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ワタクシ流☆絵解き館その141 青木繁「夕焼けの海」―絵の母胎としての『海潮音』

青木繁 「夕焼けの海」 1910年 油彩 40.5×51.0cm 河村美術館蔵

青木繁の作品シリーズの「ワタクシ流☆絵解き館その78 上田敏・翻訳詩集『海潮音』の世界と、青木繁《わだつみのいろこの宮》」で、こう述べた。
「上田敏による西洋の詩の翻訳詞華集『海潮音』は、明治38年に刊行された。(翌39年には、東京において青木は、画友、森田恒友と同じ下宿に暮らすといった生活をしていた)
この詩集は、当時の若い詩人たちに絶大な反響を呼び、青木繁と深い交友のあった新進の詩人蒲原有明は、その強い影響を受けた一人だ。文学に深くのめりこんでいた青木もまた、当然、蒲原有明らとこの詩集について語り合い、熟読玩味した一人であろう」

今回取り上げた作品「夕焼けの海」は亡くなる前年の作。この時期青木は、肺患の兆しが現れ唐津で静養していて、先の希望は持てない段階に来ていた。だからこの絵は、船で海へ出て見た情景ではなく、想像で描いたと言える。そしてその想像の源に、翻訳詞華集『海潮音』の詩篇によって青木の胸中にもたらされた、海洋のイメージがあったと筆者は思う。その詩篇を掲げる。

上の詩の表題の信天翁とはアホウドリのことで、この詩では、鈍い動きゆえに、航海中の船員に生け捕られた哀れな鳥として謳われている。ボードレールは、「世の歌人に似たらずや」と、自虐、自嘲の念を信天翁の姿に重ねている。
そのアイロニカルな感覚は、生活に追われ、尾羽打ち枯らしたという形容で語るしかない境涯に陥ってみれば、身につまされる一編として、青木の心に刻まれたであろうと考える。
さらにもう一編、同じく『海潮音』に収まる「海のあなたの」。
青木の「夕焼けの海」に画賛を添えるなら、ふさわしい詩句だろう。この詩の呼び起こす哀感は、絶筆「朝日」にまで通っているかもしれないと思う。

「夕焼けの海」より先に描かれた先品として下の図版の「月下滞船」がある。海と船…道具立ては同じだが、「月下滞船」の方は、筑後川畔で実際目にした情景である。庶民の姿を含めて、筑後の風土を情感をもって描く意図が感じられる。明治時代の風俗画としてもカテゴライズできる、郷愁の漂う佳品である。

青木繁 「月下滞船」 1908年 油彩 アーティゾン美術館蔵

しかし、その後の作品、「夕焼けの海」にしても絶筆「朝日」にしても、生活の情景を離れて、夢遊の境に沈潜しているような非現実感に包まれている。
青木繁の神髄は、「天草風景」(1909年 大原美術館蔵)や「月下滞船」のような、情感の脚色を施した上であっても、生活風景画にはなかったと言うべきであろう。
このシリーズですでに述べてきたことであるが、青木の画業には文学作品から受けたインスピレーションが、大きく作用している。着想の基に文学があるのだ。
青木はその原点に、最期まで立ち返っていたことを思わせるのが、おそらく同年制作の絶筆「朝日」の構想がすでにあった中で描いたであろう「夕焼けの海」である。

                 令和4年5月     瀬戸風  凪


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