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「徹底して普通の物語、なのに感動させられるのは、彼が『位置』を書ける人だから」――2019年本屋大賞ノミネート作家・小野寺史宜の文章の魅力について、担当編集に聞いてみた。

 「ポプラ社一般書通信」を有志で始めることになったとき、いつか絶対にインタビューすることになるだろうな、と思っていたのが野村浩介という編集者だった。

 一般書事業の創立期から本を編集し続けてきた最古参。200万部の大ベストセラー『グッドラック』を仕掛けたかと思えば、『百年文庫』『百年小説』『諸国物語』など、この人以外には作れないであろう歴史に残る本を、フィクション・ノンフィクション問わず、いくつも手掛けてきた。

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野村さんが手掛けた本の一部。『あん』(ドリアン助川 著)は河瀬直美監督により映画化され、第68回カンヌ国際映画祭“ある視点部門”のオープニング作品に選出された。

 そんな野村さんの担当した本が、この5月と6月に出版される。2019年本屋大賞2位を受賞した作家・小野寺史宜さんの新刊だ。1冊は書下ろしの『ライフ』、1冊は2009年にポプラ社から刊行された『カニザノビー』を改題し、文庫化した『ナオタの星』。個人的に小野寺さんの作品は好きだったので、またとない機会だと思った。なので、依頼をした。野村さんは二つ返事で受けてくれた。4月も半ばのことだった。
 しかし、インタビューをすることになっている4月26日の一週間ほど前、「やっぱり語れないかもしれない」と言われてしまった。

野村 最近始まったnoteだけど、こういうやり方があるのかって新鮮だった。最初の記事もおもしろかった。でも、インタビューの記事を読んだとき、俺はああいうことを話せるタイプではないと思った。小説のことをちゃんと語ろうとするとネタバレは避けられないし、苦労話や自分のこだわりを話すことにもあまり興味はないんだよ。
 でも、せっかく言ってきてくれたから、何なら語れるだろうかと考えてみたんだけど、たとえば、文章を読むとはどういうことか、読むことの喜びとは何かみたいな、自分なりの文章論なら語れるかもしれないし、ちょっと語ってみたい。
 特に、小野寺さんの文章はある意味で独特だから、「なぜこれが小説になるのか」という「言葉の位置」みたいな話ができると思うんだ。たとえば漱石の文章なんかも引き合いに出しながらさ。つまらなかったら没でいいから、そんな感じでとりあえず話さない?

 「言葉の位置」ってなんだ? 真っ先にそう思った。そして野村さんの文章論、絶対に聞きたいと思った。何より、自分は小野寺さんの文章が好きなのに、その魅力を言語化できずにモヤモヤしていたから、それについて担当編集から聞けるなんてありがたいことこの上なかった(でも、つまらなかったら没か……こわっ、とも思った)。

 そうやって始まった会話の記録が、今回の長ったらしい記事だ。野村さんから「事前に読んできて」と言われたのは、プルーフ版『ライフ』と漱石が書いた3つの文章。『ライフ』に関しては該当ページのPDFを転載させてもらったので、ぜひ先に読んでみてほしい。漱石に関しては、余裕があれば図書館で借りてみてほしい。読まなくても先に進めるようにはなっているけど、読んでからのほうがきっとおもしろいはずだ。

■事前の宿題
プルーフ版『ライフ』の4節(35~46頁)と253~254頁
コチラから該当ページのPDFを閲覧できます。プルーフ版とは、事前の販売促進のために制作する簡易製本版のこと。

■参考資料(いずれも夏目漱石)
1.「写生文」(『夏目漱石全集10』ちくま文庫、1988年)
2.『硝子戸の中』の一、三十、三十三、三十九(『夏目漱石全集10』ちくま文庫、1988年/初出:「朝日新聞」1915年1月13日~2月23日)
3.「入社の辞」(『須永の話 他』朝日文庫3、1949年)

 インタビューは予定通り、連休前の居酒屋で行われた。「記事になるかどうかは考えず、天野くんだけに向けて話すから、適当に整えてね」――開始早々、野村さんは笑いながらそう言った。(聞き手=企画編集部・天野)

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『ライフ』のあらすじ
荒川と旧中川に挟まれた小さなアパートに、井川幹太(かんた)は暮らしていた。新卒で入社した大手製パン会社は二年半でやめ、次の会社も半年でやめてしまう。
今はコンビニと結婚式の代理出席バイトを掛け持ちする身。「一人ならこれで充分」と気楽に暮らしていたある日、アパートの二階にコワモテの戸田という男が引っ越してくる。
ちょっとしたアクシデントから戸田の家族のドタバタに巻き込まれ、幹太の暮らしは激しく揺さぶられていく。
ほどほどに暮らせればいいと思っていた青年が、心の底に眠っていた家族への思い、人と関わることの願望に気づき、新たな一歩を力強く踏み出していくまでを描いた青春小説。

「言葉の位置」って、なんだ?

