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【対談】斎藤幸平×星野真志/気候変動からポスト資本主義をラディカルに構想する――ナオミ・クラインとマルクスのエコ社会主義というヴィジョン

 グレタ・トゥーンベリさんのスピーチが世界中から注目を集め、いま気候変動への取り組みが世界規模で広がっています。これらの動きと同時に、気候変動を資本主義の問題として捉え、現在の社会システムに根本的な見直しを迫る主張が、世界的に有名なジャーナリストのナオミ・クラインらをはじめ着実に影響力を増しています。
 なぜいま世界で環境問題がアクチュアルな課題となっているのでしょうか? そしてそれは、資本主義社会のオルタナティブといかにリンクしているのでしょうか?
 現在注目の経済思想研究者の斎藤幸平さんと、ナオミ・クラインの最新刊『楽園をめぐる闘い』翻訳者の星野真志さんのお二人にお話しいただきました。


本記事は、代官山蔦屋書店で2019年4月28日に行われたトークイベント「わたしたちの「楽園」にむけて――いま気候変動と資本主義社会を考えるということ」を収録したものです(雑誌『POSSE vol.42』掲載)。

プロフィール

斎藤 幸平
大阪市立大学准教授
1987年生まれ。大阪市立大学経済学研究科現代経済専攻准教授。日本MEGA編集委員会編集委員。 著書に『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』(堀之内出版、2019年)、共著に『労働と思想』(堀之内出版、2015年)等。編著に『未来への大分岐』(集英社新書、2019年)、Marx-Engels-Gesamtausgabe, Ⅳ. Abteilung Band 18, De Gruyter, 2019。『大洪水の前に』で2018年にドイッチャー記念賞、2019年に経済理論学会奨励賞を受賞。
星野 真志
イギリス文化研究者
1988年群馬県太田市生まれ。一橋大学社会学部、同大学大学院言語社会研究科修士課程を経て、マンチェスター大学英米学科で博士号を取得。2019年1月、論文「 Humphrey Jennings's "Film Fables": Democracy and Image in The Silent Village」で英国モダニズム学会新人論文賞(BAMS Essay Prize)受賞。東洋大学などで非常勤講師として勤める。共訳にトニー・ジャット『真実が揺らぐ時─ベルリンの壁崩壊から9.11まで』(慶應義塾大学出版会、2019年)など。

気候変動からポスト資本主義をラディカルに構想する―ナオミ・クラインとマルクスのエコ社会主義というヴィジョン

斎藤:大阪市立大学の斎藤幸平と申します。先日、私の著作大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝が刊行され、同時期に、ナオミ・クラインの楽園をめぐる闘いも日本語版が出版されました。私の本ではマルクスの環境思想を扱っていますし、クラインも気候変動の問題を資本主義の問題として説得的に論じています。そこで今日は、訳者の星野さんと一緒に、なぜいま世界で環境危機に関する本が書かれ、そして読まれているのかについてお話したいと思います。

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星野:星野真志と申します。私はイギリス文学・イギリス文化の研究者なので、資本主義と気候変動の専門家ではありません。私は2018年12月までイギリスに住んでいました。マンチェスター大学に留学して、9月にジョージ・オーウェルなど1930年代のイギリスの作家たちをテーマにした博士論文を書き終わりました。そして10月のある日、ロンドンでふらふらと書店巡りをしていたのですが、そのとき、堀之内出版の編集者から「ナオミ・クラインの新著を出すことになったので、訳してくれないか」と打診され、その場で原著を購入して読んだところとても感銘を受け、引き受けることにしました。 斎藤さんの本も、ドイツ語で執筆した博士論文がベースになっているのですよね?

