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和歌のみちしば―『万葉集』柿本人麻呂、讃岐国狭岑の島で、屍を見て詠んだ歌を考える。

「万葉集」の中で、柿本人麻呂が讃岐国で詠んだ歌として次の一連がある。その詞書は次のとおりだ。

 讃岐の狭岑島に、石の中に死人を見て、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首
〔併せて短歌〕

「万葉集」巻二より

詞書はただそれだけである。どこどこへ行く折にとか、説明は全くない。以下、長歌と短歌からなるこの一連を読みゆけば、海が時化て、やむなく船を着けた島の磯の岩間に、男の亡骸を見つけて、あなたがこのような姿になっているとは妻は知る術もなく、あなたの帰りを待っているだろう、という憐憫 ( れんびん ) の情を表した歌であることがわかる。
その中で目に止まるのは、「ころ伏す」の表現である。「ころ」とは自分ひとりでの意味である。遺体がひとつ、投げ出されているのを強調している。

 水門ゆ船浮けてわが漕ぎ来れば時つ風雲居に吹くに沖見ればとゐ波立ち辺
 見れば白波騒く鯨魚とり海を恐み行く船の梶引き折りてをちこちの島は多
 けど名くはし狭岑の島の荒磯面に廬りて見れば波の音の繁き浜辺を敷たへ
 の枕になして荒床にころ伏す君が

「万葉集」巻の二 220の長歌部分

🔳 陸地へは引き返せないような小舟に乗っていた

歌は「狭岑( さみね )の島の荒磯面(ありそも)に廬(いお)りて見れば」と表現している。荒れた海を避けて、狭岑の島に仮小屋をしつらえて辺りを見ていると、ということを言っている。
その状況を想像すれば、この磯には人麻呂の他に、常識的に考えて船を操る者水夫が最低二人はいたのは間違いあるまい。さらには官位で六位の役人であったと推定される人麻呂には、従僕もいたと考えるのが妥当であろうし、合わせて四、五人ほどが、この遺体を見ていることになるのではないか。
この場にいたのが、せいぜい四、五人くらいと考える理由は、人麻呂が乗っていたのが、そもそもその程度の人数しか乗れない伝馬船のような小舟だったと思うからだ。それは、狭岑の島の位置からの推定である。

【参考図版】  藤原倫実 「楽音寺縁起絵巻」に描かれた伝馬船
天慶年間(938~946)純友の乱の間に受けた護持仏薬師小像
の霊験と
恩のため楽音寺を創建した経緯を詞書と絵で語る
坂出市地図より
丸亀市周辺 GoogleMapより
丸亀市中津万象園内 中乃水門碑

現在は埋め立てられて陸続きだが、孤島であった当時でも、直線距離で3キロから4キロも漕げば、四国陸地側の現在の坂出市に、また9キロほどで丸亀市の適切な港に入り込める位置に狭岑の島はある。
澤潟久孝「萬葉集注釋巻第二」( 普及版 1950年 中央公論社 ) では、人麻呂の長歌の中にある「中の水門ゆ船浮けてわが漕ぎ来れば」の船を出した「中の水門」とは、当時那珂という場所が「和名抄讃岐国」の郡名 ( 現在の丸亀市域 ) として見られ、付近を流れる金倉川の河口に湊があり、そこを「中の水門」と称したと論じている。

金倉川河口付近の風景 中津万象園の近く

十人以上も乗れる船なら、沖が時化ていると判断すれば、讃岐国、四国陸地側の船を出した港にすぐに退避するだろう。沖へ出たものの波が高くて、3キロから4キロほど引き返すのさえ危ないのは、よほどの小舟であるとしか考えられない。
そして、
「【原文】海を恐み行く船の梶引き折りて」 
【意訳】海が恐ろしいので、漕ぎ出した船の進路を島側に曲げて
とある。
慎重な行動をとり、狭岑の島に緊急避難しているのだから、それはとりも直さず、何かがあってはいけない重要な客人を乗せている=人麻呂は尊い人、ということを意味しているだろう。このことだけでも、人麻呂罪人(流罪)説は否定出来るかと思う。
しかし理解できないのは、そもそも、時化の兆しが伺われたであろう海へ、なぜ小舟で漕ぎ出す必要があったのか、ということだ。何処へ行こうとしていたのか。狭岑の島で全く偶然に、水死人に出会ってしまったのか、そこに大きな疑問がある。