天野 『ライフ』、すごくよかったです。

野村 読んでくれたの? よかったよかった。

天野 宿題の部分だけまず読んだのですが、気になって頭から読んじゃいました。特に、253ページの「言う。」からはじまる文章、ここが気になり過ぎて。

野村 ひとつ視点を決めたほうが話しやすいと思ったから指定したんだけど、俺も読み返しているうちに全部読んじゃった(笑)。視点を決めたら改めて発見があって、おもしろかったなあ。

天野 今回は参考資料として漱石の文章も挙げていただいています。そして、このインタビューの話をお持ちしたときに、野村さんが「言葉の位置」という意味深なことをおっしゃったことも覚えています。今日はそのことについてお話しいただけるんですよね?

野村 うん、今日話したいのはまさにそこ。じゃあそうだな、どこから始めようか。

なぜ、ただの文字の連なりに心が動くのか

野村 俺はいま「山会(やまかい)」という勉強会をやらせてもらっているんだけど、これは正岡子規がやっていたもので、仲間内で作品を書いては読み合うという会なんだ。文章には「山」がないといけないということから、そう呼ばれたみたい。俺もやってみたいなあと思って、翻訳者とか作家とか、絵描きとかデザイナーとか、全部で9名、月に一度集まっている。そして締め切りまでにそれぞれが作品を提出し、お互いに読んだ感想を語り合う。でも、これは自分の質(たち)がそうなんだろうけれど、「そもそも、これっていったい何をやってるんだ?」と思ってしまうことがある。......あ、ちょっとごめん。

(電話をとる、作家さんからの電話のようだ)

野村 なんの話だっけ。そうそう、「位置」の話だ。それで、俺は昔から「本」ってなんだろう、「文字」ってなんだろう、ということを常に思ってしまうの。たとえば、国語のテストのときに困るわけ。「文章を読んで作者の言いたいことを選びなさい」という問題があるとすると、内容以前に、まず読むじゃない。読んだら「ああ~」って感じるでしょ。「なんでこんな平べったい文字を追っただけで、何かがわかったという気持ちになるんだろう?」みたいな気持ちになってしまうんだよ。

天野 ただの文字の連なりに、なぜ心が動くのか、と。

野村 そういうのが全部不思議に思えて読めなくなる。昔からそうだった。だから、俺にとっては大問題。ぼくらは毎日「本」を作ったり読んだりしているわけだけれど、人生、つまり人が生きる空間において「本」ってどういうものなんだろう、みたいな問いがいつもどこかに控えた状態で読むことになるから、そうなるともう、この「言葉」がどこから来て、どこに向かっているのか、みたいなことにいちいち納得できないと読めなくなることがある。まあ、いったん俺の話は置いておくけど、今日の「位置」というテーマで言ったときに、すごく共感するのは彫刻家のロダンなんだよね。

天野 ロダン、ですか?

ロダンが大切にした「位置」

野村 ロダンはフランス人だけど、各地の大聖堂や教会を訪ねる旅をしていた。その美しさについて語ったのが、彼自身が書いた『フランスの大聖堂』という本なんだ。それで、何章かは忘れたけど、彼は最初のほうにフランスの「自然」について書いているんだよ。

天野 建築とか彫刻ではなく、「自然」について、ですか。

野村 自然が彼の目から見ていかに美しいか、あるいは、自分がどのようにその景色を感受しているか、ということについて。たとえば教会にたどり着くと、彼はその外面を、正面から、横から、後ろからとスケッチするわけだけれど、それが昼だとすると、夕方もやるし、夜も行く。暗くなったら中にも入る。陽の光によって影がバーッて伸びていくのを見る。すると、その教会が、日差しに応じて伸びる影のことも含めて、どんなに素晴らしくふさわしい位置にあるか、ということがわかるんだ。

天野 は~……街のどこに在るのかも含めて考えられていると。

野村 川だったり山すそに在るのか、みたいなことも含めてね。要するに、よく物のわかった人たちが、まるで地面から生えてきたみたいにそこに建てたということなんだよ。極めて人為的なものが、極めて自然にそこに配置されている、ということを彼は言っているわけ。
 俺がここで言いたいのは何か。彼は彫刻家だよね? 「どこに置かれるか」が大事なの。それがわからないで彫刻を作るということは、彼にとってまったく意味がないことなんだ。

天野 ああ、そっか。存在の「位置」が大事なのか。

野村 ロダンが生きた近代には、いわゆる宗教的なニーズはもはやほぼなかったけど、彼の感覚にいつも脈打っていたのはそういう「位置」の感覚だった。
 彼のもとにはいろんな見学者が来るんだけど、『ロダンの言葉抄』という本の中に、こんな夜のアトリエのシーンがある。美しいヴィーナスの模造を前にした批評家に、「君はこれまで彫刻をランプの光で見たことがあるか?」と尋ねるんだ。批評家は当然「ない」と答える。そこでロダンは、「自然の光こそ美しい作品を全体から鑑賞させるのに最適なんだ」と言って、ランプとともにその像の周りを歩かせるわけ。すると批評家は、昼間に見せる姿とは異なるその像の姿に驚嘆してしまう。
 きっと、彼はこういうことを言いたかったんだと思う。「暗闇の中、チラチラ揺れるランプの炎に照らし出されることで、まったく違う表情に見えてくるだろう? みんな、いつも同じ方向からしか光りが当たらない美術館でしか彫刻を見ないけど、それはなんとバカげたことか」と。

