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アメリカの教育のアカウンタビリティについて

この間、公立高校で代数幾何IIの授業の代行仕事をしてきた。昼休みに、日本語授業を担当する日系人の先生と雑談する機会があったのだが、先生は、日本の学校にはアカウンタビリティ(説明責任)がないと言う。教育制度やカリキュラムを決める際の意思決定過程で、地元コミュニティに暮らす市民が声をあげる場所がない。だから、政府が一方的にカリキュラムを決めてしまい、いつまで経っても教育が変わらないのだと。

Accountability(説明責任)やTransparency(透明性)については、開発援助分野で仕事をしていた頃、議論してきた事柄だ。また、政策の意思決定過程については、博士論文を執筆していた際、アメリカ政府が行う食糧援助政策の意思決定過程について研究した時期がある。その時、日本とは政策の意思決定にかかわるアクターが随分異なると痛感した。そんな自身の過去の経験もあり、教育という分野でも同様のことが問題となっていることに対して、妙に納得してしまった。

その先生に、自治体(County)教育委員会の公聴会に参加してみることを薦められた。アメリカの場合、全国一律の教育制度や法制が存在せず、州レベルで行われる。State(州)の下にCounty(自治体)があり、その自治体毎にSchool District(学校区)がいくつもある構図だ。そして、自治体毎にあるBoard of Education(教育委員会)が教育の意思決定機関であると言える。つまり、非常に分権的な制度であり、事実上の教育制度は州、さらには自治体、学校区ごとと考えてよいのだ。なので、教育委員会の公聴会に出席すれば、どのようにコミュニティや市民が声をあげ、駆け引きが行われ、教育の意思決定がなされるかわかるのだ。その過程で、徹底的に説明責任も透明性も問われていると、上記の先生は言う。地元の教育委員会から月に1回か2回、保護者宛にメールが届き、教育予算の承認や教育委員会トップ人事などのお知らせとともに、公聴会についてのお知らせもある。

私が勤務する自治体は、アメリカ全土を見渡して、稀に見るほどうまく機能していると思う。なので、それだけを見て、アメリカの教育はすばらしいとか言う気は毛頭ない。しかし、なぜうまく機能しているのか、代行教員という枠を超えて、いや高校生の子どもを持つ親として、観察、分析する意義はあるように思える。

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