斎藤:はい。『大洪水の前に』はドイツに留学していたときに書いた博士論文をベースにしています。実はこの本は二年前に英語で出版していて、もう日本語で出す必要はないかなと思っていました。ですが、2年前に日本に帰ってきて、環境問題や気候変動に対する関心の低さを痛感しました。
 よく言われているように、これまでと変わらない生活を続けてしまうと、2100年までには世界の平均気温が最大4.8度も上がるといわれています。これを1.5度以内に抑えるためには、2030年までに二酸化炭素の排出を半分にし、2050年には純排出をゼロにしなければならない。つまり、すごく大きなチェンジが必要なのです。
 ですが、日本では、台風や異常気象の影響で、多くの人がその変化を実感していても、それがまだ運動にはなっていません。そこに危機感を持っています。理論家として、環境危機に立ち向かう理論を発信したいと思いました。

『ショック・ドクトリン』から『楽園をめぐる闘い』へ

星野:斎藤さんの本では、マルクスの理論から、気候変動に対する取り組みが資本主義批判と一体となってなされなければならないと論じられていますが、クラインの本は、その実例を示していると思います。
 『楽園をめぐる闘い』で描かれているのは、先進国が原因となって引き起こされた気候変動によって、プエルトリコという国が、ハリケーンによってすさまじい被害を受けている。そして、その被害が、必ずしも自然災害としての被害だけではなく、資本主義的な経済システムによって引き起こされた人災、もしくは社会的災害に遭っているということなのです。

斎藤:具体的にプエルトリコの話を解説していただけますか?

星野:そうですね。『楽園をめぐる闘い』の説明に入る前に、まず『ショック・ドクトリン』の話をしておく必要があります。この本では、自然災害などのショックを利用して、平常時では考えられないような急進的な資本主義的政策を推し進めることを、「ショック・ドクトリン」と呼んでいます。最初に挙げられる例が、2005年にアメリカのニューオーリンズが、ハリケーン・カトリーナに襲われた後のことです。住民たちは避難を余儀なくされ、判断力が停止しているあいだに、公立学校が民営化されたり、公営住宅を取り壊されたりしました。
 ここではそれほど気候変動については論じられていないのですが、その後に出た『これがすべてを変える』では、気候変動がメインテーマとして扱われています。この本では、気候変動に取り組むにあたり、なぜ資本主義に根本的な見直しを迫らなければいけないのか、ということが説得的に論じられています。つまり、気候変動に対する取り組みが市場の原理に基づいている限り、効果的たりえないということです。僕はこの本を留学中に読んで、衝撃を受けました。日本よりもイギリスのほうが環境に対する意識が高く、周りの友人たちも気候変動に関心をもっていたので、クラインの議論はとてもアクチュアルであると感じました。
 そして、『楽園をめぐる闘い』です。これは2017年にプエルトリコが巨大なハリケーンに襲われた、その後の状況について語っています。プエルトリコは3つの有人島と多くの無人島から成っているのですが、本島はハリケーンの後かなり大規模な停電に追い込まれました。もちろん、ハリケーン自体がとてつもなく大きかったわけですが、恐ろしいのは、この危機を利用して「真に」自由な市場を作り出そうという動きがすぐさま現れていることです。
 一方で、ハリケーン後、住民たちの手によって自分たちの土地や生活を再建する動きも出現しています。それは、太陽光発電を普及しようという、草の根の活動が何十年も続いていたことが土台となっています。ですから、こうした二つの対立する動きが存在し、まさしく、ハリケーン後の荒廃のなかからどのような「楽園」をつくるかをめぐる闘いが生じていることを、クラインは描いています。

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ナオミ・クラインとマルクス

斎藤:まさにその部分で、クラインがマルクスの影響を受けていることがわかります。とくに『これがすべてを変える』でも出てくる「物質代謝の亀裂」という概念が重要です。ちなみに、私の本でも物質代謝はキーワードになっています。
 単純化すると、資本には資本なりの論理があって、それはできるだけ短期間に、より多くの儲けを手に入れるというものです。一方、自然や社会は、必ずしもそういった論理に従っているわけではありませんよね。自然そのものの論理がある。人間はきちんと寝ないといけないし、木は一度切ってしまったら成長するまでに何十年とかかる。したがって、二つの論理はまったく相容れないという話なのです。
 資本の側は、究極的には自然が持つ「素材の論理」を無視して、みずからの価値増殖に有利なように物質代謝のあり方を再編成していきます。すると、人間が物質に働きかけて、自然から得たものを消費し、生活する、という代謝のサイクルが決定的に歪められ、物質代謝に亀裂が生じ、それが環境問題となって現れてくるわけです。
 マルクスが分析しようとしていたのは、資本がどのように我々の自然に対する関係性を歪めていってしまうのか、という自然からの疎外の問題なのです。だからこそ私は、マルクスの理論をもう一度しっかり捉えることが、21世紀に起きている問題を考えるうえでも非常に大きな示唆があると考えています。

星野:そういったマルクスの理解というのは、あまり一般的ではありませんよね?