天野 なるほど……。

野村 つまり、昼間の照明に、同じ場所に置かれるだけの彫刻だったら、つまらないし世話もないわけ。光は自然において一定ではないし、どこから当たってくるかもわからない。その中でも常に新しく、あるときには何かが、あるときには別の何かが表に現れないような彫刻を、生きた彫刻と言えるのだろうか? まあ、そういう表現は使っていないんだけど、俺が読むとロダンは、そういう問いを投げかけているように思えるんだよね。

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高村光太郎 訳『ロダンの言葉抄』(岩波文庫)と新庄嘉章 訳『フランスの大聖堂』(創元選書)。「フランスの自然」については『フランスの大聖堂』第2章に、夜のアトリエのシーンについては『ロダンの言葉抄』「ポール グゼル筆録」冒頭に収録されている。

「本」は読み切れないものである

野村 だから「山会」が面白いのは、書かれたテキストがそこに在り、書いた人もそこに居る、ということ。この作品がどこから出てきたのかを質問できるし、なんなら朗読してもらうこともできる。すべてがわかるわけではないにしても、言葉の出所を知ろうと思えば、手がかりが相当ある。
 もちろん作品至上主義みたいに、作品は著者から切り離されたものとして別個の生命や価値を持つものである、ということは一理あるんだけれども、それは一理でしかないと思う。
 そのとき、俺にとっては「位置」が重要なんだ。ある一文字の本の中での位置、あるシーンの物語の中での位置、登場人物同士の位置、時系列の位置、あるいは本と本との関係、本棚の中での関係。本って一度、紙になって死んだものを、人が読むという行為の中で再生されるわけだよね。プレイヤーにレコードを乗っけるみたいなイメージだけれど、当然、再生機の出来具合によって出る音が違ってくる。こういう無限の関係の中に「本」は在るわけだけど、そのポジショニングが俺にとっての読むことのおもしろさであり、不可解さなんだよね。いつまで経っても「本」を読み終わらない気がするのは、そういうことだと思う。

天野 たしかに関係性が変わるなら、「本」を読み切ることはできないですね。

野村 だから、「私はこの古典を読みました」と言うのは正しい言い方ではなくて、「読んだことはあるの?」と聞かれたら、「読んでいます」と答えるべきだと思う。漱石が『硝子戸の中』で「継続中」と書いていたけど、あの感じ。本当に奥行きのあるものは、読み切れない。探求すればするほど、こちらの問う力が強くなればなるほど、当てられる光源を持てば持つほど、新しい魅力を必ず開いて見せてくれるのが、そういう作品だから。
 とにかく、俺が今日言いたいのは、「位置」は正しくないといけない、「言葉」はどこに置かれてもいいものではない、ということ。同じものでも、置く場所が変われば変わってしまう、ということ。これが『ライフ』と関係あるようでないようで、ある話。これさえ覚えておいてくれたら、いまから喋ることの位置がわかると思う。

天野 わかりました、これが今日のフレームですね。

小野寺文学の語りづらさ

天野 じゃあまず、いただいていた宿題や資料のことから。今日はもともと、小野寺さんの文体の魅力について伺うつもりだったんですが、それを語るためには漱石の文章を引いてくる必要があったんですよね?

野村 文体という言葉がいいかどうかは別にして、文章ね。

天野 そもそも小野寺さんの文章はすごく不思議で、「山」があるようでないといいますか、淡々と進んでいく印象なんです。短くて何気ない文章が積み重なっていく感じ。でも、その何気ない文章がカチッとはまる瞬間があって、そのときにぶわ~っと心に響いてくるものがある……。

野村 そうそう、あるんだよね。『ライフ』を読んで天野くんはどういう風におもしろかったの? 感想を教えてほしいな。

天野 うーん……それこそいま言った通り、言語化しづらいんです。これを機に『東京放浪』や『ひと』なんかも読み返したりしたんですが、やっぱりどれもすごく好きなんです。でも、なんで好きなのかを説明しがたい。そういう感想を常に抱いてしまうんです。何か特別なレトリックが使われているわけではないし、一見ふつうの表現の連なりにしか見えないのに、ある瞬間、爆発的に響いてくるものがある。そこが不思議なんですよね……。

野村 それが今日のテーマなんだよ。これがもしつまらなかったら、こうして話す必要もないわけだから(笑)。

天野 そうですよね(笑)。この文章をおもしろいと思うのはどういうことなのか、なぜ感動してしまうのか、それがいちばん気になるところです。

野村 じゃあ、天野くんの考えもなんとなくわかったところで、具体的な話をしていこうか。

物語に筋は必要なのか

野村 俺が小野寺さんの作品と初めて出会ったのは、『ROCKER」だったんだけど、「この人、すごく好きだなあ」って思ったの。

天野 第3回ポプラ社小説大賞の優秀賞作ですよね。最初からいいと思ったんですね。

野村 選考から関わっていたんだけど、賞をとってデビューが決まってからは、当時の若手に担当してもらった。それで、デビュー作だから書店や取次にゲラをまくわけだよね。そのとき、ある取次の女性が「これ、そんなにいいですか? 普通の話じゃないですか?」という感想を送ってきたの。要するに、「独自のストーリーがあるわけでも、波乱があるわけでも、ドキドキするわけでもない」と。俺は「あれ、そうなのかな?」と疑問に思ったわけ。どうしてかと言うと、読んでいるときも読み終わったときも、俺の心の中では「もう十分に運動したな」と思えたから。

天野 運動、ですか?

