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過ぎてく日に走り書き

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#ノンフィクション

娘の築いた時間と父

「おとうは出てこないで」 小学二年生の娘は、その体に不釣り合いな大きな掃除機を抱えて、せっせと掃除に励んでいる。自分がこれから使うところだけ。 秋晴れの清澄な空気がカーテンレースをほどよく揺らす。ずっとそこに居座るように見えた入道雲はいつの間にか姿を隠していた。 娘が友達を家に招待した。 学区内の保育所に入れず、彼女は誰も友達のいない小学校に入学した。周りは既に友達のコミュニティが出来上がっているなかで、他人なのは彼女だけだった。 学区が違ってもすぐに友達はできるか

サッカー部からバレー部員になった話

高校に入り、暇を持て余した僕の元に知らない先輩がやってきた。その理由は僕らが暇を持て余していると噂で聞いたから。 僕は同じ中学サッカー部出身の三人とつるみ、アフタースクールをゲーセンに通って過ごしていた。 そんな僕を勧誘に来たのは短髪の男子バレー部キャプテン。 身長170cm。友達なんて165cm。高校バレーでは不利になるほど小さい。そんな僕らをキャプテンが誘いに来た理由はただ一つ。新入部員が一人もいなかったから。 中学のサッカー部はそれなりに強かった。県で二番になっ

そして夫婦になっていく。たぶん。

「私は君に優しさを全くあげていない」 何の脈絡もなく妻が僕にいった。 付き合って十年、結婚して八年を経た妻からの言葉だからなかなか痺れた。 「あげていないと思う」 妻はくりかえした。 「確かに少ないな」 僕は笑った。 「私は人のために生きられない。あなたに寄り添ってあげられない」 妻は寂しそうにいった。 夫としてはなかなか衝撃的なカミングアウトを受けたわけだが、僕が感じたことは違うところにあった。 「僕もそれ思ったことあるな」 妻は不思議そうに僕をみた。 「人

ライトとレフトと時々ストレイト

信号が青から赤に変わった。 薄い青色の空が冬が近づいていることを教えてくれる。 イヤホン越しに響く五、六年前に流行った歌を懐かしみながら、買ったばかりのグレープフルーツジュースを片手にぼんやりと信号が変わるのを待つ。 無精ヒゲを生やしたおじさんがなにやら話しかけてきたのでイヤホンを外した。 「●●っていうラーメン屋がこの辺にあるって聞いたんだけど」 イヤホンをつけてない人が周りにいっぱいいて、それでも僕に聞きたかったことはラーメン屋の場所で。その感じが少し面白くて笑い

慣れは麻酔のように曖昧な味

君がおばあちゃんになったとき、どんな顔をしているんだろう。 僕には見られないのかな。 人間ドックの結果が書かれた紙を見たときに、そんな思いが最初にすーっと浮かんできた。 もし感覚を何か一つ失わないといけないとしたら何が嫌だろう。くだらない仮定の話だと知りながら、想像したことがある。僕は視覚だった。 でもそういうのって不思議とそうなるのが憎たらしい。最初に失うのは「見ること」になるかもしれない。神様はかなり天邪鬼だ。普段は祈りを捧げないし、存在を思うことすらないのに、こう

赤い自転車と優しい嘘

小学校で初めての参観日。 校庭狭しと並ぶ保護者の車と、鮮やかな緑の葉をつける桜の下にぽつんと置かれた色褪せた赤い自転車。 授業が終わり、娘はできたばかりの友達に「一緒に歩いて帰る?」と聞いた。 その子は「お母さんと車で帰るんだ」と笑って答えた。 娘は「じゃあ私も車で。」と言ったあと「あっ。おとうさん、自転車だった」と声を落としながら言った。 校庭に向かう人の流れからゆっくりと離れ、娘と赤い自転車に向かう。 僕が「自転車で来たの、恥ずかしい?」と聞くと、娘は「全然そんなこ