ワタクシ流☆絵解き館その244 青木繁、白馬会出品作こぼれ話。
🍀 1. 青木繁「大穴牟知命」 ( 出品時は「日子大穴牟知とウムキキサカイ売女 ) は、発表時話題にもならなかった
「大穴牟知命」は、青木絵画のうち、深い意味のこもったまぎれもなき傑作の一点と私は思う。「ワタクシ流☆絵解き館」の過去の記事で、細部にわたりその魅力を掘り下げて来た。
しかし、青木と言えば先ず誰もがその作品として知るところの、第9回展に出した「海の幸」の絶賛とはまったく対照的に、翌年の第10回白馬会展覧会出品時点での展覧会評で、この作品について評価しているものはないと言っていいくらいだ。
その理由の一つが、今日見る「大穴牟知命」のように、完成作とみなされるものではなく、製作途中での出品であったせいだ。どこまで、描かれ塗られていたのか、写真も伝わっていない。また今日伝わる完成作とは別の下絵を出した、という説さえある。
ただ「海の幸」もやはり半完成作とみなされたので、その条件は等しい。
下に掲げたのは、発表当時の展覧会評の部分。青木のこの作品について述べている。やや、からかいの調子がこもったものではあるが、当時の率直な感想として無視できまい。絵の背景すら理解されていない様子だ。酷評である。
🍀 2.青木の画風にこもる旧師小山正太郎の絵画観
1903年の第8回白馬展に出品し、白馬賞を受賞した青木の作品の記録が乏しいなかで、出品作のタイトルが「唯須羅婆拘樓須那」と記載されているのが貴重である。白馬賞の対象になりながら、発表後所在不明で、どのような絵だったのかわからない絵の手がかりになる。
評者は、多くの人にはよく理解できない絵だろうと言っている。つまりそれは、拘樓須那 ( 読みはクルシュ ナ ) =インド神話の英雄、の物語のどこかの一場面で、その解説が添えられなければ、どういう場面なのかわからない、ということを意味しているだろう。
「一意研究を事とし給ふ」という形容は、文化的教養を尊重している創作態度を言っているのだ。そして注目すべきは、評者はこの絵に、不同舎の匂いを感じているらしいことだ。
🔳 不同舎とは
不同舎は明治洋画勃興期の中心画家、小山正太郎が明治20年に創設した私塾である。画塾は第一線で活躍する洋画家を輩出した。やや後進に当たる黒田清輝が主宰した白馬会が、明るい画面から外光派と称されたのに対し、脂派とか旧派とか称された。青木は、上京後先ず不同舎に学び、東京美術学校入学とともに黒田門下となって、白馬会に出品するようになった。よって青木には小山正太郎は旧師である。
黒田の門下となった青木が白馬会に出品し、白馬賞を受賞した絵に、評者は白馬会色でなく、不同舎の画風の流れを感じているのはまことに面白い。
先ずは、不同舎の匂いとはどのようなものか、それをつかむため小山正太郎の作品を見、併せて青木の作品を並べてみる。
【上の絵「鐘子期(しょう しき)未来」の解説】
鐘子期は中国、楚の人。生没年未詳。きこりであったという。図柄の意味するところは私の浅学ゆえはっきりしないが、鐘子の友人の伯牙を描いているのか。漢詩「知音」に「鍾子期死するや、伯牙琴を破(やぶ)り絃を絶ち、終身復た琴を鼓せず」とある。その様子を描いた場面かもしれない。
1994年の「東京国立近代美術館研究紀要」に、蔵屋美香《明治期における芸術概念の形成に関する一考察》という正太郎の絵画観を語った次の文章がある。それを上に掲げた作品「鐘子期(しょう しき)未来」に当てはめてみることができるだろう。
この記述に、青木の「日本武尊」( 1906年 ) や「わだつみのいろこの宮」
( 1907年 )を重ねて思い浮かべれば、師の考えを創作の態度としていたと言ってもおかしくないと感じられる。
歌誌「こころの華」の美術展評者が感じた「唯須羅婆拘樓須那」の印象は、前述の二作品「日本武尊」「わだつみのいろこの宮」から感じ取れるような、まさに神話が髣髴 ( ほうふつ ) される魅力を持ったものだったと推察できる。
さらに小山正太郎の言葉を紹介した次の文章を読むと、たとえば代表作「わだつみのいろこの宮」に懸けた青木の創作の情熱の、思想的バックボーンになっているとさえ思われて来る。
小山正太郎は、指導者としての精力的な活動が主になってからは制作数は少ないという。しかし、小山正太郎は青木たち雄壮の門人に、このような考えを繰り返し述べていたことであろう。青木繁は、その思想の実践者であったというべきかもしれない。
絵に浪漫性を求めるという点では、日常風俗を題材の基点にした黒田清輝ではなく、旧師小山正太郎の方に似通うものが、青木の作品には見えて来る。下に、図柄、雰囲気の似ている両者の絵を並べてみた。
令和5年9月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?