野村 心が運動した感じ。心地よい疲労感と満足感にすっかり浸っていたのに、そう言われたから「あれ?」って(笑)。そのとき最初の乖離を感じた。その女性は読み手としてはよく知られていたし、質(たち)や相性もあるから、別に全員が好きである必要はないとは思ったんだけど、そのときの違和感はその後も残った。
 要するに、いわゆる近代文学の世界には、いろんな括り方があるにせよ、マイナーポエットが好きな人と、何がおもしろいのかが全然わからないという人とではっきり分かれるわけ。俺はマイナーポエットが好きなんだと思う。それから日本の文学史には、いわゆる筋(スジ)論争があるんだけど、つまり、文学にとってストーリーとは何か、そんなのなくていいんじゃないかっていう、物語性やドラマ性に対する問いが常につきまとっているわけ。
 それで、俺は別に何か極端な主張を持ってるわけではないんだけれども、ただひとつ言えるのは、物語は「手段」だと思っている。

天野 手段?

野村 そう。物語や設定が持つ力って、それがうまく配置されないと活きてこない。絶妙な位置関係、「地図」を作ってあげる必要がある。そこに主役を置き、さまざまな人物が登場することで、お互いに作用し合うわけだから。そうすることで、登場人物の何かが引き出される。気づけなかった人物の魅力だったり、その人の中にあるまだ開かれていない生存の力だったり、欠点だったり、狂っている部分だったり、物語性が引きずり出されてくる。その作用が人間というもののおもしろさを伝えてくれるし、そのことによって、読んだあとに「一個の人間」と出会った気持ちになれる。それが俺にとって「本」を読む喜びかな。
 ということで、温まってきたし、そろそろ『ライフ』についての話をしようか。

「雑に書かない」ことで発揮される力

野村 まず宿題の前半。主人公の幹太は結婚式の代理出席のアルバイトと、コンビニのアルバイトをしている。ここはそのコンビニのシーンなんだけど、37ページ、読んでみてもらえる?

天野 あ、はい。

 レジで男性客の相手をする。アイスと雑誌を別々のレジ袋に入れる。
 「六百六十五円のお返しです。ありがとうございました」と早口で言い、お釣りを渡す。
 控えめに差しだしたレシートは受けとらずに、男性客は店を出ていく。いらない、とわざわざ言いはしないし、こちらの顔を見もしない。

野村 まずここを押さえておいて。「控えめに差しだしたレシートは受けとらずに、男性客は店を出ていく。いらない、とわざわざ言いはしないし、こちらの顔を見もしない」――この客は、ね。じゃあ次、幹太くんの同僚・七子さんに対して怒った客がいたよね。39ページ、読んでみて。

天野 その客がレジに来るんですよね。印象に残っているシーンです。

「七十六円のお返しです」と渡し、そこでも控えめにレシートを差しだす。
「いい」とはっきり言われる。
「ありがとうございました」

野村 ……ね? さっきの客はどうだった?

天野 ええと、レシートを受け取らなかったし、「いらない」とはわざわざ言いはしないし、こちらの顔も見もしなかった……?

野村 うん。ここでまず、位置が押さえられているよね。

天野 ???

野村 最初の客は割と普通の人だよね。俺であってもおかしくないし、天野くんであってもおかしくない。たぶん、ふだん普通にやっていることじゃない。もちろん「レシートはいりますか?」って聞かれたら「いいです」と言うかもしれないけど、だいたいこんな感じだよね。ここで位置が押さえられているよね。

天野 これが位置?

野村 つまり、「起点」となるところ。この普通の客がちゃんと書いてあるから、そのあとに棚詰め中の七子さんに怒鳴る怖い客の様子がはっきり浮かび上がるんだ。
 七子さんに怒鳴るこの客を、幹太は「こわっ」と思うんだけど、ついに自分がレジをしているところに来てしまう。でも、いざ来てみたら、スーツを着たちゃんとした人だった。それで、取り繕っているのかはわからないけど、無表情を装い買い物をする。幹太はここで計算間違いをしたら火に油だと思うから、間違えないようお釣りを渡し、控えめにレシートを差しだす。そしたら「いい」と言われる……。
 これがその後の展開だけど、こうやって書いていくことによって、怖い客や幹太の姿までクリアに浮かび上がるじゃない。位置関係ができているって、こういうこと。だってこのシーンは、雑に書くと全然おもしろくないんだよ。

天野 なんなら本筋とは関係ない、いらないシーンですよね。

野村 そう、いらない。でも、何かの位置をはっきり決めてあげることで、そこからいろんなことが出てくる。そのあとのシーンを見てみようか。
「ありがとうございました」と幹太が言うと、男性客は振り返り、何事もなかったかのように去っていく。そしてそのあと、幹太はすぐ棚のほうに行く。すると七子さんが身を屈めて商品の補充をしている、と……。

「聞こえちゃった?」と先に言われる。
「はい。だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶだいじょうぶ。失敗しちゃった。わたしもね、ちょっとヤバいかなとは思ってたの。でも並べるパンはあと少しだったし、ケースを通路に置いとくほうがいやだったから。何も言わなそうなお客さんに見えたんだけどね。読みちがえた」

