「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展をめぐって

岡﨑乾二郎


先頃、板橋区立美術館で開催された 《東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村》展は、戦後沖縄にあった、(NHK日曜美術館で放映もされ話題となった)ニシムイ美術村の活動から池袋モンパルナスを捉え直す━━展覧会の構成でいえば、《第5章》の「沖縄・ニシムイ美術村」から《第3章》「戦後の池袋モンパルナス」へさらに《第2章》「池袋モンパルナスと戦時下の画家たち」へ遡る流れが核となる━━企画だった。

したがってこの企画の画期性はニシムイ美術村のユニークな活動を知らないと理解しがたいだろう(知っておくべきである)。ニシムイ美術村の活動のユニークさを通して、池袋モンパルナスのユニークさ=文化の可能性がはっきり浮かび上がる。こうして取り出された池袋モンパルナスの特殊性は展覧会《第一章》で紹介される「目白文化村」など落合周辺のデベロッパーによって開発された文化住宅街との比較でさらに明らかになる。

ではニシムイの活動とは何だったのか?

戦後米軍の文化政策に雇用された沖縄の画家たちが、その後首里そばの儀保町ニシムイ(西森)にコロニーを作る。彼らは米兵相手の肖像画を描き、米兵に絵を教え、米軍関係者は彼らの作品をコレクションした。(アート・コロニーと命名したのは米兵たちである)。(ただし今回出展されて作品の多くは必ずしも米兵向けのものばかりではない、その後の作品が多く含まれていた)。

従って、彼らの作品は進駐する米国人の視点に向けて形成されていると同時に、そこから折り返し自らの立ち位置を批評する視点を持ちえた。米軍との特異な関係をもったゆえに、このコロニーは沖縄の社会においても境界線の内側でも外側でもないボーダー(エアポケット)に存在していた。(内でも外でにも属さない宙吊りの際どさゆえの不安定な自由もそこに存在した)。

繰り返せば米兵たちとの交流で生活の糧を得ていた画家たちの仕事は沖縄社会の内からも疎外され、またもちろんその外側(米軍側)にも位置しなかった。その状況は画家たちを二重に疎外された位置に追いやったかもしれない。が一方で、文化的経験をもつこともなく従軍してきた、多くのアメリカ兵たちは、ニシムイの画家たちを通して初めて美術を知り、西洋美術史のなんたるかを教えられたという例も多かったのである。

「東京⇆沖縄〜」展のチラシにもっとも大きな扱いで掲載されている山元恵一「貴方を愛するときと憎むとき」はニシムイの画家たちの引き裂かれた立ち位置(この展覧会の意図)をよく示す。描かれた廃墟が米軍の艦砲射撃によるものであることは、画面中央のトルソを抉る空虚な穴(艦砲射撃による穴=いうまでもなく沖縄本島は艦砲によって砲撃された)に照準を合わすように重ねられた透明な目によってよくわかる。

一方でこの透明な目は画面の向うからこちらを見返しているようにも見える。その目は、画面手前に商品(あるいは美学生用の画題)のように陳列された品々を、まさにいま、絵画のなかに見ている観客の目と対抗し、告発しているようでもある。タイトルの「貴方を愛するときと憎むとき」は、こうした分裂した視線の構造を明確に示す(いやおうなく、靉光の「眼のある風景」1938 を思い起こさせる。池袋モンパルナスに住んでいた靉光の作品を山元恵一が見ていた可能性は高い)。

安谷屋正義にもこの逆転した視点は共有されている。いうまでもなく、安谷屋の《望郷》に描かれている兵士、つまり望郷の思いに佇むのはアメリカ兵である。

こうしてニシムイの画家たちから創出された、アメリカ兵に見せるため、つまりアメリカ兵の視線に向けて(あるいはその視線を分裂させ批評するべく)描かれた絵画構造はその後、真喜志勉(この展覧会には出展されてはいない)などの仕事に受け継がれている。

「伊波城跡の崖下に、大きな艦砲の穴が開いてて、そこを米軍がチリ捨て場に使ってたわけ。〜僕らはそこへ群がってちょうど今のフィリピンのスモーキーマウンテン状態でね、チリをほじくるとチョコレートのさ、ちょっと粉の吹いたものとか、缶詰とか、〜もう宝物の山だったね。」OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECT

 自身の少年期─戦後の沖縄の状況を語る、この真喜志勉の言葉は山元恵一「貴方を愛するときと憎むとき」に描かれた状況そのものである。真喜志は洗練されたポップアート的作風で知られていたが、彼の仕事も、沖縄に駐在する米軍兵たちに向けられていた、彼のポップアートは異郷でその存在理由を喪失し、疎外感を感じている米兵たちに見せること、その視線によりそうことで構成されたのだ。

