、兵士たちの死骸があちこちに転がっている。日本兵の眼の穴から草が伸びて赤い実を付けているのが眼に入り、しばらくトマトが食べられなかったらしい。
 とっても陽気なおじいさんだったけど、こうした話をするときは、穏やかな顔が少し陰った。たぶん、この種の「つらいもの」をたくさん見てきたのだろう。

 ぼくが知り合った頃、Tさんは80代後半で、半身が不自由だった。それでも車椅子で居酒屋に繰り出して、サンマの塩焼きを頭から丸かじりしていた。
 こちらの懐事情に合わせて激安チェーンに付き合ってくれて、別れ際はいつも満面の笑みだった。さすが伝説の接客係。
 そういえば「自伝を書いてる」といっていたけれど、その後、どうなったんだろう。

「戦争にいけない」ことが怖かった

 で、今回は何が言いたいかというと「戦争体験を聞ける機会が少なくなってきた」ということ。8月になると戦争にまつわる行事も多いから、ふと、こんなことを考えたりする。
 体験者の生の声を聞くことには、大きな意味がある。
 いま目の前にいる人の心と身体が、かつて、大きく深く傷ついたのだということ。それを知るだけでも、きっと意味がある。そして、その傷口から漏れ出る言葉に触れるのは、独特の緊張感がある。

 なかなか聞けなくなった戦争体験だけど、「障害者の戦争体験」もほとんど聞けなくなってしまった。
 学生時代、戦争を生き抜いた障害者の話をたびたび聞くことがあった。中には二人ほど、貴重な「徴兵検査を受けた経験」を話してくれたことがある。

 そのうちの一人は「ハンセン病療養所」にお住まいだった方。ぼくがお会いした時は認知症が進んでいて、何を聞いても「さあ、どうだったですかね......」という返事ばかり(もともとのインタビューの主旨は、同じ療養所で生活していた小説家への質問だった)。
 でも、ときどきシャキッとなって、「あなた、お若いようですけど『徴兵検査』って知ってますか?」と切り返してくる。
 その人は療養所の中で「徴兵検査」を受けたとか。対象になった患者が一列に並ばされて、検査係の将校から冷たい眼でニラまれる。その人は足に「斑文」(ハンセン病の初期症状のアザ)があって、そこに冷たい視線が注がれる。
 とにかく、それが怖くてつらかった、という話が何度も何度も繰り返された。

「よっぽど怖かったんだなぁ」なんて思いながら話を聞いていたけど、よくよく聞いていると、ぼくが考えていた「怖い」のポイントと、その人が感じていた「怖い」のポイントが、ちょっと違うらしいことに気が付いた。
 ぼくは勝手に「もしかしたら戦争に連れ出されるかも知れない恐怖」を経験したんだろうと思っていた。でも、その人が経験したのは、むしろ「戦争に行けない役立たずという烙印を押される恐怖」だったようだ。
 ぼくは戦争を経験したことがないけれど、「殺す」のも「殺される」のも超絶に嫌なので、「戦争に連れ出されるかも知れない恐怖」というのは、なんとなくわかる。
 でも、それを上回る「烙印を押される恐怖」って一体どんな感覚だったんだろう。

病気になって申し訳ない

 ある時代特有の「感覚」について考えるには、いろんなエピソードを重ね合わせていく必要がある。
 ぼくが見聞きした範囲(の一部)では、戦時中の障害者にまつわるエピソードとして、こんなものがある。

 ハンセン病療養所の古老から聞いた話だけど、戦時中「こんな情けない病気になって申し訳ない」と割腹自殺をした患者がいたとか。しかも、病気の血で周囲を汚さないよう、わざわざタライを抱えていたらしい。
 他にも、肢体不自由児学校の校長先生が、視察に来た教育関係者たちから罵られたとか。「国家が非常時なのに、この学校は障害児ばかりを相手にしている。良心に対して恥ずかしくないのか。いますぐこの施設をお国の役に立てろ」ということらしい。

「役立たずという烙印を押される恐怖」って、「自分は生きるに値しないから自死すべき」という心理状態に追い込まれるようなこと。また、そうした自分に関わってくれる人までが「こんな人間の手助けするのはけしからん」と罵られるようなこと。
 たしかに、それは生きた心地がしないはず......。

なぜ、彼らは戦争を「賛美」したのか?

