愚かな風

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岡﨑乾二郎




 ディランがアカデミックな賞をもらったのは、今回がはじめてではない。もっとも有名なものは一九七〇年にプリンストン大学でディランに名誉学位が授与されることになったとき。外野の反応は今回よりずっと小さいが似たようなものだった。いや反撥(というより嘲笑)はディランを聞いてきた人々の側にこそ起こった。まさに“How does it feel?"(どんな気分かい?)。

 逡巡するディランをプリンストン大学に結局赴かせることになったのは、デヴィッド・クロスビー夫妻が彼の背中を押したからとも言われてもいるが、ディランは後に、この事件のドタバタしたやりとりによって新しい曲のアイデアが生まれてしまい、その確認をするために授与式に出席することになったとも回想している。

せみの鳴く日(Day of the Locusts)」と訳されているこの曲の最初は蟬の声らしき音響から始まっているから、Locustsを蟬と考えるのは決して誤訳ではないだろう。実際に授賞式のあったその年の七月は十七年ぶりに蟬が大量発生し、授与式の会場は蟬の声で包まれていたという。

 にもかかわらず、Locustsという語が指すのは通常ならば蟬ではなく、イナゴである。ナサニエル・ウエストによる同名の小説が「イナゴの日」と訳されているように(ディランの曲が同名だとしても、ディランの曲はむしろウエストの小説のイメージ源である、たとえば旧約聖書レビ記から、まったく別のイメージを引き出している)。

 Locustsは旧約聖書に頻繁にでてくる存在であって、自然力あるいは大衆の自然発生的暴発など制御を超えた力の包囲を意味してもいる。著作権上、歌詞の部分引用もできないそうなので(なんたる愚かなこと!)要約すれば、この曲で歌われているのは以下のような情景である。

 七月の酷暑の中、ディランの授与式が行われた会場は黴臭く、湿気と熱気で蒸せ、墓の中のようだった、そこに「甘いメロディ(sweet melody)」——Locustsの鳴く声が聞こえてきて、彼をとりまく空気は一挙に冷え冷えとし、彼を外の世界へ連れ去ってくれた、というものだ。

 この曲が暗示するのは、あきらかに伝統を誇る大学、アカデミーも含めて人間の歴史そのものがいかに小さく閉じた(墓の中の時間のように)限界の中にしかないという示唆=批判である。外にははるかに広大な自然の時間がある。

 ゆえにウエストの作品よりも、この名曲の曲想はシェイクスピアの「ソネット73」を明らかに想起させる。初冬の廃墟になった教会、外気に晒された寂れた聖歌隊のベンチ。かつて、ここで(小鳥たちの声に喩えられ)歌っていた聖歌隊のこどもたちは、もう世を去り、いまさっきまで、本物の小鳥たちが歌っていた(“where late the sweet birds sang.")。ディランが聞いたのは、この声(「甘いメロディ」)である。ディランはこの小鳥たち、蟬たちの声にこそ声を重ね、コーラスとして、今は共に歌っているというわけだ。人間の文化(伝統を誇るアカデミズム)がいかに小さな世界の中の短い時間にすぎないか。今は、彼はもうとっくに外に出て、涼しく爽やかな空気の中にいる。この曲に感じられるのは、歴史的権威の外にある、明朗な清々しさである。

 彼のノーベル文学賞受賞でまず思い出したのはこの曲だけれども、その後の愚かな議論は辟易させるものだった。が、プリンストン大学の名誉学位授与のときを考えれば、ディランがこうした馬鹿げたプロセスから何も感じず(インスピレーションを得ず)、つまり、何も創造しないはずがない。いったいどういう曲を書くだろうか?とも当然、考えてしまう。いや、もうそれは発表されていたのかも知れない。

