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現存しない川 東京北区の「稲付川」を巡る

稲付川について

稲付川というのが東京都北区内にあったとのことで、いろいろ調べてみました。

稲付川(いなづけがわ)
稲付川は北耕地川(きたこうちがわ)とも呼ばれた水路で、石神井川の水を分けた潅漑(かんがい)用水でした。石神井川中流にある板橋の根村(現在の板橋区双葉町)の堰で分水されたので根村用水(ねむらようすい)または中用水(なかようすい)とも呼ばれていました。江戸中期・4代将軍家綱の時代に開削されたようですが詳しいことはわかっていません。

北区内の流路はほとんどが暗渠となり、下水溝になってしまいましたが、稲荷台(板橋区)の裾をめぐり、姥ヶ橋(うばがばし;環七通りの交差点名として残っています)をくぐって、現在の梅木小・清水小の脇を流れ、岩槻街道を過ぎたところで細分されて各村に導かれていました。その末はそれぞれ荒川(隅田川)に放流されていましたが、現在では北本通り(国道122号)の東側神谷3丁目地内に残っており、隅田川に接続しています。

川幅は2メートル前後の狭いものでしたが、流域の農家にとっては死活に関わる用水だったため、開設当時から利害の反する上流と下流の農民の間で争いが絶えませんでした。

明治5年の水争いでは、板橋の農民が総出で竹槍を持って村はずれの智清寺に15日間もたてこもって、姥ヶ橋に集まった上十条、稲付、赤羽、岩淵本宿、下、神谷の6ヶ村の農民と対峙しました。今にも血の雨を降らさんばかりでありましたが、東京府が仲に入ってようやく治まりました。また、明治9年には、根村堰の改修にからんで水争いが起き、板橋村など6ヶ村と王子村など22ヶ村とが対立して大騒動になりましたが、このときも東京府が仲裁に入って治めました。

北区HPより

現地に行く前に下調べしてみました

ネットの情報(主にWikipediaの「稲付川」の項目)を見ながらGoogleMAPで川跡のようなものを見ながら流路を想像してみました。
長さは大体4.5キロほど。流路と思われる道もあれば、開発により全く見当もつかない場所もあました。

全体像

左下あたりの石神井川から分かれて、環七を超えて隅田川(右上)につながるルート

実際に行ってみた

石神井川の向屋敷橋からスタート

向屋敷橋あたりから分水したとありましたので、そこからスタートしました。

中山道手前にある日曜寺、智清寺あたりまで川跡と思えるものは何もなくよくわかりませんでした。
向屋敷橋。石神井川にかかる他の橋と同じ感じ。


「むかいやしきばし」と読む
石神井川の下に下水道が埋設されているとのこと。つまり川そのものは下水ではないという事ですね。
橋から石神井川を望む
楕円部分の写真が下記ですが、この辺が川だったのかな~と思って進みます。
左側が公務員住宅
左側が都営住宅
石神井川と並行するように川跡を巡りますがこの辺は石神井川に向かって高低差がしっかりとわかります。

日曜寺あたりから川跡が見えてきた

お寺は古くからその場所にあるので、川の記憶を留めてくれていました。
日曜寺の入り口に橋の欄干(復元?)を発見
この門の手前に橋跡があります。
稲付川に関することは記載はありませんでした。

智清寺の境内を川が流れていた

智清寺の山門のところに稲付川に架かっていた橋(石橋)があります
これが石橋。智清寺の境内を横切っていたのですね。
石橋をパノラマ写真で撮っています
案内板にも稲付川について書かれています。

智清寺
(前半略)
 山門前にある正徳四年(一七一四)の石橋は、江戸から対象時代に使用された中用水に架けられたもの。中用水は、農業用水として石神井川の水を分水したもので、明治五年板橋町と下流の上十条村以下七ヶ村との間で配水を巡って争い、板橋の農民が当寺に立てこもった。同石橋は、昭和六十年度の板橋区登録文化財(史跡)に認定された。
      平成六年八月 板橋区教育委員会

知清寺にある案内板より(板橋区教育委員会)

智清寺から現中山道までいかにもな川跡

中途半端な道がある。川跡に間違いない。
中山道側から智清寺方面を撮った写真
道は途中で途切れる。奥の建物が智清寺になっている。
横切る道が中山道、上には首都高。

中山道を越えて稲荷台へ

中山道を越えて稲荷台、その先に環七通りにぶつかります。
手前が中山道、稲荷台方面に向かって撮った写真。結構無機質な都会的な寂しさがある。
中山道板橋宿の案内版、板橋宿は3つに分かれており、この辺は「上宿」と言うそう。
稲荷台。「台」とつくだけに高低差があります。この辺の川は深かったんでしょうね。

環七通り「姥ヶ橋」

姥ヶ橋はまさに稲付川に架かる橋名だった。

姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用されていました。姥ヶ橋には、誤って川に子どもを落して死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落としたという伝説があります。

北区HPより


稲荷台から姥ヶ橋へ向かうと、道にもなっていない流路の跡を発見


川跡としてはっきり残っているところに感動
橋跡も残っていました。
姥ヶ橋延命地蔵尊

この地蔵尊は、袈裟をまとい、右手に錫杖(しゃくじょう)を執り、左の掌に宝珠を載せ、正面を向いて蓮華座に立つ、安山岩系の石材を丸彫りした地蔵菩薩像です。台座には「享保九年(1724)甲辰天十一月吉日石橋供養」の銘文が刻まれています。向かって左側の堂内には石造の子育地蔵尊がまつられています。説明板の横には、道しるべでもある小型の文字庚申塔と地蔵尊の由来碑があります。像は、「姥ヶ橋の地蔵様」と呼ばれて親しまれています。