 そういった状況に追い込まれた人の詩が残っている。別の媒体でも紹介したことがある詩だけど、ここでも紹介しておきたい。戦争のまっただ中(1943年)に、とあるハンセン病患者が書いた詩だ。

鉄砲 鉄砲!/機関銃 機関銃!/ひとつみんなで血書の/嘆願書をださうぢやないか!/とんできた米鬼には/支那のヘロヘロ飛行機さんには/日本のどこへきても/日本人のゐるところなら/たとへ癩病院の上空までが/かたく守られてゐるといふことを/思ひしらせてやるために――/ダ ダダ ダツ ダダダ/鉄砲を下さい!/機関銃をおさげねがひたい!/鉄砲と機関銃をおねがひします!/どうか どうか/おねがひします鉄砲を! 
(三井平吉『おねがひします鉄砲を』第6連)
※「癩(らい)」というのは「ハンセン病」を意味する当時の呼称。「支那」も中国を意味する当時の言葉です。歴史的な資料であることを考慮して、そのまま紹介します。

 この連載は「理不尽な現状にあらがう言葉」を紹介するものだけど、今回はあえて「理不尽な現状が如実に反映した言葉」を紹介してみた。 
 戦時中の障害者たちは、「お国の役に立たない」ということで、ものすごく迫害された。「国家の恥」「米食い虫」なんて罵られた。
 そうした迫害に苦しんだ人たちだからこそ、「障害者を苦しめる戦争反対!」とはならない。むしろ、なれないのだ。

 迫害されている人は、これ以上迫害されないように、世間の空気を必死に感じ取ろうとする。どういった言動をとれば、いじめられずにいられるかを必死になって考える。
 だから、戦時中の障害者の文学作品には、実は熱烈に戦争を賛美するものが多い。「戦争の役に立たない」からこそ、逆に「私はこんなにも戦争のことを考えています」といった表現をしなければ、ますますいじめられてしまうからだ。

「強制」がないことの怖さ

 誤解を怖れずにいうと、障害者たちは「強制的に戦争を賛美させられた」わけじゃない。むしろ「自発的」にそう考えていた。
 正確に言うと、「自発的にそう考えるように仕向けられた」というか、「そうした考え方を持っていると表明すれば、その瞬間だけは世間からいじめられずに少しだけ楽になれる」ような状況を生きさせられていた。
 これって、あからさまに何かを「強制」されるよりも、ずっと怖い。

 強権的で抑圧的な社会って、いくつかの段階がある。
 まずは、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことをためらわなくなる。
 次に、そうした人たちを、迫害して、排除して、黙らせる。
 黙らせたところで、今度は逆に語らせる。
「こうしたことを言えば、仲間として認めてやらなくもないんだけど」という具合に、「強制」することなく、あくまで「自発的」に語らせる。
 こうして「強制的に語らせた人」の責任は問われることなく、「自発的に語ってしまった人」だけが傷ついていく。

 最近、「いまの日本って、どの段階だろう」なんて不気味な発想が頭をよぎる。何だか、あの戦争の頃と近い空気が漂っているような気がするのだ。
 こんなことを言うと、「戦時中と現在を同列に並べるなんてナンセンス」という人もいる。たしかに、それはそうだ。
 でも、結構「似ている部分」もありますよ。

 という具合に今回の文章を終えようとしたら、「生産性のない人への支援は後回し」という発言をする国会議員の話題が出てきて、なんだかもう「めまい」が止まらない。

 誰かに対して「役に立たない」という烙印を押したがる人は、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことによって、「自分は何かの役に立っている」という勘違いをしていることがある。
 特に、その「何か」が、「漠然とした大きなもの」の場合には注意が必要だ(「国家」「世界」「人類」などなど)。前回ふれた「相模原事件」の容疑者にも、同じような問題が見て取れる。

「誰かの役に立つこと」が「『役に立たない人』を見つけて吊るし上げること」だとしたら、ぼくは断然、何の役にも立ちたくないです。


参考:「障害者の戦争体験」の基本文献には、障害者の太平洋戦争を記録する会編『もうひとつの太平洋戦争』(立風書房、1981年、残念ながら絶版)があります。

荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

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