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生きるに遠慮がいるものか(荒井裕樹)

連載:黙らなかった人たち――理不尽な現状を変えることば 第12回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2019年1月1日にWEB astaで公開された記事を転載したものになります。

遠慮は「する」もの? 「させられる」もの?

 いまひとつ釈然としない表現に「遠慮するなよ」がある。
 上司や先輩から言われたり、友だち同士でも言い合ったりするありふれた表現だけれど、冷静に考えてみると腑に落ちない。
 というのも、「遠慮」というのは自発的に「する」より「させられる」ことの方が多い気がするのだ。
「いったい誰に?」と問われると、むずかしくて返答に困る。「そのとき眼前にいる人」とも言えるし、もっと広く「人は遠慮するのが望ましい」とか「出過ぎた真似ははしたない」といった文化や風潮のようなものとも言えるから、明確な相手を名指しにくい。
 それでも「遠慮」はたいてい、積極的に「する」わけではなく、ある種の圧力のようなものによって「させられる」ものだと思うのだ。

あなたは、生きることに「遠慮」したことがあるか

 人に遠慮をさせる有形無形の力のことを、ぼくは「遠慮圧力」と呼んでいる。普段はそれほどストレスにも感じないし、感じたとしても舌打ちする程度で済むけれど、特定の人たちにはそれが猛威を振るうことがある。
 そのことを教えてくれたのは、前回紹介した花田春兆さん(脳性マヒ者・文筆家・障害者運動家)の俳句だった。

初鴉「生きるに遠慮が要るものか」
(花田春兆句集『喜憂刻々』文學の森社、2007年)

 この句について、少し解説しておこう。

 冒頭の「初鴉(はつがらす)」というのは、「元旦」を表す季語のこと。(ちなみに「元旦」は元日の朝、「元日」は1年の最初の日)。
 季語というのは、ご存じの通り「季節を表すために詠み込むことを定められたことば」(『明鏡国語辞典』)のことで、俳句には季語を入れなければならないというルールがある。
 実は、「カラス」は季語の中に入っていない。というのも、この鳥は一年中どこにでもいるので、季語にしてもらえないのだ。それでも、年の初めのおめでたい日の、最初の一鳴きだけは格上げされて季語として扱ってもらえる。ただし「元旦」の季語なので「時間限定」かつ「一鳴き限定」。普段は街でのさばるカラスも、俳句の世界では肩身が狭いらしい。
 厄介者扱いされることの多いカラスが、季語として扱ってもらえる1年の第一声。この句は、そんなカラスの一鳴きを「生きるに遠慮が要るものか」という日本語(人間語)に翻訳しているわけだ。
 ふてぶてしく強がってみせるカラスの、その強がりの裏に一抹の寂しさが透けて見える。「天邪鬼(あまのじゃく)」を自称した反骨の俳人・花田春兆の面目躍如たる一句だ。

 ところで、この「生きるに遠慮が要るものか」というフレーズに、ぼくは言いようのない重みを感じてしまう。というのも、この表現は「生きることに遠慮を強いられた経験」がなければ思いつかないものだからだ。
 いま、この原稿を読んでいるあなたは、「生きること」に遠慮を強いられたことがあるだろうか。「遠慮圧力」に殺されかねない恐怖を感じたことがあるだろうか。
 この句を詠んだ春兆さんは、それを経験した人だった。

「人間」扱いされなかった人たち

 春兆さんは1925(大正14)年生まれ。障害者運動の業界では「最長老」のような人だった(2017年逝去)。
 1947(昭和22)年、春兆さんは「しののめ」という同人誌を創刊した。障害者自身の手で編集・発行された画期的な雑誌だった。
 当時、障害者のいる家は、障害者の存在を隠してしまうことが多かった。ときには「座敷牢」のように、家の奥深くに押し込めていた。だから「障害者が障害者と出会う」ことは、いまから考える以上に大変なことだった。
 そんな時代、春兆さんは、この雑誌を通じて障害者同士の出会いを演出していった。こうした地道な活動から、あの有名な「青い芝の会」が生まれることになる。

