友達

電話が鳴った。
僕は電話をかけてきた人の名前を確認して、しばし彼との思い出を逡巡した後、携帯の液晶画面の「応答する」をタップし、携帯を耳に当てた。電話をかけてきた声の主はまるで、長い間失くしていたものを見つけ当てたような明るい声色で僕の名前を呼んだ。
「おお飯塚。久しぶりだなあ」電話の向こうでそう言った男性の声が、携帯の通知が示す通りの本人の物だったという至極当たり前の事実に、僕は安心した。それは僕自身が、この電話をかけてきた相馬という男と話すのがもはや何年振りか分からなかったからであった。電話の向こうの男———相馬は顔や服装や感じこそもしかしたら変わっているのかもしれないが、声だけは少なくとも僕の昔の友人であったころの相馬の物だった。
 「久しぶり」僕は彼にそうとだけ言った。相馬は何年も話していなかった僕のことなど全く気にせず、まるで二日ぶりに会った友人と同じくらいのテンションで僕に話し続けていた。彼は僕に、突然電話してすまない、今から会いたい、絶対に儲かる話があるからと僕に電話越しでやにわに熱弁した。あまりにも急な電話とその内容に面食らった僕を無理やり押し切るように、相馬は四十分後に彼の家の近くのファミレスに来るように僕に言った。会話の主導権をこちらが少しでも握る前に彼はひとしきり言いたいことを全て言ったようで、絶対に来てくれ、来ないと後悔するからと何度も繰り返し僕に言っていた。僕は電話を切るに切れず、断ることもできず、ただ彼の久しぶりの肉声を聞いているだけだった。
 相馬は僕の家の隣に住んでいて、昔は家族ぐるみでよく食事をしたり、遊びに行ったりしていた。年が同じでお互いに身体を動かすのが好きだったから、少年野球のクラブチームに小学校四年生くらいの頃に一緒に入ることにした。僕は肩が強かったから投手と外野手を、相馬は当時好きだった中日ドラゴンズの森野将彦にちなんでサードをやっていたような気がする。二人で練習の行き帰りに今年の中日ドラゴンズも強いよね、あの福留がさ、いやウッズのホームランがさ、浅尾岩瀬は黄金リレーだよねなんて話をずっとしていた気もする。相馬の父親は大手の車メーカーの技術職で、彼の家はそれなりにいい生活をしていたような記憶がある。白いレクサスを乗り回していたと思ったら、いつの間にか今度は銀色のフォルクスワーゲンに乗り換えていた。いくら車メーカーに勤めていても、自社の製品にばかり乗るわけではないんだな、と子どもながらに思っていた。相馬も車にはそれなりに詳しくて、いつか外車か、それが駄目なら日本車の少し古くてもいいから格好いい物に乗りたい、カムリ・ビスタやネオクラシック。そう僕に事あるごとに言っていた。僕は車について全く詳しくなかった(僕の家には父親が二十五の時から十二年間乗り続けていたワゴンアールが一台あるだけだった)から、相馬の車の話は呪文のように聞こえて、人間皆が車好きなわけじゃないんだよなあと頭の中で考えていた。
 中学校に上がる少し前に、僕は野球をやめた。肩を痛めたり、肘を痛めたり、僕の一つ下の上手い子たちが活躍するようになってからだんだん試合に出られなくなったからである。全然ヒットも打てなくて、試合では守備でエラーをいくつもやらかしてから監督にも嫌われてしまった。相馬はそんな中でも「五番・サード」としてクラブチームで活躍し続け、小学校六年生のチーム最後の試合ではタイムリーヒットを含む二安打を放って周りから祝福されていた。僕は相馬から後々その話を聞き、彼がその時放った一安打でも僕の人生にあれば、僕は野球をやめなくても良かったかもしれないと考えていた。