 二人の客の様子と、客に対する幹太の対応がクリアに書かれたことによって、七子さんの人間性まで浮かび上がってきているよね。仕事はできるんだろうけど、そそっかしさがあったり、人のことを見ているんだけど、「ま、いっか」と思っちゃうルーズさがあったり、そんな人のいい感じが浮かび上がっている。そういう風に書けている。
 だから、文章を「雑に書かない」ことが持つ力というものがある。そのことの例としてここは挙げました。

天野 何気ないシーンだと思っていたけど、なるほど……。

感情の「位置」を正確に書くこと

野村 じゃあ宿題の後半、253ページ。「言う。」から始まるところだけど、朗読してみてくれる?

天野 わかりました。

 言う。
 「ねぇ」
 「ん?」
 「お父さんのこと、覚えてる?」
 勢いで言ってしまったため、言葉を用意しておらず、そんな訊き方になった。
 「忘れるわけないじゃない」
 ちょっと意表を突かれた。忘れるわけないのか。でもそれがいい意味かはわからない。忘れたいのに忘れられない、という意味かもしれない。
 「何なのよ、急に」
 「これまで訊いたことなかったから」
 「今ここで訊くこと?」
 「でもないけど。ほかのとこであらためてっていうのも変だし」
 母のグラスにビールを注ぐ。
 中身は半分以上残っているが、母も拒まない。
 「今でも思いだしたりする? お父さんのこと」
 「思いだすっていうのとは、ちょっとちがうわね。忘れてないんだから、頭の隅にいる感じよ。隅の隅のほうね」
 「隅の隅か」
 「今、真ん中にいたら、おかしいでしょ」
 母はそこでようやくビールを飲む。
 それとなく辺りを見まわしてから、言う。
 「幹太は知らないだろうけど。お母さん、最期はお父さんと仲よかったのよ。保険金をもらえるからではなく、お父さんがもう亡くなるからでもなく」
 「そんな感じはしたよ」
 「した?」
 「した」
 やはりそうだった。最期まで、というか最期には、父と母の関係は良好だったのだ。
 「それは、お父さんを許したってこと?」
 「そうじゃない。許しはしない。きちんと謝ったお父さんを人としては認めたってこと。結婚してよかったとも思ってるわよ。幹太ができたから」

野村 うん、そこまでで大丈夫。なんか、俺はもう、こういうところで十分にたまらない気持ちになってしまう。何を言いたいのかはもうわかると思うけど、なぜそう思えるかというと、やっぱり「位置」なんだよ。
 たとえば、「なんでいま、ここでそれを訊くのか」というやりとりがあるけど、おもしろいよね。「それを言うにはふさわしい位置があるんじゃない?」という問いがあるわけだけど、幹太の中ではもう、「いまがふさわしい」と思えるような「位置のチューニング」が行われているわけだから。

天野 ここに至るまでの物語の中で、ということですね。

野村 そう、このシーンまでに。それで幹太が「覚えてる?」と訊くと、お母さんは「忘れてない」と、「頭の隅の隅のほうにいる」と言う。これも「位置」だよね。

天野 あっ、ほんとだ。

野村 これは「思い出の位置」がどこにあるか、という話なんだよ。「隅の隅か」ってちょっと洒落た会話だし、それ自体おもしろいんだけど、このあとにお母さんはなんて言う? 「今、真ん中にいたら、おかしいでしょ」って言うよね。こういうところにグッとくるわけ。「ああ、そうだよね」と。でもここも、書こうと思えばもっと煽るように書けちゃうシーンなわけ。

天野 もっと泣ける感じにできますよね。

野村 でも、俺はこっちのほうが泣ける。だって、「真ん中」にいたら、それはやっぱり「おかしい」じゃない。もしもお母さんに、「覚えているわよ、私はお父さんのことが誰よりも好きだったの」なんて言われちゃった日には、そのときだけの感情になっちゃうから。
 でも、小野寺さんの文章は、非常に正確にいまの「思い出の位置」を伝えてくれている。しかも、この位置の正確さは、理屈の正確さじゃない。非常に豊かな感覚の世界みたいなところがまず根っこあって、その上に知的な営みとしての物書きの作業、つまり「配置」の作業がある。だからすごくおもしろい書き方だと思う。

天野 なるほど。でもそう考えると、幹太の「覚えてる?」っていう訊き方もすごいですね。これをぽろっと言わせちゃうんだもんなあ……。

「何もなかったことにしない」で生きる

野村 もうひとつこのシーンで素晴らしいのは、「何もなかったことにしない」ということだよね。幹太が「許したってこと?」と訊くと、お母さんは「許しはしない」とちゃんと言う。でも、それはそれとして、「人としては認めた」とも言っている。
 よく、ありのまま受け止めるとか言われるけど、ありのままを受け止めることってすごい難しいことじゃない。たいていは、受け入れようとすると別の感情が反応しちゃったり、自分で引っ掻きまわしちゃって、そのために人間関係が破壊されたり、うらみつらみが生まれたりすることがある。でも、このお母さんはそうじゃない。こういうところに小野寺文学の魅力があると思う。
 だから、こういう文章を読んでいると、自分の中にあるいろんな気持ちが、ちょっとはみ出しすぎてたなとか、そうでもなかったなとか、頭にきたけどここは感謝してるなとか、そういう風になれる。そういう風に人を誘う力が、小野寺さんの文章にはあるんだよ。

