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余白のある文章を書くための「名辞以前」


中原中也の詩をとぼとぼと読んでいた。そういえば、僕は、大学生の頃に『中原中也全詩集』を購入して、ベッドの上でうつ伏せになりながらよく読んでいた。黙読するときもあれば、たまに声に出して読んでみることもあったと思う。詩の良し悪しなんてわからないけど、詩の世界に触れることに大きな意義があった。

中原中也の詩を読んで、うとうとしだしたので部屋の明かりを消して眠ると、精神の貴族になったような気さえする。


中原中也全詩集 (角川文庫 角川ソフィア文庫)


今になって、中原中也に関して、専門家の意見を聞くに至った。中原中也の詩の素晴らしさは、彼が「哀しい」と言っているわけではないのに、読者が自発的に自身の哀しさを詩に投影してしまえることなのだという。これは「名辞以前」という言葉で表されている。

名辞以前とは、言葉になる前の世界のことで、中原中也は、「哀しい」と言う前の「哀しさ」や、「手」と表現する前の「手」を詩の世界に描くようにしていたという。名辞以前とはつまり、万能な言葉ではなく専用の言葉を探すことなのだ



言葉は使い慣れてしまうとその効力を失ってしまう。書き手がその言葉を頻回に使用するかどうかは読み手(が余程その書き手の文章を追っていないかぎり)はわからない。しかし、書き手が、この単語はピタリとうまく嵌った! という単語は読み手もその小気味のよさを感じ取ることができるはずだ。

反対に書き手が流して書いている文章は、読み手も流して読むことができる。不思議とそういうものなのだろう。

僕は、「難渋」という表現を知って、まずは書き言葉で使うようになって、現在では日常会話の中でも使用するようになってしまった。自分と言葉がこんなにも馴染んでしまったら、僕はもう言葉の持っている魅力を引き出すことはできないだろう。出会った頃にあれほど魅力的だったパートナーに何も感じることができなくなってしまったように。暫くのあいだ、「難渋」とは距離をおこうと思う。彼女の魅力にもう一度気づくことのできる日が来るまで。

距離をとったことで関係が良好になった単語の一つに「稀有」がある。高校生のときに出会って、日常会話の中でも使用した。飽きてしまったので大学生のときから別離していた。最近になって、ふと「稀有」という単語の魅力を再確認した。再び別れることのないように、今度は適切な距離感を保って接していきたいと思う。



今日はよかったら、名辞以前の世界に触れていってください。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

『月夜の浜辺』より

中原中也の詩には、忘れられないフレーズや殺し文句があります。『サーカス』の“ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん”だったり、『汚れっちまった悲しみに……』“汚れっちまった悲しみに”だったり。こういったフレーズが、名辞以前を助けているのかもしれない。



名辞以前:言葉になる前の世界を考えるとき、いつも頭に浮かぶのは江國香織だ。江國香織は余白の天才と呼ばれているらしい。

確かに、説明が過ぎる文章は好きになれないし、説明がなさすぎても理解に時間と労力を要してしまう。ほどよい余白とは、どこから生まれるのだろう。

僕は、江國香織の小説よりもエッセイが好きでたまに読む。エッセイ中、屋外でお酒を飲んだり、真夜中に本屋に出掛けたりするシーンが描かれている。僕はあまりそういうことをやろうと思えない。

やったら楽しいだろうけど、外でお酒を飲んだら、氷がたちまち融けてしまうことや、おかわりのできない不自由さや、飲み干したグラスを家まで持ち帰る手間を憂いてしまう。そんな無駄なことはせずに、家で映画を鑑賞しながらゆっくりと好きなだけ冷たいお酒を飲んだほうがいいと言い張ってしまう。

でも、そういう無駄が、余白を生んでいるのかもしれない。文学はどこまでいっても無駄だから。



1943年10月21日、学徒出陣。国家の非常時において文系学問はすぐに切り捨てられることが証明された。誰が何と言おうと、文学は無駄だ。これに反論することはできない。僕も無駄だとわかってやっている。

しかし、無駄がないと、僕らは豊かになれないのだ。目蓋をおろす前に一編の詩を読むだけで、貴族になることができるのだ。無駄を生み出す人間が合理性なんてものを気にしていたら、いつまで経っても余白のある文章なんて書くことができない。




日々の生活は
恐いほどに文章に反映されるから
そのことを憂慮して生活をしていったほうがいい
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宮澤大和

些末な日常をひろいあつめて、もっとふかいところへと、あなたをいざなうエッセイ。毎日更新が基本。劇作家・演出家として演劇を作っています。カツカレーにのっているカツが好き。どこかで連載を持つことは目標です。お仕事の依頼やご相談は、yamato.myzw037@gmail.comまで。

日常から非日常へ、旅するエッセイ

日常から非日常へと飛躍していったり、日常から非日常を抽出したりするエッセイ。旅行なんてしていなくても、旅するように生きているからある程度は充実しているよ。
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コメント7件

konekoさん

ありがとうございます。
コメントが胸に沁みました。

僕もそのような生き方をしてきました。
現在は余白を大切にした生き方を実現することができているな~
と思えるときもある反面、

過去の自分が、モンスターのように、顔を出してくるような瞬間があって、ゾッとすることがあります。
そういうときは、結局、僕は本質的に何も変われていないんじゃないかと不安になります。

それでも、一歩ずつ、地道に進んでいくしかないのですよね。。
以下に述べるのはあくまで私見です🐦

本質などというモノはまがいモノです〇

108の煩悩があるように、人には沢山の思想が個人の肉体、強いては脳に内包されております☆

その何れも全て自分ではない可能性と自分である可能性を含みます🌱

シュレディンガーの猫ではありませんが、その共存こそが人の本質だと思います🌕

ヘンな個人的意見を失礼しました🎈
最後に長文をお読み頂き有難う御座います♪🐈
konekoさん

自分の脳に内包されている思想なのに、
「自分でない」と解釈するのはとても面白いなと思いました!!

発信して終わりでないから、やはりnoteは楽しいです。

勉強になります。ありがとうございます。
こちらこそ、いつもステキな記事を有難う御座います♪🐈
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