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リーズンとレーズン [散文]

知りたくなる。きっとそこには理由があるから。理由を知るのは、秘密基地をつくるワクワク感と背徳感に似ている。

「ノーリーズン」なんてシュワシュワする飲み物くらいだし、「ドン シンク,フィーーーール」な時ですら、ちゃんと理由がある。

聞いた理由がわかりやすいときほど、裏側に隠れている気がする本当の理由に触れたくなる。大人になると理由を伝えるのが無意味に思えてきて、面倒くさいとか、いろいろだなとか言ってやめたり、理解してもらえそうな理由を見繕ったり。だけどそれは逃走と嘘と建前で、結局のところ、”臆病”なだけで本当の理由を表に出すのが怖かったりする。本当の理由って、馬鹿らしいほど薄くてくだらなかったり、優しくなかったり、一般的じゃなかったり、自分そのものだったりするから。

人から聞く理由がわかりやすいほど醒めていく。筋道が通れば通るほど、どうでもいい。だって、そんなに割り切れない。いつも正しい道ばかり選べない。正解する確率が高そうな選択を繰り返せない。もしそうなら宝くじをあんなに多くの人が買わない。

表に出ない理由の幾つかはきっと”くだらないこと”で、くだらない話のなかに、あなたがいるように思う。だからどうでもいい話って結構好きだったりするし、優しくないことを人間らしく感じる。そこにワクワク感と背徳感が忍び寄る。

相手の心を読めたらいいのに。だけど読めないからいいんだと思う。読めないから絶対いい。理由は隠せるからいい。いい人ぶれるからいい。

月の周りにねっとりと浮かぶ雲の下をどんどんと流れていく薄い雲。行きたい場所にどうぞ行けますように。もしくは自由に思いのままに消えてなくなれますように。

理由を勝手に想像しはじめると崩れていく。あなたと僕は違うから。

表情と言葉と。それで感じるしかないから、悲劇が溢れる。単なる気遣いを甘い言葉に変換したり、社交辞令の会釈を愛ある笑顔にしちゃうと束の間の幸せが深く長い悲劇へと連なっていく。その逆もあって、怒ってないのに怒られてると思われるのもなんだかな。

悲劇は他人の喜劇になるからタチが悪い。他人が悲劇を喜劇として喜ぶ醜さに悲しくなるのに、その喜劇を知りたがっている僕もいるから胸が痛くなる。僕は何様だろう。それを偽善と呼ばれても、否定しないからいいでしょって正当化する浅ましさに溺れる。

そもそも理由を知りたいんじゃなくて、知って欲しいのかもしれない。

そこにある無理に気づかないフリをしたら、悲しみに向かうべくして向かっている。固執が生む幸せなんて奇跡だ。それでもやり直せる機会はあってもいい。たくさんあればあるほどいい。

消したい時間の先に素敵な時間ができる。謝りたい過去の先に償うような優しさがある。その相手はきっと同じ人ではない。それでもいいように思うし、あなたの過去の人たちに嫉妬と感謝を紡ぐ。
だけど同じ人の方がきっといい。だから過去を責めないで。もう戻れないんだから。それはだいぶ我儘だけど。

どうして知りたくなるのかなんて、その理由を探すことがくだらない。
そんなくだらないことを繋いでいく。ムリのない感情に委ねる。
そうこうしていると、知りたい理由があったことなんていつかきっと忘れている。そして、あなたを知っていく。甘く苦いレーズンを食べられるようになっている。

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