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元舞台女優の眼を潤ませて(ラテンの貴公子プジョー406クーペ)

俺は今、信号待ちで大きなショーウインドーに映り込む406クーペの美貌を眺めながら、左腕に纏ったヴァシュロン・コンスタンタンの名作222に、時刻を確認するでもなく眼を向け、助手席の彼女の名前を頭の中で復唱した。

今回のマシンは、プジョー406クーペだ。
うっとりするようなそのボディラインは、フェラーリやマセラティなどで名車を排出してきたイタリアのピニンファリーナ社による。中でも406クーペは「ピニンファリーナが手掛けた最も美しいクーペ」と評される程だ。担当デザイナーは306モデナも描いたダビデ・アルカンジェリ氏だ。
エクステリアのみならず406クーペでは車両組立ても同社が行なったので、フランスとイタリアの混血車である。イタリア語で車体のデザインと製造業者を意味する文字通りカロッツェリア製の証であるPininfarinaの文字とエンブレムが406クーペのリアサイドで誇らしげに輝く。406クーペがプジョーとしてもピニンファリーナ社との最後のコラボだった。そして、2015年には、その名門カロッツェリア自体が、インド企業の傘下となった。
秀逸なデザインだけではなく、406クーペは快速な走りも示した。カーチェイス映画のヒット作「TAXi」やDTMでも活躍したセダンの「406」のシャーシを共有しており、素性の良さがある。長めのホイールベースも利いてか200キロ超でも直進性は抜群で、しっかり4輪が地につくようなコーナリング姿勢の安定性は特筆すべきものであろう。標準でブレンボ製のブレーキも備え、レカロとの共同開発によるシートは座面が広くスポーツカーというよりむしろ高級サルーンのような優雅な感じなのだ。野太い排気音を奏でる3リッターV6エンジンは4速オートマとの組み合わせになり、速くもないが充分に足るスポーティーカーだ。尚、外寸としては全長4.6m、幅1.8mで取り回しは非常に良い。一方で、美しき2ドアクーペの大きなドアはしばし持て余してしまうが、この美しすぎるほどのプロポーションが全てを打ち消す。カセットデッキのカーオーディオは哀愁を漂わすものの、高い静粛性と上質なレザー内装で贅沢さもある。ハンドルを握る者に、不思議とフェラーリにも引けを取らない貴公子感を得られる車なのである。

さて、406クーペに相応しいウオッチは何か。いつも以上に吟味を重ねた。エレガントな側面に合わせて、ドレスウォッチにするのか。ならばパテック・フィリップの2526 カラトラバ トロピカルのようなアンティーク最高峰だろうか。クーペに寄せてスポーツモデルを組み合わせるとしたら、パテックのパイロットトラベルタイムも良かろう。両者を併せたラグジュアリースポーツの中からチョイスすることにした。ラグスポの代名詞的なパテックのノーチラス、オーデマ・ピゲのロイヤルオーク、ヴァシュロンのオーバーシーズが有力候補である。ふと、コレクションの中からヴァシュロン・コンスタンタンの222が目に入った。これだ。
この222は、ヴァシュロン創業222周年記念としての1977年の発表モデルだ。デザインはジェラルド・ジェンタではなく、新進気鋭のヨルグ・イゼックだった。ケースからブレスへ流れるような造形が406クーペのスタイルにも通じる。

彼女とは社交ダンスで師事した先生が共通だった事から知り合ったのだが、面白い事にダンスでペアを組んだことはなく、SNSで親交を深めていた。元舞台女優だ。目鼻立ちのはっきりとし、色白で目を引くような美人だ。歌劇団の時の芸名、ダンス界での通称名、本名、SNSハンドルネームといろいろあるが主にハンドルネームで呼んでいた。

ティファニーブルーをメタリックにしたようなハイペリオンブルーの外装色の406クーペで、淡いピンク色のワンピースを身にまとった彼女と遠くまでドライブに出ていた。しかし俺は密かに帰路を急いでもいた。それは、広尾にあるアンティークショップの閉店に間に合わせるために。

以前に彼女から、自宅のお気に入りのアンティークのガラスランプを割ってしまい意気消沈していたと聞いたので、写真も見せてもらっていた。それに近しいものは無かろうかと、ネット検索していたところ、これならばきっと気に入るだろうと思う似た雰囲気で、むしろもっと可愛いらしいアンティークのテーブルランプをそのショップにあるのを見つけていたのだが、彼女には伏せていた。店に問い合わせたところ他にも買いたいという客が次の日に見に来るというので、今夕中に現物を彼女に見てもらいたかった。

閉店が迫り、アクセルの踏み込みがかなり強まるが、特に最後の首都高目黒線のタイトなコーナー群でも、406クーペらしく過敏なハンドリングにならず、綺麗なラインを描くかのが楽しくもあり腕の見せ所でもある。

なんとか間に合って胸をなでおろしながら、一方で突然知らない店に着いて戸惑い気味の彼女を案内した。目当てのテーブルランプは売り切れておらず無事にあった。現物は思った以上に良い雰囲気の品であり、気に入るだろうと自信を深めて、ようやく彼女に事情を説明した。もし気に入って、割れたランプの傷心をいやせるならプレゼントすると伝えた。

嬉しいと言って、店内であったが、彼女はその場で泣いた。

ヴァシュロン222は閉店時間を過ぎた19時5分を示していた。

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