🔳 海難事故の行方不明者を探索していた

荒唐無稽な想像ではあろうけれど、こんな推理をしてみた。
先ずは人麻呂を含む一団(十人ほどか)は公務で移動しているのが前提だ。人麻呂が官位は最上位であろう。随行員はさらに低い官位の官人であり、二隻の船を使っている。万葉集中の高市黒人の歌「旅にしてもの恋しきに山下(やまもと)の赤のそほ船沖を漕ぐ見ゆ」(巻3-270)に詠まれている船が参考になろう。

ところが前日に相当海が荒れて、うち一艘が四国陸地側に着岸停泊しようとしたが出来ず、海難事故を引き起こす出来事があった。それにより、人麻呂の公務随行員が行方不明になっていた。人麻呂には職責上、救助、または生死確認の責務があった。そのため、一夜明けて小舟を出して辺りを捜索しようとした。
地元の水夫たちは駆り出され、しぶしぶまだ静まらない海へ漕ぎ出したのかもしれない。水夫たちには、遺体が流れつくなら狭岑の島、という経験からの知見があって、その海域へ向けて進んでいたのではないか。しかし、海の荒れはまだ続き、捜索中止、急遽狭岑の島に避難したところ、その随行員が水死しているのを見つけた。
という想像である。

  妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや
               柿本人麻呂  ( 巻の二 221 )

  沖つ波来寄する荒磯を敷栲の枕とまきて寝せる君かも  
               
柿本人麻呂  ( 巻の二 222 )

「万葉集」巻の二 221 222 短歌より

🔳 葬送に死者と食べるための野草であるうはぎ

長歌の後、添えられた人麻呂の反歌二首 ( 上掲の歌 ) を解釈しよう。先ず「妻もあらば摘みて食げまし」は、私にはこういう意味だと感じられる

◆  あなたの妻がここにいてあなたの弔いをすることが出来たなら、何も整えることは出来ない島なので、せめて山の野のうはぎを摘んで来て、あなたとの別れの饗 ( あへ ) の場を飾ったのでしょうが、その妻はここにはおられないので、うはぎは何に使われることもなく空しく盛りをすぎてゆくことです。

上に饗 ( あへ ) の場、という形容を使って示したが、これは文献的裏付けのある推理ではない。荼毘に付す遺体を前に、飲食 ( おんじき ) をする儀礼的風習があったのではないかと想像したのだ。
今日、西日本のある地域では、仏教の葬儀において、立ち飯 ( は ) といって、あの世へ亡き人が立つ前に、亡き人もともに食べるという思惑の上で、この世での最後の簡素な食事をする儀礼がある。これは私の推測に留まるけれど、そういう考え方が古代にもあったのではないかと考えて、上の記述に饗 ( あへ ) の場と表現した。

人麻呂の胸中を占めていた思いは、
( この人は、一期の姿を妻に見せることも叶わず、旅の空の下に、哀れに朽ちてゆく。言ったところで栓もなく、叶わぬことながら、妻がここにいたならば、別れの饗 ( あへ ) —弔いの儀礼―をすることもできようものを )
というものだっただろう。
私には「あなたが妻といたなら、二人で摘んで食べたであろううはぎ、その狭岑の山の野の上のうはぎは、盛りも過ぎてしまいました」といったいわば安穏とした気分の歌としての解釈はできない。

🔳 水死者は全く見知らぬ人ではない

長歌短歌のこの一連の表現を見ると、人麻呂には、水死者が自分と同じく遠い処から旅をして来た人だとわかっていた感じがする。また名前もわかっているが、あえて明らかにはしていない気もする。
それは、全く初見の人を唐突に見たとしたら、たとえば「名も知らぬ人ゆゑえせで( ※えせではどうにもならずの意 )」といった表現になるだろうと思うが、そんな言い方ではないからだ。顔、名前くらいは見知っているのだろう。
また、家を知っていれば、自分が知らせにゆきたい、という親身ととれるニュアンスの表現になってもいるのにも目が止まる。ただこの「家知らば行きても告げむ」という表現の類歌は「万葉集」の中にはあり、それ等の歌に全てこの見方が当てはまるかは、検討しなければならないとは思うが。

