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香る花

時に、語感がひたすらに良い音楽に出会う。言葉選びの良し悪し、メロディーやリズムの良し悪し、色々理由はあると思う。
もし、なぜ語感が良いのかを尋ねられるとするならば、「声が楽器として扱われるから」と答えるだろう。歌声然としたものではなく、あくまで楽器隊の一部としての溶け込み。メロディーやリズムの一部としての調和。それが語感の気持ちよさを演出しているのではと思う。

運転する車の中で流れ続けている『NEE』というアーティストが、その例だと最近感じる。
2019年。受験勉強の暇に音楽漁りをしている時に出会った。『歩く花』なんて言葉の並びに美しさを感じた。そして、聴こえてくる色んな音が気持ちよく、その新進気鋭感の沼にはまった。この時から声を楽器のように捉えていたのかもしれない。初めは名に惹かれたものの、音の良さにばかり満足するようになった。歌詞の意味よりも「音」として聴いていたように思う。

『そうだ 君と同じ香りの花を見つけたの』
ふとした時にこの歌詞が強く耳に残った。これまで何の気なしに音の良さに溺れて聴いていたのに、急に水から顔を出し深呼吸した感覚に襲われた。

『君と同じ香りの花』
花に君の香りを感じた、というこの詞。
その言葉をそのまま取るよりむしろ、
「君は花の香りのする人」なんだと思う。
もっと言えば、
「君は花の香りのする人"だった"。」

『歩く花』という言葉に、花を歩かせる非現実的感覚を覚えて美しさを感じた記憶がある。
けれど、その語の意味が違ったように思える。

「花が歩く」のではなく
「歩いていたのは花だった」
つまり、
「横を歩いていた君は花のような人だった」
という意味に思えてきた。

ふと考えつき、書き殴るにしては、
想いと筆圧が強くなってしまった。
もちろん解釈が必ずしも一致しているとは思わない。けれど、そう思わせてくれる余白が、作品には求められる。「完膚なきまでの完成品」ではなく、言葉を濁らせ全てを言わない「余白のある準完成品」が作品たり得る。表現者とそれを享受することで、完成品となるのかもしれない。

音の良さに溺れていたのに、結局今度は言葉の美しさに溺れてしまっている。けど、焦ってそこから抜け出そうとも思わない。沼にはまるのを良しとして甲斐性もない。
やっぱり『僕も馬鹿だ。』


NEE『歩く花』https://youtu.be/MqgPmC6DRME 

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