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「できた」を後押しする

2年と少し前、長唄三味線を習い始めた。きっかけはごく単純で、友人と鑑賞した歌舞伎の三味線演奏が、めっぽうかっこよかったからだ。

知り合いに長唄のお師匠さんを紹介してもらい、その日に見学、「ちょっとやってみるか」と体験させてもらい、「あ、いいかも」とあれよあれよという間に入会してしまった。

三味線は楽しい。理由はたくさんあるけれど、一番は気持ちがいいこと。仕事(わたしは日本語教師をしている)でどんなに疲れていても、ちょっと体調がイマイチかなと思っているときも、稽古の帰り道は清々しくさっぱりした気持ちになる。

撥で皮をたたく。三本の糸をグッと押さえて音を調節する。もちろんなかなか難しいのだけれど、それでもなんとなくメロディーが作りだされていく。

そして、お師匠さんは必ずと言っていいほど、わたしの拙い演奏をほめてくれる。
「ようお稽古したな」
「音がきれいになってきたな」
「前言うたところがちゃんと直ってるな」

ほめて育てる、ほめ上手になる。ほめることが当たり前になっている昨今。もちろん、ほめてもらうことはとても嬉しいことなのだけれど、本質はそこではない気がする。なんでもかんでも、やみくもにほめられるのは、ちょっと違う。

自分が前よりできたかも、と思うことやちょっと上達したんじゃない、と思うこと。それをちゃんと見て、プロの目で測って、「そう、よくなってる!」と言ってもらえること。自分がちょっと頑張ったこと、+1にもなっていないかもしれない微細な成長を「それでいいんだよ」と言ってもらえることが、喜びにつながっているのだと思う。

これでいいんだ、という安心感、達成感につながっているのだと思う。

日本語教師として教室に立っているとき、わたしは学習者に対してそのように接することができているだろうか。
「新しい文法を使っているのはいいけれど、ミスが多いから注意して」
もちろん、いいところは伝えるのだけれど、そのあとには必ず今後の改善策を付け加える。クラスの到達目標や、個人の将来の目的と鑑みて、どうしても不足要素の洗い出しのニュアンスが色濃く出てしまう。

もちろん、このような見方も大切だ。全体を俯瞰して現状を把握し、今後の進むべき道への対応を考える。これもわたしの重要な仕事だ。

でも、こればかりでは、学習者の毎日の努力や、前よりもできるようになったかもというちょっとした感情の動きが、表出されぬまま形にならぬまま消えてしまう気がする。

時には、「できた」を後押しするだけでもいいのかもしれない。「できた」という喜びを心から感じることができれば、次もっと成長するためにはどうすればいいかを自ずと考えるようになる。

バランスを取るのが大切と言ってしまえばそれまでだけど、今は、「できた」を後押ししてみようと思っている。

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