日記の強度

日記を書くにあたって、特にルールとかは決めたくない。書くことが苦痛になる原因はなるべく避けたい。

書く量も、内容も、頻度も、特に決めない。でもひとつだけ、できれば意識したいことがある。それは「文章としての強度を持っていること」である。

強度とはなんだろうか。僕も多少なりとも現代美術やら映画に触れているのでよく使う言葉だが、僕が考えている強度とは、つまり「その表現がその方法でないといけない理由をどれだけ説明できるか」である。例えばその歌はなぜ書き文字では駄目なのか、その劇映画はなぜ小説では駄目なのか、それが説明できればできるほど、強度がある作品といえる。それは「これが好き」という偏愛だけでももちろんいい。

では、この日記をnoteというメディアで書く理由はなんなんだろうか。自分にとっては、書き文字であるということと、SNSでないということ、これが大事なのだと思う。
書き文字についてまず思い浮かぶのはマクルーハンの顔である。マクルーハンの『メディア論』では、社会の変遷を「音声言語の時代」→「印刷(書き文字)の時代」→「電子メディアの時代」とまとめている。
詳しく説明すると日記の範疇を超えるので割愛するが、「音声言語の時代」において、人のあらゆる知覚は統合されて認識され、それに対して即時反応が行われていた。それが、「印刷の時代」においては知覚はさまざまに切り分けられ、切り捨てられ、説明され、論理的、線形な文章として認識される。そして「電子メディアの時代」は、伝えられる情報量の多さ・早さにより「音声言語の時代」への回帰が起きている。これが大まかなマクルーハンの主張である。
この「電子メディアの時代」特有のコミュニケーションは、SNSに多く見られるように思える。
人はSNSで与えられた視覚情報や文字情報に、即時対応せざるを得なく、電子メディアに感情をかき立てられているように見える。こんなふうに俯瞰して見ている風を装う自分自身も、そのように動員されているように思う日もある。

ひとまず、少なくともSNSから切断し、その電子メディア的接続から切り離す場として、そして動員から避けた言葉を書く場として日記を考えたい。

(買ってまだ読んでないけど、宇野常寛『遅いインターネット』もそんな感じの本なんじゃないすか?)

とはいえ別にそんな難しいこと考えず文章を書いてもいいと思っている。別に「続けてくためにゆるくやりたい」も強度たり得るんじゃないかな!

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