斎藤:そうですね。マルクスがエコロジーの問題に強い関心を持っていたというのは、『資本論』などからなかなか読み取ることはできません。では、どこからわかるかというと、マルクスが研究するときに作成したノートです。マルクスは、自分で本を買うお金がなかったので、毎日、大英博物館図書館に行って、『資本論』を書くためのノートをひたすらとっていました。コピーもパソコンもない時代ですからね。
 その「抜粋ノート」を読むと、持続可能性やエコロジーにつながる話をしていますし、マルクスが考えていた社会主義のビジョンも、実は持続可能性という点が重要だとわかります。私はこれを「エコ社会主義」と呼んでいます。
 クラインも、エコ社会主義という言葉は使っていて、明確にこれがオルタナティヴであると言うようになっています。それぐらい彼女は危機感を持っている。一貫して理論的なバックボーンにマルクスを据えているからだと思います。たんに彼女が優れたジャーナリストとしての嗅覚を持っているから、あのような本が書けるということではなくて、資本主義の本質とは何かを捉えているのだと思いますね。クラインはマルクス主義者です。

星野:そういったマルクスとクラインのつながりから、この二冊を読むことにすごく意義があるというわけですね。

斎藤:そうですね。先ほど話がありました、ショック・ドクトリンの話。ショック・ドクトリンというと、すぐにピノチェトとかがCIAと結託してクーデターを起こしてチャンスを作り、悪い奴らがやってくる、というような陰謀論的な話になるのですが、彼女が強調しているのはそういうことではない。そこが完全に誤解されてしまっています。重要なのは、ショックを通じて人々の抵抗する力を奪うというだけでなく、そのショックは財政破綻だったり、金融危機だったり、暴力だけでなく、商品や貨幣の力を使って組織され、正当化されるということです。
 だから、人々の生活の観点に立つのであれば、我々はいまある経済システムそのものを変えなければいけない。「気候変動の問題が我々の生活のすべてを変えてしまう前に、我々がすべてを変えなければいけない」というのがクラインの明確なメッセージですよね。

ユートピアとしてのプエルトリコ

斎藤:こういったかたちでこの2冊は知的につながっていると思うのですが、星野さんの研究と『楽園をめぐる闘い』はどう接続しうるのでしょうか?

星野:そうですね。強いて僕の研究と結びつけるとすれば、『楽園をめぐる闘い』というタイトルからわかる通り、ある種のユートピア論なのですね。僕は主にジョージ・オーウェルという作家を研究しています。オーウェルは『一九八四年』というディストピア小説で有名な人なので、「ユートピア」の概念についても検討してきました。
 一九三六年頃からイギリスでは反ファシズム運動が高まって、ファシズムが堕落したユートピアとして批判されるようになります。同時に、社会主義のユートピアだったはずのソ連ではスターリン独裁が始まって、ユートピアという概念そのものに批判的な論調が高まっていきます。第二次大戦後の一九四八年に書き終えられたオーウェルの『一九八四年』はその頂点のような作品です。
 クラインの本も、ハリケーンによって全てがなくなってしまって、真っ白なキャンバスになり、そこに暴利を貪る資本主義者たちが楽園を描くという、ユートピア的な計画としての災害資本主義があって、それに対して、草の根の運動家たちが思い描いている持続可能な共同体というもう一つのユートピアがあるという話ですね。このように、ユートピアという概念に含まれるイデオロギー性を批判しつつも、同時にそこに胚胎する可能性を手放さないというクラインの思想は、自分の考えてきたユートピアに関する思考とつながります。

