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アドラー心理学は科学じゃないからロマンがある

アドラー心理学の講座をやっていると、たまに
アドラーってなんか胡散臭い」と言われることがある。
それはある意味、その人の嗅覚が鋭いのだと思う。

なぜならアドラー心理学は、「科学」じゃないからだ。

「幸せ」についての答えを、アドラー心理学自身が持っている。

それは、人を調査したり実験したりした結果から「人はこういう時に幸福感を感じやすい」とか「これが幸福感につながっている」とか仮説検証して導き出した「幸せ」の答えではない。

アルフレッド・アドラーという人が、大勢の人を見て、関わって、人を理解し、第一次世界大戦の最中に人と人とが争う世界の解決策として導き出した、人々が幸せになるための「結論」なのだ。


アドラー心理学には、幸せについてだけでなく、人間理解の理論もある。
しかしその理論がどんなに科学的であろうとも、「幸せ」についてアドラーの方から定義し出したこと、いわば「思想」を主義主張し出した時点で、もはや「科学」ではなくなってしまう。

だから、「幸せ」について理想論で語るのってなんかあやしい、科学的な根拠がないものは信じられない、と考えている人には、アドラーの非科学的な部分に鼻が利き、それが「胡散臭い」と映るのだろう。


では、科学という立場を放棄してまで、それでもアドラーが貫きたかったこと、目指したことは何か。


それは「共同体感覚」である。


アドラーは、全ての問題を解決する方法は「共同体感覚」を持つことだ、
と結論付けた。

全ての問題、と考えているところがすごい。
そしてまた、言われてみれば確かにその通りだ、と納得させられるところがもっとすごい。

全ての問題とは、戦争も、犯罪も、差別も、神経症も、心がくじかれるのも、行動ができないのも、対人トラブルも、社会適応できないのも、全部。人に起こる「全ての問題」は「共同体感覚」で解決できるとした。

それはすなわち、たとえどんなに生きていくのに困難な身体や症状を持っていたとしても、どれほど過去に過ちを犯していようとも、どれだけ不遇な境遇にあったとしても、どんな人でも、
人はみな誰でも「幸せになれる」ということを意味する。


だから、アドラー心理学のセラピーもカウンセリングも育児も教育も一貫して「共同体感覚を育てること」がテーマであり、ゴールである。

だけど「共同体感覚」って言われたって、視覚とか聴覚とか一体感とか親近感みたいに「ああ、あの感覚ね!」って誰もがわかる感覚ではない。
アドラー自身、何度も何度も一生懸命説明を試みてきたけれど、なんてったって「理想」なだけに、うまく表現しきれなかった。

おかげで今も「共同体感覚とは何か」について、いろんな人が様々な解釈や表現をしていて「つまりはコレ!」という絶対的に正しい答えはない。
そもそも「感覚」以前に、アドラーが唱えた「共同体」の定義が神秘的過ぎて、言葉では言い表せないのだ。

でも、それでいいのだと思う。
アドラー心理学を愛している全ての人たちがこぞって目指してるゴールなのに、そのゴールがあやふやっていう寛容さと自由さが、いかにもアドラーっぽくていい。

むしろそこに、ロマンすら感じる

「理想」だからこそ人は追い求めたくなるし、神秘的だからこそ人は魅せられる。でなければ、こんなに長く、多くの人々にアドラーの思想が受け継がれ、今尚発展し続けることはなかったのではないか。


じゃあその「共同体感覚」って何なの?
については、また明日。





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