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お姫様の場所

午後23時半のコンビニエンスストア。霧が深い日でかなり視界が悪い。
僕はこういう霧を悪くないと思う。もちろん車を走らせたりするのは注意が必要だし、気を使う。でも景色として、風景として。うん。悪くないよ。
田舎のコンビニエンスストアの灯りだって、霧の中だと何となく外国みたいじゃないか。

しばらく掃除をしたり、商品を揃えたり、せかせかしていたが、
とうとう暇だと認めざるを得ないほど客足が途絶えたので、ドアを開けて外を眺めた。
月も、もわもわしてる。等間隔に並んだ道路の照明灯は幻想的で、異世界のお姫様が馬で走って来てもおかしくない。そんな空想の世界を愉しみ、ドアを閉めようとすると微かな影。
さすがに馬には乗っていないが、多分人だ。霧は、そのひとを少しずつはっきりと形にする。トレンチコートを着た女性だ。店の灯りを見つけたのだろう、彼女はこちらへ向かって来た。僕はすぐレジに戻った。


軽快な音と共にドアが開き、赤い華奢な靴を履いた足先がマットを踏んだ。
目線を上に上げ、顔を見ながら「いらっしゃいませ」といつものように呼びかけた。先ほどのトレンチコートを着た影のような女性はとてもきれいな面立ちをしていた。

「あの……」

か細い声で彼女はカウンターに身を乗り出すようにして僕に話しかけてきた。
「はい」
少し緊張しながら、彼女の質問を待った。
「ここ、喫茶店ではなかったかしら」
「え」
「何年か前に来たの。とても趣のある……美味しいコーヒーを淹れてくれる喫茶店。内装は少し似ているのだけど」
ふと、思い出した。この店の前は確かにカフェと言うよりも純喫茶だった。
そこのマスターが健康上の理由で店を畳んでコンビニエンスストアにしたんだ。土地はマスターのものだったと思ったがそこのところはよく判らない。
コンビニエンスストアになってから募集しているのを知って僕が応募した。今では店長だ。
「そちらのお店はやめてしまったみたいです。マスターさんが体を悪くして」
「ああ、よく憶えてるわ。大きな体をしていて、優しそうな笑顔で……」
「いや、僕は会ったことはないんですが」
「ごめんなさい……。本当にいいお店だったの。こんな霧の夜には美味しいコーヒーが飲みたくなってよく来ていたの。残念だわ。本当に残念」
彼女があまりにも淋しそうな顔をするので、僕は何とかしてあげたい気持ちになった。今言わないと彼女はきっとまた霧の中に戻って行ってしまう。何かないだろうか……。

「あの」
ドアに手をかけ、今にも出て行ってしまいそうな彼女が僕の呼びかけに振り返った。
「イートインのスペースがあるのですが、そこは以前のお店の雰囲気とか残っていないでしょうか」
「そんな場所があるの?」
「あります。この奥に。ぜひどうぞ」
彼女は踵を返し、店の奥にある小さなイートインスペースへと優雅に歩いた。トレンチコートから見える細い足。そして僕の目を引いたあの赤い靴。それは高いヒールのサンダルだった。

彼女はすべての席が窓に一方的に向いているのを不思議そうに見ていたが、席を選んだようだ。
「このカウンター、あの店のだわ」
彼女が優しい微笑みで僕に振り返ったので、ついつられて笑った。
「温かいコーヒーが欲しいのだけど……、自分で淹れるのかしら」
「あ、やりますよ」
「いいの。教えてくれたら自分でやるわ」
そう言いつつ、コーヒーマシーンに触る指が戸惑っていた。
まるでこんな機械、見たこともないような手つきだ。
「ああ、まずはコーヒーの種類を選ばなくちゃいけないのね」
そう言って『プレミアムホットモカ』と書かれたボタンを選ぶ。
しかしマシーンの下に紙コップを置くことを知らなかったようなので僕がそれを自らの手でやった。