北区HPより


環七を南から北へ渡って行った川の続き。歩道橋とかではなく純粋に川跡の道へつながる階段。
環七通りと川跡の道は結構な高低差がある。
この辺は稲付の小径として散歩コースが設置されているようです。

姥ヶ橋以北はいかにも川跡っぽい

ここからしばらくは道も狭く、くねくねし、両サイドは小高い丘陵地となっており川跡ぽっさが残っています。

高低差があります。
右側の家は崖の際みたいなところに建っています。
川部分が谷の底みたいになっています。
傾斜地に家が建っていて、ここもこれから新しい家が建つようです。
パノラマで左右も込みで撮りましたが、わかりにくいかもしれませんが、川跡を中心に左右両方が小高くなっているのです。

水車の坂&游鯉園の坂

川(今は道)を挟んで水車(上のマーク)と游鯉園(下のマーク)という川魚料亭があったそうです。


水車の坂は坂でなくて階段でした。
こんな感じの水車小屋があったのでしょうか。
昔は階段ではなく馬も転げ落ちるほどの坂だった?

水車の坂
現在は石段(北区西が丘二-二十七-十二地先)となっていますが、昔はこの下に水車小屋があり、近くの農家が利用していました。水車に荷を運んできた馬が坂の途中から落ちて死んだこともあり、お稲荷さんと馬頭尊とが並んで立っていました。現在は稲付川も暗渠となってしまい、水車もありませんが、石段は西が丘から十条銀座を通って十条駅へ向かう通勤の人でにぎわっています。
 平成八年三月 北区教育委員会

水車の坂案内標柱より
見晴らしがよかったです。
こちらも結構な坂を上る途中に游鯉園の坂の案内標柱がありました。

游鯉園の坂
十条仲原の台地から稲付川(現在は暗渠 あんきょ)に下る坂です。大正時代から戦前まで坂下の川下にあった川魚料亭が游鯉園で、この坂の名前は、その料亭の名に因んで付けられた俗称です。明治の頃、坂下に水車小屋があり旧稲付村(ほぼ、現在の赤羽西・西が丘・赤羽南に相当します)の農家がよく利用していました。
 平成十八年一月 東京都北区教育委員会

游鯉園の坂の案内標柱より

武蔵野台地の際(キワ)まで来た

武蔵野台地を避けるかのように線路が伸びており、線路の左側は台地の際の部分で坂・階段・崖が多い
左側のフェンスの向こうは急な坂になっており、真法寺・香取神社へ行くことができる
法真寺。境内はかなり手が行き届いていて落ち着く雰囲気です。
真法寺山門の向いにある家々。かわいらしい平屋かと思いきや、ここはかなりの傾斜地に建っており、玄関が2階なのです。
真法寺に行く途中にある香取神社への入り口階段。急な坂を上ってきてさらに階段。ここは台地の際にあたる部分。
階段を上ってくると、普通に車が止まっていた。神社境内の裏側は崖のような感じ。
岩槻街道とぶつかる部分からやってきた方向に向いて写真を撮った。道路の拡張工事が計画されているのか。フェンスに囲まれており、この曲がりくねった川跡ももう数年すると見れなくなるかも。
岩槻街道からJR線の高架下へ川跡は続いている。川跡は歩行者・自転車用の通路みたいになっている。

開発により川跡に建物が建つが何とか当時を偲ぶことも

起伏のない平坦な土地へ
このマンションの下を流れていると思われる。
マンションを抜けると川跡を発見。橋跡の案内版も。
北耕地川=稲付川

西中橋跡
西中橋は昭和33年12月北耕地川に架けられた橋です。
平成3年3月に埋め立てが完了し橋としての役割を終えて撤去されました。
ここに西中橋を偲んで碑を建立いたします。
 平成3年3月 東京都北区

西中橋跡の案内板より
案内板があった道を進むと、川跡と同じように歩道橋が道をまたぐ。その先は稲田小学校と成立幼稚園があり、この敷地の境界線下を川は流れていると思われる。
小学校と幼稚園の境界線をたどるとまた道が出現。川跡が復活しているのだろう。

隅田川直前に開渠の稲付川を見ることができる

都営アパートへ突き当たるがアパートの間に細い道が続く。
川跡のしるしともいえる、車両止め。
最後のくねりを見せて、北本通りとぶつかる。
北本通りから隅田川方面へ向かって写真を撮りました。正面のフェンスの先に開渠部分が現れます。
水が溜まっています。溜まっているだけで流れていないように見受けられます。
地図上では隅田川に直接つながっているように見えますが、実際はつながっていない模様。
隅田川の堤防から川を見ます。川に架かっている建物が気になります。建物はボロボロの廃墟と化しています。川に沿って鉄を作る工場があるので、川の水を使っていたのかもしれません。
堤防部分からのパノラマ写真。
堤防から隅田川のテラスへ出てみましたが、つながっていそうにありません。
この壁の向こうに川がある。
気になるものとしては、この四角い何か、だがよくわからない。
やっぱりつながってないよね。
川はただの水たまりか、もしくはこのポンプ所につながっているのかもしれません。

神谷ポンプ所
神谷ポンプ所は、北区赤羽南、志茂、神谷地区の雨水を排除するために建設されました。このポンプ所は降り始めの雨水を、神谷幹線と地下40mにある貯水池に貯めて、晴れた日に「みやぎ水再生センター」に送り処理します。なお、貯留量を超えた雨水は隅田川へ放流する施設です。

東京都下水道局案内板より

最後に

とても興味深い行程&高低でした。石神井川の分水されたと思わしき箇所は全く分からなくなっていましたがところどころ川跡が確認でき、最後には開渠部を見ることができました。が隅田川につながっていないというオチもあり面白い4.5キロの川跡巡りでした。


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