斎藤:なるほど。クラインもユートピア主義者、ロマン主義者と言われることが多いですよね。彼女が「先住民族の生活から学ばなければいけない」と言うと、「じゃあ、お前が勝手に先住民族と暮らしていろ」と言う人がいるわけですよ。
 いまの日本でも似たような現状がありますよね。要するに、「経済成長をしないと人々の生活を良くすることはできないから、経済成長を批判する左派やリベラルはダメだ」みたいな。だけど、持続可能性を犠牲にしてしか成り立たない経済成長はやっぱり批判しないといけないと思うのです。だって、ひたすら経済成長して豊かな生活ができるという考え自体が、もはやユートピアなのですから。本来であれば、我々は生活をラディカルに変えないといけない。でも、「ラディカルに変える」=「脱成長」や「貧困化」ではないはずです。

気候変動から社会を変える

斎藤:このあたりの話は、グリーン・ニューディールとかに関わってくることですが、最近であれば、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスという、29歳で民主党の議員になった女性がいますね。彼女は、気候変動の問題を通じて、失業や社会インフラなども抜本的にチェンジをしていこうという発想をはっきりと打ち出しています。

星野:いま、ヨーロッパでもイギリスでも、「左派ポピュリズム」と呼ばれるような運動が、若い世代を中心に起こっていて、それらの運動は気候変動や富の再分配を問題にしています。経済学者のヤニス・ヴァルファキスなどが中心となり「2025年までにヨーロッパにデモクラシーを」のスローガンを掲げるDiEM25(Democracy in Europe Movement 2025)もそれにあたります。他にも、イギリスではロンドンを中心に、「絶滅への反逆」(Extinction Rebellion)という団体の組織した大規模なデモがおこなわれています。

斎藤:そういった一連の流れのなかで、重要なのはオキュパイ・ウォールストリート運動ですよね。約10年前にオキュパイ運動があって、そこからいろいろな社会運動が出てきています。これは、デイヴィッド・グレーバーが言っていることですが、若い世代は冷戦崩壊後のいろいろな運動がもう消えてしまった後の世代なので、ラディカルなものに触れる機会がなかった。それが、約20年を経て、初めてラディカルな運動に触れるときがきたということです。
 ここで問題になるのが、エスタブリッシュメントですね。オバマやクリントン、ゴアがそれにあたります。危険なのは、トランプだけでなく、実は対策をしているようで、ただ先延ばしにしているだけの人々なのです。

星野:スラヴォイ・ジジェクもたしか、問題はトランプではなくクリントンだ、と言っていましたよね。

斎藤:そういうことです。そうしたエスタブリッシュメントとの対決において、マルクスのイデオロギー批判が重要なのです。

マルクスとエコロジー

斎藤:マルクスというと、「労働者対資本家」という階級の話ばかりしているのではないか、と思われる方も多いと思うのですが、実は晩年になるにつれて、資本主義の残虐性というのは、彼の住んでいたイギリスではなくて、むしろアイルランドなどの周縁で露わになると考えるようになります。
 だからこそ、マルクスは、イギリスの労働者たちが革命を起こすためには、アイルランドの労働者たちとどう連帯できるかが決定的に重要であると言っています。現代の文脈に置き換えれば、周辺部に位置づけられる、異なるエスニシティやジェンダーの人々といかに連帯していくかということです。

星野:世界中で起こっている気候変動に対する取り組みの運動のなかで、マルクスの物質代謝の亀裂という概念が影響力を及ぼしているというのは、いままでの話からわかってきました。では、世界のマルクス研究において、気候変動の問題は、どれほど議論されているのでしょうか? 斎藤さんが受賞されたドイッチャー賞というのはかなり権威のあるもので、デーヴィット・ハーヴェイとかも取っていますよね。そのなかで、マルクスの環境思想を論じている斎藤さんの議論が高い評価を得ています。

斎藤:まず、いま海外の左派のなかで、気候変動の問題を論じない人は存在しません。私がドイッチャー賞をとったのは2018年なのですが、2016年に同じ賞をとったアンドレアス・マルムも積極的に気候変動について論じています。海外のマルクス研究のなかでエコロジーが中心的なテーマになりつつあって、それに合わせてコミュニズムの理念自体も刷新されているのです。
 コミュニズムというと、いままでソ連というイメージが強かったと思いますが、マルクスが言っていたのは、限られた資源を、私的所有でも、国家所有でもなく、「コモン」として、どのように民主的に管理し、使用していくのか、ということでした。実際に、海外では地方自治のレベルで、自分たちで電気や水を管理しようという運動が生まれてきています。これがまさにコミュニズムなのですね。先ほどのグリーン・ニューディールのような話も、日本に輸入されると、運動の側面が抜け落ちて、政策だけ注目されるという転倒が生じてしまっていますが、そういうことでは全然ないわけです。