マシーンに観念した彼女は注文だけ済ませて、
「あとはやります」と言う僕の言葉に素直に従った。僕自身、彼女には座っていてもらいたかった。きっと本来ならば、今日もこうしてコーヒーを淹れてもらう日であったのだろうから。
コーヒーが紙コップの上に落ちて来ると途端に香ばしい香りが店内に広がる。香りは、あの頃の純喫茶の風景を蘇えらせそうなほど郷愁をあおる。
座る彼女の横顔を盗み見すると、どこか遠くの景色、例えば暗くて見えない海だとか、現実にはないけれど、そういういにしえのものを見ているように思えた。
明るい瞳をしていて、薄茶色の髪を背中まで垂らし、そっと脱いだトレンチコートの下は簡素な作りのワンピースだった。彼女の存在はコンビニを高貴な館に変えてしまった。彼女はまるでどこかの国のお姫様に見える。
一体どこを間違えてお城から離れてしまったの? なんて言いたくなるくらい。

「お待たせしました」
僕はボーイよろしく、気取ってコーヒーを彼女の前に置いた。
「どうもありがとう」
彼女は蓋を外して、両手で紙コップを持って香りを楽しんだ。
「いい香り。あの日のコーヒーみたい」
「良かった」
彼女の思い出は現在にも無事、存在できたようだ。本当に良かった。

気が付くと結構時間が経っていたので慌てて彼女のそばから離れ、レジに戻った。彼女の選んだ席はレジからもよく見えた。願わくば彼女の雰囲気を乱すような客は来ないで欲しい。
店内の音楽も今日は珍しく静かな洋楽だし。

客がやって来た。仕方がない。
「いらっしゃいませ。エージーマートへようこそ」
いつものマニュアルの挨拶を新しい客に向けた。彼はほぼ毎日来る常連さんだ。いつも同じ銘柄の煙草を買っていく。彼がふとイートインスペースにいる彼女を見つけた。
「珍しいお客さんだね。彼女かい?」
こそこそと彼が僕に囁くのでますます小声で「違いますよ!」と訂正した。
それでも彼が少しニヤニヤしていたのは見逃さなかった。
まったく。考え過ぎだ。彼はすぐに店を出た。少し霧は晴れただろうか。

それから、
何人か客がやって来てはビールの6缶パック、お弁当、やはり煙草、等を買っては帰って行った。
みんなどうしても彼女をちらりと見る。仕方がない。美しいのだから。その彼女が椅子を引いた。
「長居してしまってごめんなさい」
「いえ、営業中なので平気ですよ」
彼女はトレンチコートに腕を通した。ああ、帰ってしまう。非常にやるせない気持ちになった。
「コーヒー、淹れてくれてありがとう。わがままな客でごめんなさいね」
「いいえ……全然大丈夫です」
彼女はバッグから財布を出そうとした。
「あ、いただいてます」
最初にコーヒー代金を払い終えていたのを忘れていた彼女は少し照れて微笑んだ。

「まだ霧が濃いようですけど、帰りは大丈夫ですか?」
余計なお世話だろうか。
「ありがとう。大丈夫」
ふと、ドアの前で彼女は一瞬だけ足を止める。
「……また来てもいい? コーヒーの淹れ方も知らないわがままな客でも」
「もちろん。わがままなままで、ゆっくりして行ってください」
彼女と僕は目を合わせて親し気に笑う。つい先ほど初めて会ったばかりだけど。
「それじゃ、ごちそうさま」
「どうもありがとうございました」
「またね」
「お待ちしてます」

滑るように彼女はドアから外へと出て行った。
僕は彼女が出て行った後、すぐに同じようにドアを開け、彼女の後ろ姿を見守った。
まっすぐと振り返らずに美しい足取りで遠ざかって行く。
どうかまた、彼女が来てくれるように。
コンビニエンスストアの中のイートインスペースのひとつの席。君が座った席。
そこだけはいつも君のためにリザベーションしておくから。
霧はふんわりと彼女の存在を隠し、僕は日常の仕事に戻った。時計の針はちょうど0時を指していた。



◆ ◆ ◆

すっかり自分の中では定着した架空のコンビニ「エージーマート」の掌編です。今回はイートインスペースの登場です。お姫様のような高貴な印象の女性は、本当に存在したのでしょうか。仄かなロマンスです。お楽しみいただけると嬉しいです。トップ画像はnoteにいらっしゃるフォトグラファー、aicoccoさんからお借りしました。「アンダーな写真」というカテゴリにあり、とても魅かれました。どうもありがとうございました。

幸坂 かゆり

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