子供たちの約束
去年の9月頃だったと思う。小学生の息子が学校から帰って来るなり、嬉しそうにこう言った。
「友達からハロウィンパーティに招待された!」
そしてそれからひと月以上の間、彼はワクワクしながら毎日を過ごした。子供同士の約束だ。私は半信半疑だったが、お呼ばれした時のためにラッピングされたお菓子を用意しておいた。
しかしハロウィン当日、パーティは開かれることはなかった。息子は学校から帰って来ると、
「パーティはウソやった。」
と言い、普段通りそのお友達と公園で遊んで帰って来た。
しばらくして今度は、
「クリスマスパーティに招待された!」
と息子は言う。
私は息子がまたがっかりしはしないかと、心配になった。
「それ本当かな?お友達が言ってるだけで、お友達のお母さんは知らないんじゃない?」
などと、息子があまり期待しないようにそれとなく話したりもした。しかし息子はさして気にする風もなく、やはりクリスマスまで何度となくその約束を思い出しながら、楽しみにして過ごした。
残念ながら、そのクリスマスパーティも開かれることはなかったが、お友達はウソをついたのではない。「パーティを開いて友達を招く」というのは彼の夢であり、願いだ。単にそれを口にしたに過ぎない。
そんな事があって、私は自分が小学生だった頃のある出来事を思い出した。
当時私はピアノを習っており、先生は若い女性だった。私はその先生が大好きだった。ある日レッスン後におしゃべりしていて、話の流れで先生がこう言った。
「今度一緒にプールに行こうか!」
私はとても嬉しかった。
今思えば、こんなのは約束とは言えない。日時も場所も決めていないのだ。しかし当時の私は考えた。「今度」、というのは多分来週あたりだろう。天気の良い日に先生とプールに行くのだ。
夏休みだっただろうか。私はなんとなく自分の良いと思った日にプールの用意をして、自転車で、なぜか小学校まで行った。裏門から入ってすぐの、体育館の入口の階段に腰掛け、先生が来るのをずっと待っていた。光化学スモッグが発生していると、校内の放送が聞こえてきたのを覚えている。
先生は来なかった。私は少しがっかりしたと思う。でも来なくても仕方がないとも思っていた。汗だくで家に帰ると、母はそんな私を見て珍しく怒っていた。私がとても傷ついているように見えたのだろうか。暑い日に長い間先生を待っていた我が子が、不憫だったのかもしれない。先生に電話をし、「子供に曖昧な約束などしてくれるな」と言った。
子供の世界は不思議だ。
ぼんやりと曖昧な物事を、何の疑問も抱かずに曖昧なまま受け入れ、自分の夢や希望でふんわりと包み、信じることができる。そして思い通りにならなくとも、それはそんなものだ、と受け入れる事ができるのだ。なんとやわらかな世界だろう。
だから私は、子供たちの様々な約束を、しばし見守ることにしよう。
それはほんの短い間だけ、子供だけが住む世界の、曖昧さも矛盾もすっと包み込む世界の、立派な約束なのだ。
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