がそもそもポップアートの核心は、実体(意味)から、その外観、見かけだけが引きはがされること、その剥離されたイメージがまとう、実体(意味)からの疎外感、空虚さにあった。そして、この空虚さが、視線の自明性を切り裂き、その批評、批判として機能する。であるならば、山元恵一から真喜志へ流れる仕事の系譜はポップアートの核心にまっすぐ到達していたといえるだろう。(真喜志勉の仕事は 大浦信行の「遠近を抱えて」などの仕事と同様に、荒川修作の絵画の強い影響下にあったことを明瞭にうかがわせる。が荒川の仕事がポップアートの以上のような構造を洗練させていったものだとすれば、真喜志や大浦はイメージと意味の乖離が、それを認識する主体の同一性それ自体が剥離されていく危機的な状況=たとえば天皇に同一化しようにもそれから疎外されてしまう、と無関係でないことをはっきりと自覚していたといえるだろう)。

前出のインタビューでポップアートの有効性を質問された、真喜志は「有効である」と答え、アメリカ兵たちに、自身の展覧会のマリリン・モンローの案内状を見せたとき、彼らが「マリリンが好きなのか」とニコニコしつつ予想した質問をしてきたので、「そう、マリリンMarilynはすきだけど マリンはすきでない(Not Marine)」と応答した、という逸話を例にしている。「マリンは好きでない」と聞いたアメリカ兵は(マリリンと聞いて、微笑んだのに)、顔を曇らせたという。この分裂した二重性、多義性こそがポップアートの有効性だというのである。真喜志の仕事にはつねにこうした構造が組み込まれていた。何よりもそれはアメリカ兵を帰属する集団から自由にし、自身の思考をはじめる契機となる機能をもっていたのである。一見、表層的な言葉遊び、ダジャレにも感じられるが、だとしてもこの多重性は、立場(主体)の分裂を促進し、すなわち批判的に機能する。

「東京⇆沖縄〜」展 は、外部と内部に政治的な分割を行なっている境界線にとどまり、そこにある視線(そして主体)の分裂を方法的に持ちえたニシムイの作家たちの仕事の特質がどこで可能になったのか?その契機を文字通りに、社会的(共同体的)合意の周辺に形成されたエアポケットとしての芸術家コロニーに見出し、そのニシムイに先行し東京、豊島区に存在した池袋モンパルナス(第3章)を取材する。実際、沖縄ニシムイの画家たち、山元恵一や南風原朝光も一時期、池袋モンパルナスに住んでもいたのである。

コロニーは境界線上にあり、境界で区切られた内側にも外側でも属さない(数学的にいえばそれは近傍である)。ゆえにコロニーは帰属を越えて、あらゆる人を受け入れ、場所を超えたネットワークをも作り出すだろう。この仮説は明確に述べられているとはいえないが、展示された作品、そのなかでも大きく扱われている焦点となる作品を見れば、明らかだともいえる。

その意味で「東京⇆沖縄〜」展の最大の見せ場=焦点は、前述した山元恵一の「貴方を愛するときと憎むとき」と山下菊二の「新ニッポン物語」にある。今回、これが同時に出品されている意味は限りなく大きい。

いうまでもなく「新ニッポン物語」は,米軍基地の内側からの視点で描かれた、戦後日本美術の中でも稀有な作品として知られている。

戦前、池袋アトリエ村周辺に暮らした靉光については上述したが、山下菊二も戦後、池袋アトリエ村周辺に住んでいた。そして山下菊二は(ある意味あ、靉光以上に)、山元恵一同様に、分裂する視点の二重性を組み込んだ批評的な作品で知られる。沖縄の美術家たちが持つことができた視線の二重性、分裂を山下菊二も方法として持っていた。

加害者(である地主)の視点からのみ了解できるように描いた「あけぼの村」はもっとも知られている。また「射角キャンペーン5月26日」(1960年)は砂川闘争を主題にした山下自身の絵を米軍が収めたフィルムをフレームとして構成する二重性において、山元らの仕事と方法的に通底している。山下において立川(東京)は沖縄であったということだ。同様に山下菊二の作品はわずかに先行したポップアートの方法論を開いたと知られる同時代のジャスパー・ジョーンズの仕事の可能性の中心を把握した上で、その方法をさらに批評的に展開したものともいえるだろう。

「東京⇆沖縄〜」展は、戦後の山下菊二たちの仕事をさらに遡って、戦前、戦時中の池袋モンパルナスに集った作家たちの活動を検証している(第2章)。注目されるのは、戦時中かろうじてヒューマニズムを貫いていたとみなされた新人画会の活動であり、また30年代後半からシュルレアリストたちが結集していた美術文化協会の画家たちの多くがモンパルナスに住んでいたが、特に福沢一郎たちが検挙されたあと、その美術文化協会の画家たちが共産主義との関連を嫌疑され、その嫌疑から逃れるための方策を議論したという生々しい記録も紹介されている。