天野 そっか……。だからこのシーンが感情の「山」になるのか。グッときたのか。

野村 そうなんだよ。だからたとえば、コンビニの嫌な客がいたでしょ? 嫌な客ですら、すっかり嫌な客ではないように書いてあるよね。

天野 小野寺さんの作品って、悪い人とか、本当に嫌なやつが出てこないですよね。

野村 出てこない。癖のあるやつは出てくるけど、それに同化して怒ったり泣いたりはしていない。資料に挙げた漱石の「写生文」じゃないけどさ、ちゃんと「距離」を取って書かれている。その態度は親が子を見る態度なんだって、漱石も書いていたよね。あれは非常にわかりやすく書かれているけど、非常に深いたとえだと思う。

 写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が小供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。

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『夏目漱石全集10』(ちくま文庫)

プロットには何が書かれていたのか

天野 ここまで話を聞いていると、小野寺さんはプロットの時点ですごいのでしょうか? どういう風に『ライフ』が生まれたのかが気になります。

野村 もともとは全然違う話を作ろうとしていた。プロットもできていたし、取材先まで決めていたのに、やめようという話になったんだよね。どちらがそう言ったのかは覚えていないけれど。それで、ノーリクエストで小野寺さんから出てきたのがこれだった。こういうのが書きたいんだと。それで「いいじゃない!」と、やることになった。

天野 そのプロットが想像できないんですけど、どこまで詳しく書いてあったんですか?

野村 文量で言えばA4一枚くらいかな。

天野 あ、そんなものなんですね。

野村 キャラクターのこととかね。でも、そんなに細かく書いてなかった。メモみたいなものだよ。

天野 でも、そのメモを見て、野村さんはいいと思ったわけですよね。

野村 思ったね。

天野 それで判断できるってすごくないですか? それとも小野寺さんのプロットがすごかったんでしょうか?

野村 んー、だから結局、「位置」なんだよ。位置関係さえちゃんとわかっていれば、細かいことは置いといても、「これなら物語が動くな」と思える。これって、たとえばチャップリンがどういう風に映画を作ったのか、ということと同じだと思う。

天野 チャップリン?

チャップリンの創作

野村 うろ覚えだから細かい点は間違っているかもしれないけど、「放浪紳士」が誕生したとき、若き日のチャップリンは、プロデューサーに「ここでギャグがほしい。コメディのメーキャップをしてこい」と言われて衣装部屋に行ったんだよね。なんのアイデアもなく。でも、部屋に向かう途中で急に、タブタブのズボンに大きな靴を履いた、ステッキと山高帽がトレードマークのちょびヒゲを生やした紳士というアイデアが下りてきた。そして扮装した瞬間に、彼は確信したんだと思う。「これはおもしろい、こういう人間はおもしろい」と。

天野 この人間なら、動くと。

野村 そう、動く。そうしたら、あとはこの人間をどうするか、つまり、どんな人を隣に置いたら物語が動くかを考えるだけだよね。『街の灯』の場合、それは若くて美しい花売りの女性だった。しかも貧しい盲目の。男は、道に落ちた花を拾ったときに女の障害に気づく。そして女のために何かしてあげたいと思う。だからこそ、盲目であることを逆手にとって、金持ちのふりをしながら、あの手この手を使って献身する。もう、その位置関係だけで動いちゃうものがあるんだよね。

天野 設定はとてもシンプル、なのに胸を打つ。小野寺さんの物語はなんだかそれに近いですね。じゃあプロットには、「幹太」という人物が見えてくるようなことが書かれていたのですね。「動く」と思えるような。

野村 もちろん。どういう人物かがわからなかったら、良いか悪いかなんてわからないもの。こういう人物を書きたいんだ、ということはもちろんわかったよ。

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記事を書く際に参考にした中里京子 訳『チャップリン自伝』(新潮文庫)。チャップリンは自伝の中で、カメラの「位置」の重要性を説いていた。

「悲しみきれない」の一言が決め手だった

野村 でも、俺がプロットを見たときにいいなと思ったのは――作中にも出てくる言葉だけど――お父さんが死んだときに「悲しみきれなかった」という幹太の言葉。その一言で、いけると思った。

 病が発覚して一年もしないうちに父は亡くなった。僕の父のまま亡くなった。そのときでまだ四十三歳。早すぎた。
 もちろん、悲しかった。母の前では泣かなかったが、ひとりのときに涙がじんわり溢れてきたことはある。でもその涙を頬に流しはしなかった。意図して止めたわけではないが、そうなった。何だろう。悲しみきれなかった。

 この「悲しみきれない」ってすごく重要な言葉だよね。お父さんは浮気をして、離婚することになっていたのに、病気になったから離婚には至らず、家族のまま死んだ。だから幹太は悲しみきれなかった。要するに、お父さんとお母さんの関係は、幹太には確かめられない位置にある。位置関係がわからないままに死んじゃったから、幹太はそれをどう感じ取っていいかわからないんだよ。
 幹太はすごく誠実。だって、人が死ねば必ず悲しいというわけじゃないよね? 幹太は誠実に悲しみきれていない。だから位置関係がちゃんとした「問い」として残る。だからこそ、幹太はその関係を確かめに行く。物語の最後に。
 つまり『ライフ』は、幹太が位置を正していく物語なんだよ。

