ゴッドマザー
「おばさん、私妊娠したんよ!」
町子が弾むような笑顔で伸子を訪ねたのは、夏も終わりかけ、夕方には少し涼しい風が肌を包むようになった季節だった。
「そうかあ、よかったねえ。おめでとう」
町子は昨年、黒田と結婚した。
黒田と結婚してからも、こうやって折を見ては、町子は伸子を訪ねていた。
それは、伸子の身の回りの世話をする為でもあった。
伸子は原爆症を患い、少しずつ体調が悪くなる日が続いていた。ただ、浩二の言いつけ通りちゃんと医者にも通っていたため、症状の進行は比較的緩やかだった。
だが、助産師を続ける体力はなく、家で寝ている時間が多くなっていた。
そんな伸子に、町子は、妊娠中に気をつけること、大切にしなければならないことを都度聞いていた。
伸子は、お腹を触りながら、丁寧に一つ一つ助言をした。
そんな町子とのやり取りの中で、伸子は、お産を扱うことは出来なくても、こうやって妊婦さんを支えることはできるんだ、と言う充実感を感じていた。
妊婦さんは、妊娠中も不安になることが多い。
ましてや初産であれば、覚悟はしていたにしても自分の体に起きる変調一つ一つが悪いことにつながるのではないだろうか。そんな不安を抱えている。
だが、そんな不安を家族に言える妊婦さんは少ない。なので、町子にとって、伸子は有難い存在だった。
時には夫婦で訪れることもあった。それも、伸子が薦めた事だ。
黒田は、夫として、父親としての話を真剣に聞いた。
「子供を産むって、家族になる話なのに、妊娠は女性にしかやってこん。やから、男はおいてけぼりになるんです。ばってん、実は寂しんですよ。
やから、こういう機会があるのは、正直ありがたいです。子供を産むって事を一緒に考えることができる。
男は不器用なんで、何をどうしたらええのかわからんのですよ」
黒田は、素直に伸子にそう感謝した。同時に、子供が生まれることへの不安も語った。
「僕は、戦争で家族を亡くしました。
家族が増えるのはそりゃあうれしい。嬉しいんですが、また突然いなくなるんやないか。そんな事をふと考えて、怖あなるんです。弱いですよね」
そんな様子の黒田を見て、伸子は優しく微笑んだ。
「当たり前ばい。
だからこそ、だからこそ、大事にせんとね。
生まれてくる子供はみんな神様の贈り物。神様が私たちに遣わしてくださったものなんやから」
微笑みながらも、力強く伸子が言うと、黒田は浩二の仏壇に手を合わせた。
「町子ね、浩二さんの月命日に、いつも手を合わせとるんです。時々、泣いとるのも知っとります。
僕らは、浩二さんのように、亡くなった人たちの上に生きている。それを自覚しながら、毎日を過ごさんといけんなあと思うんです」
「そんな気を張ってたら、疲れてしまいますよ。
ええんですよ。
今生きてる人たちが幸せであってほしい。幸せは、生きてる人たちの、ためにあるんですから」
浩二が、幽霊として伸子の前に現れた時に言った言葉だった。
黒田に言いつつ、伸子は、自分にも言っていた。
あの頃は、浩二がいない世界と助産婦ができなくなってしまうかもしれない現実に押し潰されて、気力を無くしていた。
今は違う。
子供を取り上げることは出来なくても、こうやって助産婦として妊婦さんを支えることはできる。
私は、生きている。生きているんだ。
伸子は、海に沈む真っ赤な夕日を眺めながら、呟いていた。
「浩ちゃん、今日も夕陽が綺麗や……もう、夕陽は怖あない。母さん、怖あなくなったよ」
町子の話が人伝に伝わり、伸子はさながら妊婦さんの相談所として人が出入りするようになった。
それから暫くして、町子は元気な赤ちゃんを出産した。
男の子だった。
伸子は、知らせを受けて浩二に報告した。
「浩ちゃん、母さんに嘘ついたね。女の子やなかったやないの。やっぱり、赤ちゃんは神様の贈り物や。神様にしかわからんのやねえ」
そう言って笑って、塩水を供えた。
黒田は、2人の子供に、浩二と名付けようとした。
「あんな早死にした子の名前つけるなんて、縁起でもない!」
伸子は頑として譲らなかった。
じゃあせめて、と「こうじ」の一部分だけ貰いたいと言って『郷(ごう)』と名付けた。
出産後も、何かあれば町子は伸子を訪ねた。お乳の出が悪い。こんな動きをするのは大丈夫なんやろか。
そんな小さな相談事に、伸子はまた丁寧に答えた。
「ああ、良かった。おばさんがいてくれて」
町子が安堵して帰っていく姿を、伸子は嬉しそうに眺めていた。
それから数ヶ月後、伸子はこの世を去った。
家で1人、亡くなっていた。
胸元には、浩二の写真と、塩水が入ったコップが置いてあった。
伸子は、穏やかな顔でこの世を去っていた。
葬儀には、伸子が取り上げたであろう子供たち、相談に乗ったであろう母親たちが沢山参列した。
「伸子さんは、ゴッドマザーやったんやね…」
黒田が、参列者の様子を見てそう呟いた。
葬儀後、身寄りのない伸子の荷物整理を町子がしていると、文机の中から、何枚も原稿用紙が出てきた。
そこには、助産婦が子供を取り上げるだけでなく、妊娠中から、出産後まで妊婦の不安に寄り添って、家族が増える喜び、大変さをしっかり関わりながら伝えることが大切なのだと言うことを訴える文章がびっしりと書かれていた。
書き終えた日付は、亡くなる1ヶ月前だった。
伸子は、助産婦として一生を全うしたのだ。
町子は伸子の誉高き精神と、優しさに涙が止まらなかった。
今日も、海に沈む夕陽は伸子の家の窓ガラスを真っ赤に染めていた。
近くでは、町子の子供がひとり遊びをして声をあげていた。
「ごうちゃん。えらいね。1人で遊んでたの?」
町子は、我が子を愛おしそうに抱き上げて、一緒に夕陽を眺めた。
郷は、その小さな手を夕陽に向けてしっかりと伸ばしていた。
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