 ぼくは春兆さんの「私設秘書(付き人)」のようなことをしていたから、お若い頃の思い出話をよく聞かせてもらった。
 例えば、春兆さんが幼かった頃のこと。雪の舞う寒い日、いつも通りに学校へ向かうと周囲の様子がどうにもおかしい。銃を担いだ兵士たち慌ただしく走り回っている。学校に着くや、先生からは「急いで帰れ」との指示。どうやら青年将校によるクーデター「二・二六事件」(1936年)だったとか。
 春兆さんが通っていたのは、障害児のために開設された「東京市立光明学校」(現在の「都立光明特別支援学校」の前身)。この学校が所在していた麻布には、事件に関わった「歩兵第三連隊」の兵舎があったのだ。 
 この凄惨な事件と前後して、それまでは割と平穏だった光明学校にも、苦難の時代が訪れることになる。アジア・太平洋戦争がはじまると、ただでさえ肩身の狭い障害者たちは、兵力や労働力になれないということで「人間」として扱われなくなっていく。

「愛国表現」の勘違い

 当時の光明学校長・松本保平先生は、障害児教育に人生を捧げた偉大な人物だった。でも、その松本校長も、視察に来た教育者たちから「非国民」となじられている。国家が非常時にも関わらず、障害児に手間暇かけて遊んでいると責められたのだ(※1)。
 学校の先生が障害児に誠心誠意向き合う。そのこと自体が「非国民」扱いされる。そうした空気の中、当の障害児はどんな目で見られていたか。まさに推して知るべしという感じだろう。

 光明学校の子どもたちは戦争末期、長野県の上山田温泉に疎開している。この疎開先では、軍部から青酸カリが配給されたという話が伝わっている。もちろん、何か起きたときのための「処置用」だ。
 松本校長は、この「青酸カリ」のエピソードを否定していたようだけれど、疎開経験者のなかではまことしやかに語り継がれていた。当時は光明学校を卒業して軽井沢に疎開して春兆さんも、この件については何人もの仲間たちから聞いて、事実に違いないと確信していた。
「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」といった荒々しいかけ声に混じって、障害者たちは「米食い虫」「非国民」と罵られていた。敵を罵る社会は、身内に対しても残酷になる。松本校長をなじった教育者たちのように、「役に立たない人」を吊し上げることが「愛国表現」だと勘違いするような人たちが出てくるのだ。

 このエピソードを思い返す度に、最も安易でたちの悪い「愛国表現」は、その場の空気に乗じて反撃できない弱者を罵ることだと痛感する。
 こうした時代、障害者たちはどれほどの「遠慮」を強いられたのだろう。春兆さんは、それを肌感覚で知っている人だった。

「最も身近な敵は親である」?

「二・二六事件」に筆が及んだので、思わず戦時中の話に力が入ってしまった。でも、極端な社会状況になると「遠慮圧力」も極端なかたちで表面化するというだけのことで、障害者が「生きることへの遠慮」を強いられるのは、いつの世も見られる。
 もちろん、「遠慮」にもいろいろ種類がある。「世の中」「世間様」「お国」に申し訳ないといった「漠然とした相手への遠慮」もあれば、家族・友達・介助者といった「隣人への遠慮」もある。
 老若男女、障害や病気の有無に関わらず、「遠慮」をまったく感じないでいられる人は現実的にはほとんどいない。だから、みんなが、どこかで、だれかに「遠慮」している。

 それでも、障害や病気がある人の「遠慮」は、場合によっては命に関わる。日常生活の多くで人手を頼るわけだから、介護者との関係次第では、「ご飯を食べたい」とか「トイレに行きたい」といったことさえ「遠慮」してしまうことがある。
 この連載でもお馴染みの障害者運動家・横田弘も、実家での家族介護に限界を覚えた心情を詩に託している(第5回参照)。

生きると云う/生存すると云う 或いは食事すると云う/そんな簡単な事を苦痛に感じなければならないような/そんな生活はいやなのです/もう沢山です
(「老いた父に」『しののめ』1965年1月号、一部) 

 横田は家族(父親)に「もう沢山です」と言えたけど、そうは言えない人もいる。横田と同じ障害(脳性マヒ)の男性は、次のような詩を詠んでいる。

母よ/不具の息子を背負い/幅の狭い急な階段を/あえぎながら這い上がる母よ/俺を憎め/あなたの疲れきった身に/涙しつつかじりついている/この俺を憎め
(比久田憂吾「母にむかいて」『しののめ』1970年12月号、一部)

 この詩が詠まれた当時、障害者の介護は身内が引き受けることが多かった(いまでもそうすべきと考えている人は多い)。「社会」「世間様」「他人様」に迷惑をかけないように、身内が黙って引き受けることが美談とされた(こうした考えは未だに根強い)。
 でも、そうした「遠慮」は巡り巡って、積もり積もって、当の障害者本人に降りかかる。結果、この詩では自分を介護する母親への罪悪感がこじれにこじれて、「俺を憎め」という段階にまで来てしまっている。

