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ラベルにご用心

高校1年の頃、シャネルの巾着リュックに憧れた。

A4サイズのモノが余裕で入る大きさで、
真っ黒な布地に「CHANEL」の白い文字が
デカデカと印字してあり
背中に背負うとコロンと丸っこくてかわいい、
あのリュック。

私の記憶では割と流行ってたと思うのだが、
私の地元の静岡だけで起きてた現象だったのだろうか。

街に出ると、かわいい女子高生達は
まるで「ギャルの指定バック」かのように
背中にそのリュックを背負っていて
見る度「いいなー私も欲しい!」と思ったものだ。

あのリュックを背負えば自分も
「いまどきのギャル」
の1人になれるような気がしていた。

今思えば、
CHANELのリュックが欲しかったのではなく、
当時あのリュックが世間に放っていた
「価値」が自分に欲しかったのだ。

 
だけどこの価値は当然、
当時の「私」だから見えていた価値で、
他の人からすれば全く違うものに見える。

結局、そのリュックは買えなかったが
翌年、バイトしたお金で初めて
ルイヴィトンのダミエ柄の財布を買った。

これまたギャル達の憧れだった財布を手にして
私は嬉しさいっぱい胸いっぱいで
帰宅したのだが

ブランドには全く興味がないけど
物の値段にはメッチャ興味のある父に
「おまえ、その財布いくらしたんだ」
と問われ、答えたところ
(確か当時は3万円くらいだったと思う)、

父が卒倒しそうな顔をして言った。

「その市松模様が、ン万円・・。
この模様1つで、ン千円!?
俺でも書けるぞ、この模様」

父にとってはヴィトンの「ウ」の字も
価値がなかったのである。

 
そんな父は、
40代の頃に不動産会社を退職した。

父が勤めていた頃、
内装業者さんの1人が
父をすごく慕っていて、
父も信頼していたらしく
我が家を建てた時もその人に内装の依頼をした。

ところが、
父が退職してから
我が家の壁紙を張り替えたいと
その人に連絡をしたら
けんもほろろな対応だったらしく
父が憤慨していた。

「いくらなんでも、あんなに変わるか!?
俺が会社にいた頃は、
Iさん、Iさん、って慕ってたのに」

その人にとって父は
「〇〇会社のIさん」に過ぎず
「〇〇会社」の肩書きがなくなった父は
価値のない存在になったのだろう。

しかし父が退職した後も
「Iさんじゃないと困る」
という大家さんもいたらしく、
辞めた後も父がコッソリ個人的に
定期訪問していた大家さんもいた。

その大家さんにとっては、
父はたぶん
「〇〇会社のIさん」ではなく
「話をわかってくれるIさん」
だったのだ。

 
こんな風に、
私たちはモノにも人にも
なんらかの「価値」とか「意味」をつけて、
その「モノ」そのものではなく
その「モノ」を通した、
価値とか意味を見ている。

心理学では「ラベリング」といったりするが、
ラベルの威力は結構でかい。

なぜなら、
その「モノ」とか「人」自体に
「ラベル」が持つ意味全てが貼り付くからだ。

時に、ネガティブな印象を持つものは
その人そのものの印象を超えて
ラベルの方が印象を決めてしまうこともある。

たとえば、
「毒親」というと
子どもに悪影響を及ぼす親という意味以上に
育てられた子どもはかわいそうな被害者で
育てた親は加害者のイメージが、

「不登校児」というと
30日以上学校に行っていない状態という意味以上に
普通の子と同じことをしていない異端児で
周りにとって問題な存在というイメージが、
その人に貼りつきかねない。

だけど、
24時間365日子どもにひどいことを
し続けている親はいないし、
何から何まで親に心配かけることしかしてない
子どももいない。

ラベルは、
その人の状態とか特性を表している1つに過ぎず、
その人そのものではないのだ。

人の脳は省エネにできてるので
「全てそう」と一般化して
思い込んで見てしまうのは
ある意味仕方がないことだけれど、

それでも、
「親が毒親だった人」ではなく、
親からどんな育てられ方をして
その人は何が辛いと感じてたのか、

「不登校なあの子」ではなく、
学校に行ってない間
その子はどんなことを話し何をしているのか、

その人の「リアル」な部分に
目を向けていたいと思う。

目の前の人を「ラベル」で
曇らせてしまわないように、
「今生きている」その人を
見逃してしまわないように、

目を見開いて見ていたい。

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