長歌の中の「妻知らば来も問はましを」という表現も、妻が待つ家庭の状況を知っている言い方に感じられる。
やはり、溺死していたのか、という落胆がこの歌の背後に漂ってはいないだろうか。人麻呂が見たのが、何日も海を漂って、ついにこの島に流れ着いた水死体 ―つまりどこの誰とも知らない人― とは思えない。
水死体は長い時間がたつと、見るも無残に膨れ上がるもの。私の身内に船員がいて、航海中に見た水死体のそんな様子を、その身内から何度も聞いた事がある。
リアルに水死体の状態を語るのは人麻呂の作歌スタイルではないから、たとえそういう無惨な姿であったとしても、そのままを表現しなかったとは思うが、長歌短歌からは、まだ生けるが如くの様子を留めている水死体を思う方がふさわしい。つまり、まだ溺死後どれほどもたっていないことを思わせる。

🔳 「万葉集」においてこの歌は、人麻呂の臨死自傷歌群の直前に配置されている

この歌が詠まれ、「万葉集」に採られた理由。この問いは難題である。不慮の事故による死者が悪霊となり障りとなるのを恐れ、魂鎮めの役割を持っていたという考え方は、挽歌の性格を探る論考の中心にあると言ってもいい。
私が思うのは、懇ろに葬ることと、挽歌を添えることは同じ心情から発するものであったということだ。人麻呂にとっては、この水死人は、公務上の随行員であり、ことに懇ろに葬る必要があったのだろう。
死者がこの世を去るときの胸中の念を思いやること、それが慰霊の営みであり、自ずから湧き出づる人の情であるのは、古往今来変わらないはずだ。

この歌が現場で詠まれたかどうかと考えれば、島から戻ってのことと思う。
しかし、「沙弥の山野の上のうはぎ」は作歌の上での文飾ではなく、現地での強い印象があって歌に使われたと思う。
曇天の重い雲の下の島山に咲き過ぎようとする無味乾燥なうはぎは、儚いものの象徴として、人麻呂の目を射たのである。そして、人麻呂自身の妻恋ひの歌という性格も帯びていよう。
( ああ、私もいつこのような災難に遭遇するやもしれない身だ。私に行旅途中の死という運命があるとすれば、そのとき妻はどれほど悲しむだろう、私は幸いに命を保っている、一刻も早く妻に会いたい )
そんな気持ちが裏ににじんでいる歌と読める。
それが、「万葉集」編纂の上で、行旅途中の死の状況を伝える、いわゆる人麻呂の臨死自傷歌群のすぐ前に配された理由にもつながっている。

🔳 土地の霊力による浄化を希求する

そして、結びの一首「沖つ波来寄する荒磯を敷栲の枕とまきて寝せる君かも」は、一言で言えば、死を荘厳している表現だろう。最後の息を吐き終えて、いまは安らかにころ伏していることを、厳かに表現している歌だ。そして長歌冒頭の部分に対応させていると言えるだろう。

玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神( かむ )からか ここだ貴き 天地( あめつち )日月と共に 足り行かむ 神の御面( みおも )と 継ぎ来たる 

「万葉集」巻の二 220の長歌冒頭部分

意訳すれば、
讃岐の国の風光明媚は、見れども見れども飽きがこない神々しさで、天地も日月も貴く満ち足りいて、それはあたかも神のように美しい顔を備えていると語り継いで来た。
ということになる。
あなたは異郷の海に命果てたけれども、その亡骸は導かれるように霊験あらたかな島に終の臥所 ( ふしど ) を得て、いま讃岐の神々しい風土に抱かれている。遠い母郷の妻の愛と、この神々しい風土が、あなたの魂を救済しているのですよ、と宣る ( ※ 広く知らせる。ひろめる ) ことで、土地の霊力を讃え崇め、禍々しい出来事を浄化するのが、人麻呂がこの歌を詠んだ理由であるだろう。

                                         令和6年2月                              瀬戸風  凪
                                                                                               setokaze nagi


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