 それを想像してみる前にもうひとつノーベル文学賞発表後に起こった、辟易する議論のひとつを取り上げたい。ボブ・ディランがイスラエルの軍事政策の支持者であるという非難である。その根拠として挙げられているのはアルバム『インフィデル』(一九八三)に収録された「近所のいじめっ子(Neighborhood Bully)」という曲である(この非難はノーベル賞授与が確定したあと、Electronic IntifadaというサイトにのったMichael F. Brownによる告発記事による。彼は、おそらくその五ヶ月前にTimes of Israelがこの曲を親イスラエル〔つまり俺たちの側〕の名曲だと取り上げた事実によって、この曲を非難したということが実際のところだろう)。

 けれどディランの歌を長年聞いてきた人なら誰でも、この曲を聞けば、この曲がかつての名曲「戦争の親玉(Masters Of War)」を受けていると理解できるだろう。歌詞の引用はできないので(インターネットで参照していただきたいが)、歌詞のおおよそを記せば、この曲で、かっての戦争の親玉は、今やいじめないといじめられるという被害者妄想をもった近所のいじめっ子に矮小化されている。したがってこの曲はディラン自身のつくった曲へのパロディ、はるかに愚かになったガキたちが戦争を起こす時代になったことへの幻滅を示してこそいるが、近所のいじめっ子というタイトルに見てとれるように、イスラエルの立場を擁護しているようには思えない(が、正直言えば、この曲をはじめに聞いた当時、このますます愚かになっていく時代の推移を反映しようとしたせいか、曲自体が矮小な曲になっていると感じたものだった)。

 いずれにせよノーベル賞が引き起こした、こうした知ったかぶりの議論にはうんざりさせられたが、ディランの作品を聞き、評価し、影響を受けてきた人間たちにとってはどうでもいいことである。きちんと聞いたことのない人間がこうした愚かな議論に煽動される。FACEBOOKを通して、知り合いの、リベラルであり、また詩や音楽や芸術の専門家であるはずの(大学で教えてもいる)アメリカ文学者や詩人たちがこうした反ディラン・キャンペーンにのってしまうのを見て、これがPostTruthと呼ばれる状況だろうと、呆れもしたが、であれば、このPostTruthで生まれたトランプ大統領の時代に想起すべきは、ディランが一九七五〜七六年に行った、「ローリング・サンダー・レヴュー」という自力によるツアーシリーズである。ツアーと並行してディランは映画『レナルドとクララ』を制作し、また「ローリング・サンダー・レヴュー」の長いコンサートツアーの中の、ある一日(一九七六年五月二十三日、ヒューズスタジアム、フォート・コリンズ)はテレビ(日本でも)放映され、現在でもYouTube(削除されなければ)で見ることができる。一九七六年当時この番組を見たときの強烈な印象は忘れられない。

 仮設舞台——舞台の後ろにはディランの描いた大きなペインティングが無造作に張られている。ディランをはじめメンバーはみなパレスチナのスカーフ、ラスト・カフィーアをかぶっている。ジョーン・バエズが着ているのはクルドの民族衣装である。

 放映時に演奏された曲名を順番にのべよう。タイトルバックに流れるのは「はげしい雨が降る」、続いてプロローグはリズミックにアレンジした「風に吹かれて」だが、注目すべきは、そのあといったん仕切り直し、ウディ・ガスリーの名曲「ディポーティズ」(追放者)から歌い始める、一連の曲の流れである。

 「ディポーティズ」は、第二次大戦後期から戦後にかけてのひどい労働力不足で、カリフォルニアの農園はメキシコからの出稼ぎ労働者を大量に導入していたが、一九四七年の収穫の頃、法律が変更されメキシコ移民は強制送還されることになり(強制送還される不法移民は収穫まで働いたにも拘らず賃金を支払われることもなかった)、翌一九四八年一月二十八日に多くの強制送還者をのせたメキシコ行飛行機がロス・ガトス峡谷に墜落する。新聞記事には死亡した乗客三十二人中四人のアメリカ国籍の白人の名が記されただけで、残り二十八人の犠牲者はただdepotees(追放者)二十八名と記されていただけだった、ウディ・ガスリーはこの新聞記事に衝撃を受け、この曲をつくったのである。