 日本の障害者運動には、「最も身近な敵は親である」という主張があった。障害者の親は、「我が子が世間に迷惑をかけないように」と思い詰めて、子どもを自分一人で抱え込んでしまうことがある。そうした義務感が、 「この子を残して死ねない」というかたちに高まって、親子心中や障害児殺しという最悪の結末になることもあった。
 この閉塞感から抜け出さないと、親も障害者も生きていけない。横田弘の盟友だった横塚晃一(1935-1978年)も、次のような言葉を残している。

泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばさねばならないのが我々の宿命である。
(『母よ!殺すな』1975年)

「遠慮圧力」の男女差

 こうした障害者の中でも、特に重い「遠慮圧力」がかかってしまう人がいる。女性だったり、国籍がちがったり、お金がなかったり、という人たちだ。
 例えば、かつて女性障害者に対して、子宮の摘出手術が強いられることがあった。主な理由は月経時の介助を軽減するため。「生理現象」でさえ遠慮させられていたということなのだろう。
 実際に、摘出手術を受けた女性(脳性マヒ)は次のような短歌を残している。

メンスなくする手術受けよとわれに勧むる看護婦の口調やや軽々し
女などに生まれし故と哀しみつつ子宮摘出の手術うけ居り

(長田文子『癒ゆるなき身の』1961年)

「女などに」の「などに」の語感が悲しい。女性が「女性に生まれたこと」を悲しむ社会には、壮絶な女性差別が存在している。
 きっと、この人にも「女性らしく、迷惑をかけず慎み深く控え目であれ」という「遠慮圧力」がのしかかっていたのだろう。
 その一方で、子宮摘出というかたちで「女性であること」は否定されていたのだろう。そうした「引き裂かれた痛み」が、この31文字に結晶している。

「遠慮圧力」は、場合によっては死にさえ至る。最後に、もう一例だけ加えておこう。
 ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病がある。病気の進行とともに身体が動かなくなり、最終的にはまったく身体を動かせなくなる。自発呼吸もできなくなるので、生き続けるためには人工呼吸器を付け、24時間介助が必要になる(それでも街中で自分らしく生きている人たちはたくさんいる。そのことは知っておいてほしい)。
 この人工呼吸器の装着率には男女差が見られるという報告がある。男性が高く、女性が低いのだ(※2)。こうした点にも、ぼくは、女性に重くのしかかる「遠慮圧力」を感じてしまう。

「遠慮」が誰かを殺すとき

 世の中には「死に至る遠慮」があるし、「死へと導く遠慮圧力」がある。春兆さん世代の障害者は、とにかく「遠慮すること」を徹底的に刷り込まれてきた。命を削ってでも遠慮すべきだと教えられてきた。
 日本の障害者運動が最初に闘ったのは、まさにそうした「遠慮圧力」だった。だから、「生きるに遠慮が要るものか」の一句は、障害者運動の真髄だとさえ言える。

「みんな、それなりに『遠慮』しているのだから、障害者も『弱者』なんていう言葉にあぐらをかかず、もっと『遠慮』するべきだ」

 いまでも、こうした意見を持つ人がいる。ネットにも、同様の書き込みはよく見られる。
 でも、この世の「遠慮圧力」は、みんなに等しく均一にかかっているわけではない。やはり、どこかで、だれかに、重くのしかかっている。

 自分たちが生きる社会の中で、「生きること」そのものに遠慮を強いられている人がいることを想像してみてほしい。「遠慮圧力」が、ときには人を殺しかねないことを想像してみてほしい。
 たしかに、ある程度の「遠慮」は美徳かもしれないけれど、だれかに「命に関わる遠慮を強いる」のは暴力だ。多くの人は「遠慮で人が死ぬ」とは思っていない。でも、マイノリティにとって「遠慮が死因になる」ことは、現実に起こり得る恐怖だ(こうしたことは生活保護の現場でも起きている)。

 残念なことに、どれだけ言葉を重ねても、「そんな想像などできないし、したくない」という人たちはいる。そうした人たちと向き合う度に、障害者運動家たちが闘ってきた「マジョリティの他人事感覚」の壁の厚さに、ぼくは気が遠くなる思いがする。

※1 障害者の太平洋戦争を記録する会(代表・仁木悦子)編『もうひとつの太平洋戦争』(立風書房、一九八一年)参照
※2 酒井美和「ALS患者におけるジェンダーと人工呼吸器の選択について」『Core ethics(コア・エシックス)』№8、2012年

荒井裕樹
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

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