 うちにはお金がなかった。同じような一軒家に住んでいた僕と相馬の間には、目に見えない経済格差があった。うちは共働きで、しかし父親が糖尿病を患っていたためあまり肉体的及び精神的に不安がかかる仕事はできなかったので、とても昇進は望めなかった。母親は自宅から数キロ離れたところにある薬局でパートをしていた。休日の父親は家で録画した「恋のから騒ぎ」を寝転びながら見るか煙草(メビウスの八ミリだ)を吸いながら「プレイボーイ」「ヤングマガジン」を読む生活を、母親はその間も平和ボケした老人にどの薬がどの症状に効くのか、ジェネリックというヨコ文字は何という意味なのかを理解する気もない老人たちに繰り返し説明していた。
 惨めになることがあった。うちにはお金がなくて、それでも両親は僕に無理をして少年野球をやらせてくれているのに、僕はレギュラーをとれなかった。母親がわざわざ日曜日に僕の出るかどうかも分からない試合に来て、監督や他の子どもの両親にせっせとニコニコ笑いながらお茶を淹れているのを見てどうしようもなく哀しくなった。何のために僕も母親も日曜日に居たくもないところにいなくてはならないんだろうと思っていた。相馬はそんな中でも優しく、僕にバッティングのアドバイスをくれたり、いつもキャッチボールに付き合ってくれていた。相馬の母親は父親が運転してきたフォルクスワーゲンに乗って来て、日傘をさしながら我が子を応援していた。そんな中でも不思議なことなのであるが、相馬の母親と僕の母親はそれなりに仲が良かった。恐らく、住む世界はかなり大きく違っていたような気がする。僕と相馬は子どもという純粋無垢さを盾にして、何もわからずに経済格差という打算的な壁を取っ払っていたのに対して、彼女たちは果たして何を媒介して仲の良さを保っていたのだろう。今の僕が邪推するに、ママ友というのはいるだけで都合がよい存在なのだろうか。経済格差を取っ払うほどの利害関係があったのだろうか。僕の母親は相馬の母親と一番仲がいいんじゃないかと思える程だった。まあ隣の家同士だしな、としか子供の頃の僕は考えていなかった。たぶん彼女らの中が良かったのは僕たちが特別仲が良かったからかもしれない。考えても真意は分からないままである。
 中学に上がってからも、変わらず相馬は勉強がよくできた。特に理科が得意で、いつもテストでは九十点の後半くらいをとっていたような気がする。僕は暗記科目がちょろっと出来る程度で、数学や理科はからっきしだったから、いつも五段階評定で「2」をとっていた。それでも相馬は僕に優しくて、登下校するときはいつも同じだし、常に僕の事を気にかけてくれていた。うちの母親は「相馬君はいつもええ点取るんじゃなあ」と相馬に話しかけていた。相馬の母親も僕に「いつもうちの子と仲良くしてくれてありがとう」と声を掛けてくれていた。今思うと、子どもの時の相馬は勉強の事や野球の事を僕によく教えてくれたが、僕が相馬に何かしてやれたことはあっただろうか。無いかもしれない。相馬は何もかも僕より恵まれていて、よく出来て。僕は幼馴染で隣に住んでいるけれど、言い換えればそれしかないから相馬と仲良くしてもらえているのだとずっと考えていた。生まれる座標があと少し向かって右にずれていたら、僕はもう少し何でもできる存在になっていただろうかと考えた。相馬は勉強も運動も何でもできて、人にやさしくてみんなに好かれて。僕は少年野球でも後輩にレギュラーを取られて、テストの平均点は百点満点で六十点も無くて、可もなく不可もなくの人間関係で。劣等という名の焦茶色の感情は、相馬と仲良くするたびに僕の中で色濃く主張を続けていた。
