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サウナでの考察

サウナにはこれまで何度となく通っている。もはやそれは僕の日常において特別なことではなく、だから考察という言葉をつかって書いてみる。日常行為の試行的な記録。

テレビのないサウナに久しぶりに入った。息苦しさから意識をそらせるものはないが、それなりの良さがある。

目をとじて、お腹を膨らませながら鼻から息を吸う。お腹を膨らませるときに、上腹部にひっかかりを感じた。空間の膨張に内臓がおいついていないのか、どこかの筋肉が硬いのか、その原因ははっきりとわからないが、何度か呼吸をするうちに次第にスムーズになった。

その熱苦しい部屋で何を考えていたのでもない。
あえて言うならお腹で呼吸をすることの難しさだろう。鼻で息を吸うという行為とお腹が膨らむという行為がちぐはぐしていて別々の体のように感じる。
何気ない呼吸すら丁寧にできていない。呼吸とは当たり前のことだが日々を過ごす根幹であり、生の大前提であり、にも関わらず意識の外側にある。日頃から息を吸うというそれを只むさぼり、さぼっているのだ。
再び目をあけた時には、数人が新たに座り、数人がいなくなっていた。

汗をかけ湯で流して水風呂に向かう。
まず桶で水を足にかける。それは体に過酷な(大袈裟だが)環境を迎えますよと伝える作業。次に上半身に一度だけ水をかける。これは心に覚悟を決めますよと伝える作業のように思う。あとは、ずかずかと躊躇うことなく水の中に歩を進める。
火照った体にきーんとした冷たさが心地よい。左からの水流を感じ、感覚が研ぎ澄まされていくような錯覚を覚える。
湯舟では流れを感じなかったように思ったが、感じていたはずのことを気に留めなかっただけのようにも思う。

サウナから出てきた初老の男性が汗を流すこともなく横にざぶんと入ると、三十秒もしないうちにでていった。そして体についた水滴をタオルで拭くことなく再びサウナのドアを開ける。
僕は銭湯に来る以前から火照っている体の芯を落ち着かせるために水風呂に入る。その準備段階として仕方なくサウナに入っているのだが、彼は何を求め、あの熱苦しいサウナルームへと足しげく通うのだろう。ドアに書かれた「体を拭いて入りましょう」というお願いを無視してまで。

水風呂を出ると適当な場所に腰を下ろした。
行為全体としては「サウナに行ってくる」と妻に伝えて出かけるのだが、サウナではなく水風呂でもなく、この名もなき行為を過ごす時間が一番好きだ。
冷えきった体がみずから熱を帯び始める。何かを考えていないということを考える気にもなれない。この状態になると風呂場全体の音が鮮明に聞こえるようになる。そのほとんどは「ごー」というお湯を注ぐためのモーター音だ。それは風呂場に入ったときからあったはずの音だが、いつも気づくのは水風呂に入ったあとだ。
何も考えることなく、できるだけ背筋を伸ばすようにして、何かに視点をあわせることなく、ただぼけーと前を見据える。そこに悩みはなく、希望もない、ただそこにいる。その時間を求め、僕はサウナに何年も通い続けている。

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