 この曲の次に「あわれな移民」、続いて、国境を越える移民たちが一時的に隠れる場所を歌った「嵐からの隠れ場所」、劣悪な労働条件で搾取されるだけのマギーズ農園ではもう働かない、と歌った「マギーズファーム」が次々と歌われる。気づくとステージバックのディランの絵画には、当時勃発していた第五次中東戦争、レバノン、パレスチナをめぐる人物やサインが描かれていた、のだから、このステージの意義は明らかだろう。

 このディランの活動史上もっとも重要とみなされるコンサートツアーを覚えている人間は、ディランが親イスラエルとは決して言わないはずである。

 ディランは現世的な都合(権益)で決められたにも拘らず、あたかも歴史的起源をもつかのように騙る国家秩序(その具体的現れとしての国境)に振り回され、移動を強いられ、利用される移民たちを、メキシコ国境でいまだ続くアメリカ国内問題と重ねて、歌っているのである。が、ゆえに移民は所詮、歴史的アリバイを騙っても目先だけの区切りにすぎない政治的秩序には結局は束縛されない。続いて歌われる“ I’m one too many mornings/And a thousand miles behind"がこの流れをさらにひとひねりして、高みにあげる。一夜の和解(恋愛)を終えれば、再び、われわれは標識と境界線に縛られた現世に戻らなければならない、この束縛がつくりだす、さまざまな交差点、を生き延びていくことこそ、われわれの背負う十字架である。この(歴史を騙った)拘束の中で結局、君はこちら側で俺はあちら側であるということは逃れられない。けれど、われわれは、たくさんすぎるくらいの朝を迎え、千マイルも歩いてきたそういう人間である。だからこそ、きっと、またもうひとつ余分な朝を迎えることができるのだ。“ I’m one too many mornings/And a thousand miles behind"、いまだ訪れない、このもうひとつ余分な朝(それを持つのが人間である証だ)までも分類され、支配されることはない。われわれ移民は、このいまだ訪れない、もうひとつ余分の朝の中にこそ棲んでいるのだ。

 こうしてディラン知らずの権威主義者たちの愚かな議論によって、筆者は「ローリング・サンダー・レヴュー」コンサートを思い起こし、トランプ大統領より、千マイルは余分に歩いてきたような気もして、まただから、いつももうひとつ余分な朝が迎えられるような気もしたのだった。ディランが、ノーベル賞授賞式で発表された彼自身のコメントで告白した通り、マッス相手の情報煽動(PostTruth状況)を牛耳る代理店やメディアの勘定に入らない、地球上のわずか五十人いるかいないかの、余分な人たちのために曲をつくってきたのは確かである。


*よく知られているようにローリング・サンダー・レヴューは、まだレコードを出す前だったパティ・スミスとそのグループのクラブでの演奏にディランが衝撃を受けたことがきっかけになっている。ディランはパティとの共演を望んだが、パティは断った。がディランはパティ・スミスの毅然とした姿に大きく影響され、長い間中断していたコンサートツアーを再び始めたのである。ノーベル賞授賞式でパティが(今度は断らず)、途中で言葉を失って中断しながらもローリング・サンダー・レヴューのテーマ曲でもあった「はげしい雨が降る」を歌ったとき、われわれも感銘のあまり、言葉を失ってしまったのは当然である。われわれは何千マイルも歩いて何を見てきたのか?


(初出 『現代詩手帖 2017年2月号【特集】ボブ・ディランからアメリカ現代詩へ』)


★「ディランの頭蓋を開ける─ディランの思想、夢を覗く」 初出 『現代思想2010年5月臨時増刊号 特集=ボブ・ディラン』(初出時タイトルは『ディランの「思想=夢」を開ける』)は以下に公開されています。

ディランの頭蓋を開ける─ディランの思想、夢を覗く



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