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すっぱいぶどう効果

イソップ寓話に、
「すっぱい葡萄」
というキツネの話がある。

おいしそうなぶどうを見つけたキツネが
それを取ろうとするのだけれど、
高い所にあるから届かない。

何回跳んでも届かないので
とうとうキツネは
「どうせあのブドウは、
すっぱくて美味しくないや」
と言って去る、というお話。

この話は、心理学で
「防衛機能」とか「自己正当化」の
比喩として用いられる。

本当は手に入れたいのに
手が届かないと思うと
最初から欲しくなかったんだ、とか
あれには価値がないんだ、とか
思うことで心理的な安定を図る、
というもの。

・・・これ、ものすごーく
「あるある」なことだと
思うのは、私だけだろうか。

たとえば私は、
苦手な人や苦手な雰囲気の場所に行くと
「行くんじゃなかった」とか
「あの人達とは話が合わない」とか
思ったりする。

でもこれも
「すっぱいぶどう効果」で
『本当は楽しく過ごしたかった』とか
『もっと仲良くなりたかった』とか
何かしらの期待や理想があったからこそ

そこに立ち向かえなかった自分に対して
無力感を感じたくない、
傷つきたくなくて
何らかの理由をつけずにはいられない、
ってことなんだろう。

アドラー心理学では、
こんな風に自分の自尊心を守るために
自分で自分を騙すことを
「自己欺瞞」という。

自己欺瞞は、たぶん誰でも気づかないうちに
自然にやっている。
だから別に、これ自体は悪いことでもなんでもない。

だけど、
「あんなブドウをとるのはやめとけよ」とか
「あのブドウが青かったことを証明してやる」とか
他人を巻き込んだり、
自分の正しさに固執しすぎてしまうと、
本当は手段に過ぎなかったことが「目的」にすり替わってくる。

本当は「ブドウを食べる」ことが目的で
「ジャンプしてとる」
「とることはあきらめる」
という手段の一つだったことが
「あきらめるために自分の正当性を証明する」
という、不毛な方向にいってしまうのだ。

私たちは、気づかぬうちに「手段」を見誤りやすい。

文句を言ったり批判したりしていると、
いつの間にかその正しさを証明することに躍起になってしまい
そこに自分の価値を見出そうとしてしまうこともある。

本当は、「ブドウを食べる」ことが目的だったのに。
とることが無理なら、
他のブドウを食べるとか
ブドウ以外の美味しいものを食べる、でも
目的は果たせたのに。

そのことを忘れてしまうと、
いつまでたっても自分が満たされない。

どれだけ文句を言っても批判を言っても
満たされることがないのは、
本来の目的を満たしていないからだ。

批判や文句が出てくるときには、そこには必ず
期待や理想があることを忘れちゃいけない。


たとえばこれがコーチングなら
「本当はそれがどうなればいい?」
「本当はどうしたかったの?」
などと問うことで、
本当はぶどうを取りたかったことを思い出すかもしれない。

そしたら、
どうやったらとれるか?を考え出すかもしれない。


ところで私は、
つい考えてしまう性分なので
このキツネちゃんの人間関係(キツネ関係?)
が非常に気になる(笑)

このキツネちゃんが周りとどう関わっていくかで
このキツネちゃんの如何が変わってくるからである。

このキツネちゃんはこの後
周りの人になんて言うだろうか。

「あそこにぶどうがあったけど、
すっぱいやつだった。取っても意味ない」
と言うだろうか。

それとも
「ぶどうがあったけど、とれなかった。
とりたかった!」
と言うだろうか。

私は、後者であってほしいと思う。

後者なら、
それを聞いた友達が
「よっしゃ、どんなぶどうか観に行こうぜー!」
と言って、一緒に行ってくれるかもしれない。

あるいは、それを聞いたお母さんが
脚立を持ってきてくれるかもしれない。

もしかしたら、孫バカのおじいちゃんが
「そーか、じゃああそこの農家ごと
おじいちゃんが買収してやろう!」
と言うかもしれない(笑)

「あんなぶどう、大したことねーよ」
と言うキツネちゃんには
「ぶどうなんて意味ねえよなあ」
という友達が集まってくる。

「どうせ私にぶどうなんて無理なんだわ」
と思うキツネちゃんは
誰にも言えないので
誰もキツネちゃんの気持ちに気づけない。

「ぶどう、おいしそうだなあ。
とりたいなあ。」

と、自分の本心に
許可を出してあげられること。

それを素直に
周りに言えること。

それがキツネちゃんの
今後のキツネ人生(?)の
命運を分けると思う。

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