 高校に上がって、相馬は私立の少し離れたところにある県内でも有数の賢い高校に、僕は近くにある公立高校に進学することになった。ぴかぴかのブレザーを着て僕とは反対方向に歩いていく相馬を見送りながら、中学生の時と何ら変わらないような学ランのボタンを僕は掛けていた。相馬と話すことは徐々になくなり、親同士も疎遠になっていった。最後に話したのは高校一年生の夏で、相馬は僕に「教師になるんだ。理科の」と言った。高校の担任がとてもいい先生で、それを見て、「教員っていいな」と思い立ったらしい。夢を持っている相馬は、いつにも増して輝いて見えた。僕には夢がなかった。ただ何となく生きて、社会の歯車として何処かで働いて、死んでいくのだろうと思っていた。僕と相馬の間には明らかに人間として持っている輝きの差があった。あるアーティストを見て、その歌唱力に圧倒されて歌手になりたいと思うのが相馬だ。でも、中には、その歌唱力に圧倒されて自分には歌手になるなんて無理だと諦めてしまう人がいるかもしれない。実力を持っている人がそれを遺憾なく発揮することで、夢を与えられる人もいれば、それが諦めの要因になってしまうような人もいる。高すぎる実力が、夢を持つ人の決心を鈍らせてしまう事もあると思う。そう考えてしまうのが僕だった。
 「相馬君のとこ、引っ越すって」母親から僕がそう聞いたのは高校三年生の冬であった。
僕は高校に入ってからそれなりに勉強を頑張り、隣県の国立大学進学を目指していた。「何で」「どこに」僕がそう聞いても「知らんのよ」と母が答えた。そして本当に、引っ越している痕跡すら見ないまま相馬家はどこか知らない場所へ消えてしまった。銀色のフォルクスワーゲンも、艶めくレンジローバー・イヴォークも忽然と姿を消していた。他のママ友の噂によると、相馬の父親の不倫による家庭内トラブルと、相馬自身の心身の不調によるものらしい。中学の同級生で相馬と同じ高校に通っていた友人から、相馬が大学受験に失敗したことと程なくして高校を辞めた事を聞いた。それからずっと、僕は今に至り電話がかかってくるまで相馬と会う事も話すことも無かった。
 僕が無事第一志望の大学に受かってからも、相馬は全く音沙汰がないままだった。運動も勉強もできて、完全無欠であった相馬は今どこで何をしているのだろう。彼に対する劣等がないと言えば嘘になる。逃げたかったのは僕の方だ。ぼんやりと曇っていた空。彼に勝ちたかったけど勝てなかった。心のどこかで、高校生になってから、相馬と離れてから、彼に勝つために勉強をしていたのかもしれない。どうしようもない羨望と尊敬の鎖を断ち切るために、自分の中に渦巻く劣等を消し去るために大学という、努力という心の依代を作ろうとしていた。何もかも完璧で、笑顔でルイスビル・スラッガーのバットを振り回していた彼に少しでも近寄りたかった。追いつきたかった。他人を見て夢を持てるなんて羨ましいと思っていた僕も、いつの間にか相馬を目標として必死にミズノのバットを振り回していたのかもしれなかった。家庭的な劣等と、僕自身の劣等。相馬に対してのそれ等に対する形容し難い重圧が、中学生までの僕を抑えつけ離さなかった。
 僕の家から車で十分程のファミレスの駐車場で、僕は相馬を待っていた。電話の内容から、彼が恐らくあまり良くない事業に手を染めていたことが何となく分かった。行かないという選択肢もあったが、僕の中の相馬は中学生までの完全無欠なイメージに染まっていたから、彼が間違いを犯すことなどありえないという考えもあった。
それからまた十分ほどして相馬がやって来た。彼は色褪せたボロボロの軽自動車から降りてきて、よろよろとしたお世辞にも若々しいとは言えない足取りと恰好で僕の元へやって来た。不精髭が汚く生え並び、眼からはあの時の燦然とした輝きはとっくに失われてしまっていた。僕はそんな彼の姿を見て、何も言えずにいつまでもただ立ち尽くしているだけだった。

『友達』
 

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