天野 ああ、そっか、そうなのか……。なんだろう、いま、すごいしっくりきました。

野村 人間は、裏切られたのか裏切られていないのか、好きなのか嫌いなのか、それが何もわからないまま、ただ悲しむべきこととされていることを悲しめないし、涙なんか出ないわけ。「泣いたふりしないといけないの?」ってなりかねない。でも、そういうところでしっかり「立ち止まれる力」が小野寺さんの作品にはある。だからある種、感覚的なものではあるんだけど、「悲しみきれなかった」という言葉を見て、俺はいいなと思った。
 そして「悲しみきれない」ということは、そこには当然、幹太の人間不信もあるわけだよね。もっとも身近な人間が嘘をつき、裏切ったことで、人を信じる気持ちが弱まっている。だから自分ひとりこの部屋で生きていければいいや、と他者に対して閉ざした。その感じもよくわかる。でも、そう思っていたはずなのに、上の階に戸田さんが引っ越してきてしまう。そのことによって部屋の扉が開いてしまう。求めていなかったのに。『ライフ』はそこから始まる物語なんだ。これがプロットの段階でわかっていたこと。これはいけると思った。

「位置取り」の天才だった漱石

天野 なんだか、『ライフ』を読み返したくなってきました……。でも、こう考えていくと、野村さんが漱石の『硝子戸の中』を資料に挙げてくださった理由もわかります。このエッセイも一見、何も動かない、何も起きそうにない閉じた設定なのに、結局は何かが動き出しちゃうような話ですよね。最後には部屋の外にも出ていくし。

 硝子戸(ガラスど)の中(うち)から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉だの、赤い実の結(な)った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
 その上私は去年の暮から風邪を引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐(すわ)っているので、世間の様子はちっとも分からない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。

野村 まさに小野寺さんの世界だよね。しかも、漱石は最初に宣言しちゃうわけじゃない。私はここに閉じこもって、寝そべりながらつまらんことを書きますと。そういうところが「位置取り」のうまさだよね。位置を正確に提示することによって、テコの原理が働くように出来ている。
 漱石がすごいのは、こういう人なのに圧倒的に売れた作家であること。日本人では、この100年の間にいないよね。別にいま読んでも、びっくりするような設定とか展開とか大どんでん返しがあるわけでもないじゃない。でも、漱石の構想力がすさまじいのは、自分自身の立っている位置を正しく認識して、それを間違えずにチェス盤の上に置けるところなんだよ。それを置いてみせることで、世間に位置関係を知らしめちゃう。その距離感でお互いの動力を使いながら物語を動かしていく。だからあんな作家になれたんだと思う。

天野 確かに。漱石は『硝子戸の中』で、歴史における人々の位置についても書いてましたね。皮肉めいた口調で。

野村 そうなんだよね。だから漱石に学ぶことはいっぱいある。

今と昔とまたその昔の間に何らの因果を認める事のできない彼らは、そういう結果に陥った時、何と自分を解釈して見る気だろう。

小野寺文学は「生活文学」

天野 ちなみに、朝日新聞の「入社の辞」は、どうして資料に挙げたんですか? これだけ理由がわからなかったんですが。

野村 なんでだっけな。思い出そうとしてたところに天野くんが迎えに来ちゃったんだけど(笑)。背景を言うと、漱石が朝日新聞に入るというのは、当時(1907年)の大ニュースだった。帝国大学の教授といえば、末は博士か大臣かというような出世コースだったのに、それを辞めて、当時の感覚で言えば一介の新聞記者になるだなんて、みんな仰天なわけ。でもある意味、それは使えるシーンでもあった。何か言うならいましかない、と(笑)。

天野 確かに(笑)。そのポジショニングも、かなり自覚的に書かれていますよね。

野村 位置をわきまえながら書いている。と同時に、もう一つこの文章を挙げた理由があって、それは「お金」の話が出てくるから。つまり、辞める理由に給料のことが書いてある。そこがすごくおもしろい。実は小野寺文学にも、おつりが665円みたいな感じで、お金のシーンがたくさん出てくるんだよね。

天野 あ〜、確かに!

野村 『東京放浪』も、最初にあといくらしかないとか出てきたでしょ? 「生活」というものを抜きにした文学ではないんだよ。

天野 『ひと』にも、55円しかなくて120円のメンチカツが買えない、みたいな描写がありましたね。

野村 俺は、生活あるいは生活感から遊離した文学――ファンタジーでもSFでも別に設定なんでもいいんだけど、どういう世界にせよ、そこで生きることにつきまとう猥雑さとか面倒くささを抜きにしている文学には興味がない。その意味で小野寺さんの文学は、常に「生活文学」でもあるわけ。