こうして言論統制が激烈になった戦時中、一種隠れ蓑のように知識人たちの間でルネサンス研究が盛んになる。花田清輝や林達夫、獄中の共産党の元イデオローグ福本和夫の研究は知られている。ルネサンスの泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンがもてはやされたのもこの時代である(小林秀雄、花田清輝、安吾、太宰など)。興味をもたれたのもヴィヨンの分裂した行状である(それはたとえば『矛盾のバラード』の、「自分は 自分の故郷にいるとき、もっともそこから遠くにいる」という行などに明らかである)。こうした関心の移行は前述した、美術文化協会周辺のシュルレアリスム画家たちも同様だった。

 シュルレアリスムの画家であった杉全直が1942年制作した「沈丁花」はこの文脈で明瞭で理解できる。

この絵がまず参照しているのがピサネロの代表作「エステ家の公女」であることは明らかだろう。

 杉全直はピサネロを基本として(無数の花を背景に横顔の少女)、さらに少女の背後には岸田劉生風の林檎を描き(少女の前には逆さまに落下するカーネション)、岸田劉生(服装は藤島武二)の意匠をも想起させている。

ピサネロの仕事の重要性は、特にこの頃、多くの芸術家たちに認識されていた。先立つ1936年にジャン・コクトー(彼はシュルレアリストとみなされていた)が来日するが、そのとき上映された「詩人の血」(1930)のエピグラフには、この映画を、ピサネロをはじめとするルネサンスの画家たちに捧げるというフレーズがでてくるからである。彼らこそ紋章と謎に身を捧げた芸術家たちだったとコクトーは記している。

杉全直の絵画が決して熟れたものであるとはいえないとしても、この杉全(このとき28歳)の例は、画家たちがかなり選択的そして戦略的(自覚的)に主題や技法を選び、それに没入していたという事実である。それは絵画を通俗的意味から遠ざけ、その真意を保存する=隠すという戦略だったといってもいい。いわばコクトーが「詩人の血」で示唆した方法そのものである。ほぼ同時期に、タイトルだけは反米的だが、内容は徹底したシュルレアリスムの絵画を描いた24歳の山下菊二の「人道の敵米国の崩壊」(1943)に、意図的にタイトルと作品の結びつきを切り離し、作品の意味を隠蔽し撹乱させる戦略は明らかだった。

沖縄出身の詩人、山之口貘は池袋周辺に住んだ(少なくともその中では)最大の詩人だったが、「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」では、美術家以外では例外的といっていいほど大きな扱いがなされている。カタログで引用されている「会話」がその位置づけの重要性を適切に現しているとは思えないが、山之口貘の詩の数々がある意味、この展覧会が焦点を合わそうとした芸術家コロニーのあり方をもっともよく現しているというのは合意できる。(山之口貘、朗読

山之口の詩につねにあるのは、帰属する場所も財産もない不安定な生活をぼやきながらも受け入れるユーモアであり、一方で、安定した場所、どこかに帰属することに憧れているように見せかけつつ、実際は、生活が安定し固定されることを嫌い逃れようとする意固地である。 

(この点において、山之口貘の詩はフランソワ・ヴィヨンの精神と通底している 。山之口貘の発見者であり最大の理解者であった金子光晴はアルチュール・ランボーが再発見したフランソワ・ヴィヨンのように山之口貘を発見し賛嘆したのである)。

貘にとって《居心地の悪さ = 不安定であることを感じられること》が、自由の証なのだ。コロニーとはその不安定さの上に存在するエアポケットのようなものである。



※おまけ

本展のレビューという名目で書かれた、梅津庸一さんの文章を読んだ。

https://bijutsutecho.com/insight/14030/

驚くことに、梅津さんによれば、この展覧会『東京⇆沖縄 〜』は〈「日本近代洋画」におけるもっとも豊穣な時期〉を紹介する展覧会だそうだ。「日本近代洋画」という言葉にびっくりするが、このレビューのほとんどは、本展と関係のなさそうな、梅津さんのもつ「日本近代洋画」史観を、高言のたまうだけの恰好になっている(おそらく、梅津さんはどんな展覧会を見ても同じことを書くのだろう)。梅津さんの論理展開は 以下の箇所に集約的に現れる。

思い返せば19世紀末に突如、日本にもたらされた西洋画なるものは、めちゃくちゃな順番で様々な様式を早急に受容し醸造された密造酒のようなものである。だとすればそれが順当に素晴らしいものであると考えるほうが不自然である。

