『ふてほど』を自身の職場を考えるきっかけにしてみる
クドカンドラマが話題ですね
『不適切にもほどがある!』
この記事を書いている時は、このドラマの最終回前なので、最後はどうなるかは分かりません。
正直、最初から見ているわけでは無く、患者さんから評判を聞いて「U-NEXT」で追いかけている身ですが、途中まで見ていると現場で聞くような雇用問題にも、少しは応用できるのでは?と思ったので今回は記事に上げてみたいと思います。
今回は、まだご覧になっていない方には大変申し訳ないのですが、多少のネタバレを含みながら、そこに上がっていたことととか、現在では問題になると思われる職場でのことを、照らし合わせてみたいと思います。
実は、4月から開始するシステムに、新規で組み入れる内容ともリンクするのですが・・・そこは、上手く調整したいと思います。
①「ケツバットor胴上げ」は、使っていいケースを考えるきっかけになる?
②「頑張って」がパワハラな時代?仕事は修行?
③Z世代対応は経営者にとって・・・
の3点でお送りします。
※くり返しますが、多少のネタバレを含みます。
①「ケツバットor胴上げ」は、使っていいケースを考えるきっかけになる?
先に申しあげますが、ドラマでは
令和にあって昭和にないもの
昭和にあって令和にないもの
を上手く表現し、どちらの世代からも共感得ているドラマになっていると思います。
どっちにも良い事は表現されているのですが・・・考えなくてはいけないのは「今は令和」。
原作者のクドカンこと宮藤官九郎が語りかける意図は、拝見しているウチに感じる事は、バランスって大事じゃね?って事だと捉えています。
ドラマの中では主人公の体育教師が、野球部の顧問をしており、ミスをしたら昔懐かしいケツバットを行ってました。
昭和から平成一桁代の人には、懐かしい光景なんじゃないでしょうか?
画面を変わったところで、パワハラによって会社に出社できない部下ができてしまった、共演者と話してるときに
「ミスをしたらケツバット、うまくいったら胴上げよ!」
と主人公が堂々と話している・・・ですが、令和には不適切なんでしょうね。
ただ不適切ではありますけれども、このケツバットと胴上げに関しては、この令和の時代においては、浅はかにやってしまうと失敗するという典型例だと、私は考えました。
いや別にあの・・・職場において「ケツバット」を推奨しているわけではありません。
このケツバットと胴上げにおいては、言葉を換えればアメとムチになるかもしれません。
「そうそうそうそう!俺もそうだと思っていたんだよな。だけど今はこれを否定されるんだよな!軟弱な時代になったもんだぜ!!」
そう、これを経験して来た人間は・・・当時は嫌だと思っても、今となってはこれがいい行為だと、どこかで思ってしまうのがあります。
実は私が分析するに、本来は昭和でも不適切だったはずなんです。
でもなんで行われていて、当時は当たり前と許されていたか?
そしてなぜ令和の時代では不適切として処理されるのか?
これらを分析して行くと、雇用問題で悩まれている方のヒントになるのかもしれません。
1・アメとムチにおけるムチは、罰則にするから問題になる
→ケツバットを推奨しているもしくは実施していた教師にしてみれば、生徒のケツをバットで叩くことが快感!という人間は、基本的にはないはずなんです。
そうではなくて「本来は真剣味を持って、上手くなってほしいから、緊張感を持たせるためにケツバット行っている」これが実施する側の言い訳だと思います。
でも冷静に考えてみれば、真剣になることと罰則を持つことは別なんです。
ムチの部分は、罰則では無く、別の方法で立てる。
例えば、初歩的な対応としてゲーム性を持たせたフィジカルトレーニングを追加する。
体育会系であるならばトレーニングも兼ねることができます。
(映画トップガンマーベリックでも教官に負けたら腕立て伏せやってましたよね?)
こういったことに関しては、正解は実は突き詰めてられないのですよね。
まず正解を建てることができない。人間関係がケースバイケースすぎるから。
なので、罰則性を入れないことからまずはやらなきゃいけない。
2・そもそも指導する側もそこまで成熟してない
→成熟しているのであるならば体罰をする必要がなくなってくるんです。
ほかの代替案を建てることができるから。
ところが指導側が成熟してないと、体罰・罰則にとりあえず頼ってしまうんです。
罰則に走るのは簡単なので、簡単な方しか選択できない未熟さが、自分にはあると指導する側が、自分を分析するべきなんですよね。
これは子育ても同じです。
私も子育てはそこまで器用な方ではありませんが、簡単なのは体罰を与えて躾けることです。
でも実際にそれってあんまりうまくいかない事は、児童心理学の観点からもうまくいかないとエビデンスが出てるんですよね。
ケツバットをしたい、ケツバットに頼る、のであるならば、一回ここは冷静になって他に方法がないか自分の指導力が試されると思って、パターンやボキャブラリーを考えましょう。
3・猪木のビンタが成立する理由を考えよう
アントニオ猪木さんがご生存のときは「猪木にビンタをされたい」というのが、ある意味ステータスの時がありました。
ただ令和のこの時代に、アメとムチを考えるステージにおいて「猪木ビンタ」を引き合いに持ってくることは、間違っていると思います。
あれはあえて座禅で言うところの、警策。棒で叩くアレ。
ただあれは、叩かれるというイメージを持っている方もいると思いますが、喝を入れ、坐禅修行が正しく円滑に行うことの出来るように「励まし」という意味があるとのこと。
痛そうに見えて、音は凄いが痛くは無い。
「頑張って行けよ!」と背中を手で叩くのと同じ(細かくは違うのかも知れませんが)。
で、そこにあるのは、罰則では無いと言う事と、警策と猪木ビンタには「励まし」と「双方の信頼」が成り立っています。
それが、見受けられないから「ムチとして罰則のケツバット」がダメなんですね。
これら考えることから、職場におけるアメとムチの対策が見えてきます。
②「頑張って」がパワハラな時代?仕事は修行?
『ふてほど』のシーンでは、会社の業務中において先輩社員が「頑張って」と後輩に声をかけたことで、後輩側が過度なストレスを感じ出社できなくなった、というようなエピソードがあります。
実際の治療家業界では、これは本当にマイノリティというかレアケースだと思います。
そこまではそうそう至らないかもしれない。
「本当に最近のやつは弱っちいんだよ。こっちは修行させてやっているのに」そういった発言に至りそうなシーンですが・・・
まずこの点においては、昭和だろうと令和だろうと、考えるべきところはあります。
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