天野 そうか、だから……

野村 『ライフ』なんだよね。

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『ライフ』のカバー。装画は木内達朗さんが手掛けた。

「街」を書くことの意味

野村 「ライフ」という言葉は、いろいろに訳せる。「生活」とも「人生」とも言える、あるいは「生きる」とか「生命」。いろんな意味が込められているけれど、通底して響いているのは、さっき言ったように「何もなかったことにしない」ということ。何もかもを捨てずに、どうやって生きていくのか。「所持金が350円しかない」みたいな感覚がありつつも、ある種、人間であることの尊厳や生きることの極めて美しい一瞬に対する敬意が払われている。その両方を一緒に求めている感じが、俺は好きなんだと思う。

天野 確かに、幹太もお母さんも、忘れてはいないですよね。なかったことにはしないですよね。そしてすべての位置がチューニングされたとき、幹太はようやく前に進める。そのプロセスに自分は感動したんだろうな……。

野村 だからさ、この本を読めばわかるけど、やっぱり「位置」が重要なんだよ。どんな場所に住んでいるのかということも、極めて真面目に書いているじゃない。

天野 そうですね。というか、小野寺さんの作品はどれもそうですよね。どの街、どの路線に暮らしているかということが、事細かに書かれている。

野村 それが重要だから書くんだよ。彼がこの街で書きたいと言ったとき、俺はこの本に出てくる平井(江戸川区)エリアはほとんど歩いた。写真も撮った。本人には言わなかったけど、もし誤魔化しがあったら言ってやろうと思って(笑)。

天野 でも、小野寺さんは誤魔化さないんでしょうね。生活の場を、絶対に雑にしない。

野村 だって、そこを雑にしたら成り立たないから。なんでこんな普通のことを書いているのに響いちゃうんだろう、っていう疑問が最初にあったけどさ、雑にしないからこそあの爆発力が生まれるんだよ。もし、実際に行きもしないで「この街はどうせこんな感じでしょ」とかやり始めたら、同じ筋の話を書いたとしても、一向に心が動かないものになってしまうと思う。

天野 地図がちゃんとしてるからこそ、その街で生きている人たちの存在が、リアリティをもって迫ってくるんですね。ぼく、荒川の河川敷から、幹太が戸田さんの子どもたちを連れてアパートまで帰るシーンが好きなんです。ああ、この街には本当にこういう光景があるんだろうな、怖い犬がいて、驚いて泣いちゃう子がいるんだろうなって、思っちゃう。

野村 そうそう。だからこの資料では、そういう生活感覚の話をしたかったんだろうな。

天野 その感覚があるからこそ、こうやってこの素晴らしい物語ができあがるわけですね。

野村 そういうことなんだよね。……ってことで、もうだいたい済んだかな?

天野 はい、ありがとうございます。ああ、今日はすごく楽しかったな……。改めて読みたくなりました、『ライフ』を。

***

 この記事をまとめているとき、僕はあるシーンを思い出していた。
 インタビュー冒頭、野村さんに電話がかかってきたのだが、原稿がなかなか書けないという作家さんに対して一言、こんなことを言ったのだ。

「生活の中で書かれる言葉があると信じていますから」

 野村さんはさらっと、でも心から、こういうことが言えてしまう人だ。そして小野寺さんが書いた『ライフ』には、「生活の言葉」がつまっている。生きた「人」がいる。ぜひみなさんにも『ライフ』の中で、幹太や戸田さんたちと出会ってほしい。

 なお、以下は余談だが、テープを止めたあとに野村さんはこんなことも言っていた。念のため書き留めておきたい。

野村 『ライフ』が売れなかったら、作品のせいというよりも、ぼくらがこの本を適切に位置付けることができなかった、ということだと思う。もう一つの新刊『ナオタの星』も当時まったく売れなかったけど、腰を抜かすほどに素晴らしい作品だから、やっぱりぼくらはこの本を適切に位置付けられなかったんだろうね。今度の文庫化は小野寺さんのリベンジでもあると同時に出版社としてのリベンジなんだ……ってとこまで書いておいてくれたら『ナオタの星』の話もしたことになるよね(笑)。

 野村さん、お話しいただき、本当にありがとうございました。

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5月20日に完成した『ライフ』の見本。これが読者のもとに届けられる。

今回の担当編集:野村浩介(のむら・こうすけ)
1966年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒。日本経済新聞社記者を経てポプラ社。児童書編集者として長崎源之助、薫くみこ、村山早紀らを担当。その後、販売部を経て2000年、新設の一般書編集部編集長に。『十七歳』(井上路望)、『獄窓記』(山本譲司)、『教室の悪魔』(山脇由貴子)、『知らなかったあなたへ ハンセン病訴訟までの長い旅』(谺 雄二)などのノンフィクション、『12の贈り物』(シャーリーン・コスタンゾ 作/黒井健 絵)、『グッドラック』(アレックス・ロビラ)などの自己啓発書、短篇アンソロジー『諸国物語』(海外篇)、『百年小説』(日本篇)、「百年文庫」(全100冊)、『歩く』(ヘンリー・ソロー/山口晃 編訳)などの古典作品、『あん』(ドリアン助川)、『百貨の魔法』(村山早紀)などの小説、『ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディランの日々と音楽』(ロバート・シェルトン)等の評伝文学など、ジャンルを問わず様々な本の制作にかかわる。

▼『ライフ』は5月28日から発売、『ナオタの星』も予約受付中です!


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