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競争しないアメリカの高校生

アメリカの公立高校の教壇に立つようになって、一番感じるようになったことは、日本と比べてアメリカの高校生は、友達と比べたり、競い合ったりしないということです。我が道を行く。マイペースです。

例えば「すでに何人の生徒がこの課題を終えています。終わっていない○○くん、がんばって早く終えましょう!」といった類の発言をしてみたところで、全く意味はありません。「え?○○は○○、僕には関係ないよ。」そうした反応がストレートに返ってきます。たしかにそうです。関係ありません。

それにしても競いません。無関心というわけではありませんが、他人を必要以上に意識しません。マイペースなのです。なので、各生徒のレベルを先生が見極め、その子の到達可能なゴールを設定し、そこに到達したときの達成感を経験させていかないと、生徒は授業に集中しません。

なぜ、そうした子供ができあがるのでしょうか。

日本の一律主義的な教育が、アメリカには存在しないからではないかという結論に行き着きました。私が暮らす地域では、小学校低学年から徐々に、授業がレベル別になっていきます。そして、中学生になると、完全に国語、数学、理科、社会、外国語、選択科目(芸術)の全教科がレベル別に分かれます。そのため、全科目一緒の友達などいません。そもそもクラスルームも日本でいう担任もいません。

各生徒が、自分の時間割に沿って授業毎に教室を移動します。日本は先生が教室を移動していきますが、アメリカは生徒が教室を移動していきます。高校になると、さらに学習レベルが3つ程度に分かれ、加えて選択科目も多岐にわたり、まるで大学のようです。

日本には良くも悪くも「受験」があり、自分の総体的な位置がわかります。また、学校では中間や期末試験が一斉にあります。教科書や参考書もあり、一人でも学習しやすい環境にあると言えます。

しかし、アメリカでは、全科目がレベル別選択別のため、日本のように、全校生徒が一斉に勉強し、競って試験に備えることがないのです。各自が各々のカリキュラムにしたがって勉強しているため、競争原理が働きにくいのです。うちの娘が、「アメリカでは、アリとキリギリスの話は通用しないんだよ。」と言ったことがあります。アリはアリ、キリギリスはキリギリス、どうして比較する必要があるのかと。

さらにアメリカの場合、日本のような暗記型教育ではありません。小学・中学生のうちから、社会科は資料を渡され、それを分析して小論文を書く試験が出ます。なかなかツボを得た内容で、自身がはるか昔に経験した、国立大二次試験を思い出すほどです。

競うことと努力することは違います。では、アメリカの学生は、何をインセンティブにこつこつ努力するのでしょうか。そういう問いかけをすること自体、私は日本型の競争社会に毒されているのかもしれません。

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