語り得ぬもの


 お釈迦様は、生まれること、老いること、病気になること、死ぬことは、すべての人が経験する、逃れることのできない苦しみだと教えたと、高校の教科書で読みました(詳しくはネットで「四諦」を調べてください)。
 しかし、最近まで、生まれることが苦しみである、という教えの意味が分かりませんでした。

 しかし、落ち着いて考えてみるなら、突然、何の相談もなく母胎の外部に追い出され、局所麻酔もなしにへその緒をプチッと切られ、自分の力で呼吸し、栄養をとらなければならない過酷な環境に追放されたら、これは苦しみ以外のなにものでもないだろう、と最近、気づいたのです。
 ことによると、生まれることの方が死ぬことよりも苦しいかもしれない。
 しかし、それらの出来事を一切、覚えていないから、なぜ生まれることが苦しみなのか、お釈迦様に言われても、ピンとこない。
 一体、この間の落差はなんなのだろうか。

 1921年にヴィトゲンシュタインは「語りうること以外は何も語らぬこと」(「論理哲学論考」六・五三、岩波文庫)と言いました。
 彼のこの言葉の意図は、お釈迦様以来の古今の先哲が追求するしてきた「語りうること以外」を語ろうとする言葉や思想を否定することにあったのでしょうか。
 もちろん、そうではありません。
 というのも、彼はこの言葉の直前に、「だがもちろん言い表し得ぬものは存在する」(同六・五二二)と述べているからです。
 つまり、 彼はむしろ、人がすべてを言い表すことができるという、近代の幻想を打破し、「語りうること」の向こうに広がる「言い表し得ぬもの」に人々の注意を促そうとしたのです。

 私たちの暮らしは、日々、色々の道具を用いて世界に働きかける営みであり、その意味では「語りうる」ものとばかり関わり合って生活しています。
 道具も材料も燃料もすべての名前を私たちは知っているし、それらの機械的な連関も説明できる。
 そして、今や地球環境全体を我が道具として使い尽くす瀬戸際にまでやってきている。
 あたかも「言い表し得ぬもの」が存在しないと思い込んでいるけれど、そんなことは全然ない、生まれる苦しみが例示してくれたように「言い表し得ぬもの」は厳然として存在している。

 そして、今日になって地球規模の様々な危機が人々の不安の的になるようになって、やっとヴィトゲンシュタインの意図が人々に明らかになってきたと言えるかもしれません。
 すべての人が言い表し得ぬものを、少なくとも一つは知っている、つまり生まれる苦しみを知らないということを知っているのです。
 それを知っている今の自分と知らなかった過去の自分の落差の中に今、私たちは母なる地球と一緒に落ち込んでいるのです。


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