ジェームズ・ブライドルとOOO(オブジェクト指向存在論)

 ジェームズ・ブライドルの授業を受けた。

彼の経歴や思想は、「NEW DARK AGE」の書評を参考にしていただきたい

 ジェームズ・ブライドルはテクノロジーの中に危険性と余地を見出す。今まで、テクノロジーの可能性と危険性、その両面性について様々なアプローチで論じられてきた。ブライドルの論は今までのテクノロジー論と何が違い、何が源流であるのだろうか。
 グレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論」の類似性やマクルーハンのテクノロジー論との差異、ラブクラフトという共通の祖について論じながら、ブライドルのテクノロジー論について探る。

ブライドルのアイデアの一つに、「メタファーへの警戒」がある。例えば、今では当たり前の存在となった「クラウド」と言う言葉は、あたかも情報の塊が、何やらふわふわした雲のように抽象的に浮かんでいるかのようなイメージを与えてしまう。しかしながら実際にはそれは巨大なデータセンターによって構成されたものであり、大量の電気を使いながら、Googleをはじめとする大企業が運営し、あまつさえ所有しインフラとして利用する。このような実際の状況を、「クラウド」というメタファーは覆い隠してしまう。ブライドルはこのようなメタファーを、はっきりと「悪いもの」として取り上げる。(Bridle,久保田訳,2018)しかし、それと同時に、それをコンピューターや光ファイバーといった物質に還元することも、一定の成果はあるだろうが、それ以上のものでもないと言う。
 ブライドルのクラウドに関する思想には、グレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論(以下、OOO)」に類似している。ハーマンはいわゆる「思弁的実在論」が生まれたワークショップの参加メンバーで、ハイデガーの「道具論」を発展させて、独自の思想であるOOOを主張した。


 OOOの概要は以下のようである。OOOは、ハンマー、人間、粒子など、全てのものを「オブジェクト」として捉え、これを一つの単位として、世界を理解するという思想である。まずハーマンは、そのような存在を、パーツ、元素、分子にまで分解して考えるといった科学的分析──ハーマンは「下方解体」と呼ぶ──と、全てをオブジェクト同士のネットワークにのみ還元して考えるといった構造主義的分析──ハーマンは「上方解体」と呼ぶ──を、そのどちらも「物の表面の側であり、こちらでは物の実在の深さは正当に扱われない」(Harman,神尾 森訳,2020)と、不十分なものだと主張する。オブジェクトには、要素の集合と言う以上に意味があり、ネットワークの中にのみにはとどまらない多層的な意味をもつ。ハーマンの好む例えを使うと、ハンマーが存在するとき、それはもちろん物質の集合として存在するだけではなく、釘や、釘を使って作られる家などと意味のネットワークを持つ。しかし、ハンマーは壊れることがある。ハイデガーはこれを、ネットワークからの断絶として、ネットワークの中に存在するものとそこから逸脱したものをはっきりと分けたが、ハーマンはそれを否定する。ハーマンは、その壊れたハンマーは、それを認識する自分と言う存在とネットワークを持つし、そもそもそのハンマーは、彫刻を掘る、釘を抜くなど、その釘を打つと言う目的以外にも意味のネットワークを形成する。
 ここからハーマンは、オブジェクトという存在は、意味のネットワークの中に単純に組み込まれているのではなく、オブジェクトが持つ要素の一部がそれぞれ関係しあい、多層的なネットワークを形作っていると結論づける。
 ここでハーマンが強調するのは、あるオブジェクトと別のオブジェクトが関係するのは、そのオブジェクトに内包する要素のほんの一部同士でしかないということだ。人間も一つのオブジェクトである以上、他の全てのオブジェクトと人間はそれが持つ数多のネットワークのうち、いくつかの部分でしか繋がっていないということである。ハーマンはそこに「神秘性」「怪奇性」を見出す。

 ブライドルの主張もまたそれに類似するものである。クラウドというメタファーを、単なるデータの行き交いや、巨大企業の戦略といった単純なネットワークに「上方解体」することも、巨大なデータセンターや発電所といった物質に「下方解体」することも、一定の成果は認めながらも本質ではないと主張する。そもそもテクノロジーのもつ複雑なネットワークは、人間には理解しうるものではないからである。ブライドルはそこで、「理解し得ないながらも考え続けること」が重要であると説く。それはまさに、テクノロジーに対する「神秘性」「怪奇性」を愛でようという発想ではないだろうか。「ニュー・ダーク・エイジ」に見られるハンマーの例えもまさにOOOの思想を体現しており、意識していた可能性もある。(Bridle,久保田訳,2018 p.18)また、ヒト・シュタイエルが「NEW WAYS OF SEEING」で話したハリケーンとクラウドの関係も、これに類するものである。