そしてしばしば、現代美術と近代洋画は断絶していると言われるが、そんなこともないだろう。断絶しているのはたんにコミュニティ上の問題だったりもする。意識的な切断も接続もなされない日本の現代美術では、いまだに近代洋画のパラダイムが続いているのかもしれない。

日本の近代洋画が、「めちゃくちゃな順番で様々な様式を早急に受容し醸造された密造酒」 という仮定は大雑把すぎて了解不可能だが、「だとすれば」 のあと(つまり、それが順当に素晴らしいものであると考えるほうが不自然である)はゆえに無視もできる。以上は仮説上(だとすれば)の展開なので推測にすぎないのだから。が、そのあと、梅津さん自身が日頃実際に実体験しているだろう、日本の現代美術が、この仮説としての近代洋画のパラダイムの延長だと書いているから、梅津さんが日頃見ている(彼自身が制作している)現代美術は「めちゃくちゃな順番で様々な様式を早急に受容し醸造された密造酒 」だという実感があるというわけだろう。その実感から逆方向で延長して、19世紀以来の日本西洋画受容史が「めちゃくちゃな順番で様々な様式を早急に受容し醸造された密造酒」だとする仮説が導かれているというわけだ。すなわち、このコロニーで「めちゃくちゃな順番で様々な様式を早急に受容し醸造された密造酒」にすぎない、とは梅津さん自身をとりまく状況についての実感なのではないか? これが梅津さんの論を支える確信なのだろう。

同じく 文中で繰り返される、団体展文化への言及も梅津さんの実感だと考えれば理解できないこともない。

たとえば梅津さんは 杉山直(いうまでもなく杉山直という作家は出品していない。杉全直の間違いだろう(註─ 本稿を発表した1日後の2018年4月22日22時現在ですでに杉全直に修正されている。─  梅津さんは杉全直の仕事を今回はじめて知ったのかも知れない─この原稿を校正したはずの美術手帖編集部も同じく知らなかったかのだとすれば恐ろしいことである)の《沈丁花》が「山本文彦らの「絵づくり」と地続きであると言える」と断定している。地続きが何を意味するかわからないが『山本らの「絵づくり」と地続きである』は、文法的には、山本の仕事の延長に杉山(全)直の仕事がある、ということになろう。実際の作品の制作年代順序と逆である。つまり現在の仕事を過去に投影するという意味での地続きだろう。この論法でいえばどんな作品からも延長して杉山(全)に繋がると言いつのることはできよう。梅津さんは要するに杉山(全)の仕事を梅津さんのよく知る山本と似ている(技法においても)と実感したということだ。山本という画家がどれくらい重要な作家なのかを私はわからないが、その重要性はおそらく同じく、本展と関係なく、梅津さんの批判の労力の多くが注がれる団体展といわれるものと関係しているようだ。いずれにしろ、梅津さんの歴史観は「だとすれば」という想像、仮説にすぎず、つまりは団体展(そしてその一つの中枢にいるという山本という画家)の影響力の大きさを梅津さんが実感しているということの延長としての想像にすぎない。これは梅津さんの実際の経験だから彼にとっては真実なのだろう。すなわち梅津さんの仕事は梅津さんの実感として団体展、そしてこの山本文彦さんの仕事と地続きでつながっているということだろう。そこだけは仮説ではなく梅津さんの実体験なのだろう。山本文彦さんの仕事を画像検索してみると、確かに梅津さんの仕事と地続きのように見えてくる。

一般論として歴史的倒錯とはこのようなものである。たとえば、ある作家たち(あるいはその集団)が自分たちの仕事の正当性、必然性を確信できないとき、すなわち真正性(authenticity)を自ら確信できないとき、たとえば、たまたまいた場所のなりゆきでそれを作ったにすぎないとしか自覚できないとき、この人たちは自分たちのした仕事が成立した理由を、たまたま自分がいた場所によるものだ、と責任をその場所に還元してしまおうとする、ということである。すなわち現在、自分たちが直面している問題は、過去に遡って、すでにあった問題なのではないか?その場所が悪いのではないか?と考えてしまう。

がこれは投影にすぎない。密造酒という言葉は、私には唐突すぎてしか聞こえなかったが、それを実感している人間がいるということはこのレビューのおかげでわかった。おそらく自分たちの仕事が密造酒にすぎないのではないか、というのは著者の切実な問題、実感なのだろう。が、この認識で歴史は構成できない。また正当に作品を分析することもできないだろう。

私が知る、まともな画家で、めちゃくちゃな順番で様々な様式を早急に受容した人など、一人もいないからである。



 


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