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プエルトリコと沖縄

斎藤:『楽園をめぐる闘い』の訳者解説で、星野さんはユートピアの話をされていますね。これはすごくいい訳者解説だなと思っていて、そこで沖縄の話をされています。これを読んで、星野さんの関心のなかにクラインの議論は、日本の現状にとってもアクチュアルだという思いがあると感じました。

星野:そうですね。訳していてプエルトリコについて初めて興味を持って調べたのですが、最初にこの本を読んで、沖縄と似ていると思いました。というのは、プエルトリコのビエケス島には米海軍基地があったのですが、90年代後半に軍事演習中の事故で住民が1人亡くなっています。それをきっかけに大規模な抵抗運動が起こって、それによって海軍を撤退させることに成功しているのですね。プエルトリコは戦略上かなり重要な立地なので、絶対に基地をなくしてはいけないといわれていたのに、運動によって撤退させた。単純化はできませんが、プエルトリコでそういう運動が可能だったのであれば、日本でもこれを参考に学ぶところがあるのではないかなと考えました。そこで調べてみて、実際に基地問題に取り組む沖縄の人びとのなかには、プエルトリコを訪れて交流をもっている人たちもいるのだということを知りました。

斎藤:プエルトリコは、すごい仕打ちを受けているのだけれども、反植民地運動の時代から続けてきた運動があって、そのなかに希望がある。クラインはこのことを非常に説得力のあるかたちで描いていると思います。

ラディカルな転換に向けて

斎藤:もう一点、ナオミ・クラインが素晴らしいなと思うのは、『NOでは足りない』のなかで、「愛」の概念を重視しているところです。いまの状況を変えるにはNOと言うだけではなくて、やっぱりYESに変えていくことが必要だと。他者と繋がっていくための概念は愛なのだ、という話をしています。最近だと、ネグリとハートが強調するキーワードの一つも、やっぱり愛です。
 では「愛」とは何か。重要なのは、ケア労働だと言われています。人間が生きていくために必要な根源はケア労働だと。保育や看護、介護はわかりやすいですが、そういったケアなしに、私たちの生活は成り立ちません。ですが、現実にはそういった労働に従事する人々は、低賃金しか得られず、過酷な労働を強いられています。
 こうしたいまの社会における労働の評価や、何が社会にとって有意義なのかを抜本的に価値転換していく必要があります。これは、我々が何に依拠して生きているのかということだと思います。つまり、貨幣を通じてしかつながり合えないような社会を選ぶのか、それともケアを通じてつながりあう社会であるのか、といった大きな話につながってきます。そういう意味で、クラインは本当に深いことを言っています。

星野:そうですね。クラインの話はすべてがつながっていて、彼女の本を読むと、労働そのものを考え直さないことには、気候変動の問題にも取り組めないのだということを考えさせられます。『楽園をめぐる闘い』には、日本の現状を考えるうえでも非常に示唆深い記述があります。プエルトリコでは、ハリケーンの後の被災した人たちが、常に自分の生存について考えなければならず、システム全体のことを考えるには無理がある状態に置かれていて、そのあいだに新自由主義的な改革が進められてしまっています。一方で、東京に住んでいる人も、毎日自分の生存のことばかり考えなければいけない状態に追い込まれているという点では、一緒なのかなと感じたのです。毎朝満員電車に揺られて会社に行かなければいけないなど、厳しい労働環境のなかで、ある意味、毎日ショックみたいな状態に置かれているために、気候変動の問題であったり、沖縄の問題を考える余裕がないという人が、ほとんどだと思うのです。

斎藤:物質代謝という概念がなぜ重要かと言うと、人間と自然を常にペアで捉えることを可能にする概念だからです。マルクスは、この物質代謝を中心的な概念に置いていたわけで、それは19世紀の段階で見抜いていたということだし、こういった理論をしっかりとおさえることで、気候変動をはじめ、さまざまな現代社会の問題を見つめ直すきっかけになってくれるのです。

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