 このようなテクノロジーの理解、つまりテクノロジーを単純なネットワークや物質の集合として解釈するのではなく、不可知な面を認めた上でその存在を理解しようと努める姿勢は、ブライドルやOOOなどの主張にのみ見られるものではない。マーシャル・マクルーハンの「メディア論」にも似た主張がある。マクルーハンは、人間の拡張であるメディア(≒テクノロジー)は、人間の感覚を変容させる。それがストレスとなり、メディアの自己切断が起きる。つまりそのメディアは自らの拡張であるという認識がなくなり、ある場合は人間を駆動し、ある場合は人間を魅了するというものである。メディア、すなわちテクノロジーは、人間に作られた場合においても、それ自らが自律的に動くように見える時があるという主張である。(McLuhan,栗原・河本訳,1987)この主張は一見ブライドルやOOOのアイデアに関連するもののように見えるが、一つ、大きな隔たりが存在する。マクルーハンの主張では第一に存在する「自己」と副次的な「その拡張としてのメディア」という序列が存在する。しかしながら、ブライドルやOOOの主張の中では、人間とテクノロジーの関係は相対的なものであり、序列は存在しない。マクルーハンのような、テクノロジーを人間と比べて副次的なものとして扱う発想は、ハイデガーの道具論にも見られ、ハーマンに直接否定されている。マクルーハンやハイデガーといった、1960-1980年代の思想と、ブライドルやハーマンのような、1990-2020年代の思想の間にはどのようなファクターが存在するのだろうか。

 この源流はブライドルとハーマンが共に引用した、ハワード・P・ラブクラフトに存在するのではないだろうか。ブライドルは、テクノロジーがもたらす情報の氾濫、その巨大さ、そしてそれを理解しようとすることの危険性を、ラブクラフトの暗黒の海の引用を用い説明した。(Bridle,久保田訳,2018 p.15)ハーマンは人間の知覚上オブジェクトの理解が不可能であることをラブクラフトに言及するロバート・マッケイを引きながら描き出した。これは、二人が頻繁に言及し、ハーマンの他の思弁的実在論ワークショップメンバーにも大きな影響を与えたマーク・フィッシャーと、フィッシャーの所属していたサイバネティック文化研究ユニット(CCRU)の中心人物であるニック・ランドの影響が見て取れる。特にニック・ランドの、資本主義に関しての思想の中で、クトゥルフ神話は、「外部」を与えることのモチーフとして使われる。例えばランドのコラム「Teleploxy」において、「ショゴス的な叛乱(shoggothic insurgency)」という言葉が用いられる。この「ショゴス」とは、ラヴクラフトの小説「狂気の山脈」に登場する宇宙人の種族で、別の宇宙人に洗脳され奴隷として使役されていたが、長年使役されるうちに十分な知能を蓄え、反乱を起こし支配から脱した。これをランドは、「発達した技術によるテクノロジーの反乱」の喩えに用いた。(Land , 2011)この「ショゴス的反乱」は、マルクスの、「資本主義の外部」を受けてのコメントである。マルクスは再生産労働のサイクルから漏れた存在を「外部」として、資本主義の犠牲者として取り扱っていたが、ランドは、その「外部」こそが、現状を打破する存在であるとしている。ランドやフィッシャーは、資本主義のプロセスの中にクトゥルフ的な「外部」を見出したが、これをテクノロジーの中に見出したのがブライドルやハーマンの思想であると言えるのではないだろうか。

 以上の通り、ブライドルの思想はハーマンの提唱するOOOに類似したものであり、その源流にはラブクラフトという共通点がある。そこからランドやフィッシャーをはじめとするCCRUの研究へと源流をとどることができるのではないだろうか。
 特にハーマンとブライドルや、フィッシャーとブライドルは、似たバックグラウンドを持ち、互いに言及し合うことがありながら、少なくとも日本語では体系的に論じられていないため、ここに新奇性があるかもしれない。


参考文献
Bridle,James 『NEW DARK AGE』2018 久保田晃弘監訳 栗原百代訳 NTT出版『The New Aesthetic and its Politics』2013久保田晃弘 試訳
Harman,Graham『思弁的実在論入門』2020 土尾真道 森元斎訳 人文書院
Land, Nick『暗黒の啓蒙書』2020 五井健太郎訳 講談社『Teleploxy:Notes on Acceleration
』2014(Philosophical Literary Journal Logos 28(2):21-30)
McLuhan,Marshall『メディア論』1968 栗原裕 河本仲聖 訳 みすず書房


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