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『カーナビ』

私が3歳か4歳だったころ、曾祖母が亡くなった。
遺影で初めて顔を見た(たぶん覚えていないだけで、曾祖母に会ったことくらいはあっただろう)曾祖母の死を理解できていなかった私は、通夜の早々に眠ってしまい、母は眠る私を車に乗せ帰宅することにした。
ここからは、後になって母から聞いた話だ。


曾祖母の家は自宅から遠い内陸部にあり、行くにも帰るにも山をいくつか越えなくてはならない。
方向音痴な母は、カーナビに自宅の住所を入力して音声案内に頼ることにした。

『案内を、開始します』

耳なじみの良い、けれどどこかたどたどしい女性の声でカーナビは案内を始める。田舎で明かりが少ないこともあって、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。
田舎の葬式は長い。出棺、火葬、墓での読経が終わったあとも、親族への挨拶や食事の配膳などで夜中までかかり、そのまま泊まることも多いのだ。だが、母は次の日仕事があり、どうしても帰らなくてはならなかった。
帰ることを告げると、だれもが引き留めた。もう遅いし、泊まって朝になってから帰ればええやないの、と。でもそうもいかない。母はやんわりとそれらをかわし、眠った私を抱え車に乗り込んだ。

『200m先、直進です』

街灯もない道を、母の車だけが走っている。タイヤが地面をこする音だけがひたすら続くなかで、母は親族のひとりの女性が言っていた言葉が気にかかっていた。

夜の山を通るんやったら気いつけや。
あんたと娘ちゃんは、特にねらわれやすいタイプやから。

この言葉を聞いたとき、なんだか嫌な予感がしていた、と母は言っていた。
最初は事故に気をつけろ、ということだと受け取ったが、「ねらわれやすい」とは何なのかがよくわからず、ただ出来る限り山道は避けようと思ったらしい。

『100m先、左折です』

カーナビの声が、山道への入口へ誘導してきた。早く帰宅するには、山を抜けるのが最短の道。だが、母はその声を無視した。

『……しばらく、直進です』

カーナビの案内表示は道を変更し、別のルートを指していた。母はほっと胸を撫でおろし、後部座席で眠る私を鏡越しにちらりと見た。ぐっすり眠って起きる気配のない私を見て安心した母は、音楽でも聞こうとCDをプレーヤーに入れる。小さめの音で、当時大ヒットしていた歌が車内に流れ、母はカーナビの案内に従って運転を続けていた。

しばらくすると、CDの音が途切れるようになった。所々ノイズも入る。
古い車だし、そろそろ替え時かもしれない、と母はCDを取り出そうと車のスピードを緩めた。そのとき、母は視界の端に、ある看板をとらえた。

"○○峠"

一気に全身に鳥肌が立ったと、母は言う。
入口を避けて運転してきたはずなのに、いつのまに山道に入ってしまったのだろう。とにかく、はやく山を下りなくては…。

『次、右方向です』

冷や汗をかく母とは裏腹に、明るいカーナビの声が案内する。表示されている地図を見ても、今どこにいるのかさっぱりわからない母は、カーナビの声に従って目の前の分かれ道を右に進んだ。
だが、ナビの案内に従って進むほど山の深くに入っていき、道は細くなっていく。霧も出てきて、母はもうほとんどパニックで山のなかを進んでいた。やがて目の前に「この先通行止め」と書かれた看板が立ちふさがった。車のライトに照らされたそれには、崩落の危険のためと書かれている。文字通り行く手をふさがれた母は、ハンドルを握りしめて深いため息をついた。

『直進です』

母をせかすように、カーナビの声が案内を続ける。母はもう恐ろしかった。このカーナビの声は、私たちをどこへ連れて行こうとしているのか…はやく家に帰りたい…。母は泣きながら案内停止のボタンを押した。だが、

『直進です』

またもカーナビの声はそう告げる。画面には「終了しました」と出ているのに、カーナビの声は止まない。

『直進です』
『直進です』
『直進です』
『直進です』

「もうやめて!!!」

涙でぐしゃぐしゃになりながら、母は停止ボタンを連打した。

『はは、は』

不意にカーナビの声の様子が変わった。

『ははははははははははははははははは』

女の声だった。抑揚がなく、機械と肉声が混じったような軋むような声だったという。笑っているようだが、なんの感情もなさそうで、それがかえって不気味だった。
笑い続けるその声に、母はついに限界を感じ、シートベルトを外して外に出ようとした。この車から、この声から逃れたかった。

「お外に出たらだめよ」

ドアに手をかけていた母が驚いて振り向くと、寝ていたはずの私が体を起こし、見たこともないような鋭い目つきでフロントガラスの向こうをにらみつけていたらしい。(らしい、というのは私がこのときのことを全く覚えていないからだ。)
母の体は石膏のように動かなくなったが、そんな母に私は微笑んでいたそうだ。

「お外にいっぱいいるから…大丈夫、帰れるからね。」

いつになくしっかりした口調の私は、まっすぐにフロントガラスの向こうをにらんで、こう言ったという。

「この子たち、あなたたちとは違うの。私が代わりに行ってあげるから、道を開けなさい」

カーナビの笑い声はぴたりとやみ、しばらく静寂に包まれた。硬直して動かなかった母の体に、少しずつ力が戻ってきた。シートベルトを締め直して、辺りの様子を伺っている母に私は再び声をかけたらしい。

「もう大丈夫、いっこちゃんさっきの分かれ道まで戻ってごらん」

いっこちゃん、とは母の愛称だ。親族たちから母はそう呼ばれているが、私はその呼び方をしたことはない。なぜそんな呼び方を?を不思議に思いつつ、早くここから立ち去ろうと母は車を動かし、なんとか分かれ道まで来た。
"○○峠"の看板の先に、下り坂が見えた。これで山を下りられる、と母がほっとしたとき、今まで起きていた私がばたりと後部座席に倒れた。
ぎょっとして見ると、私は真っ青な顔で血の気がまったくなく、まるで死体のように見えたという。母が慌てて揺り起こしても反応がなく、呼吸もかすかにしかしていなかった。
母はフルスピードで一気に山を下った。このときは、私が死んでしまうかもしれないと本気で思ったらしい。とにかく電波の届くところまで行って、救急車を呼ぼうとした。

ふもとに着いてすぐ、大きな交差点に出た。さっきまで鬱蒼とした木々に囲まれていたのが嘘のように、何台も車が行き交っている。もうほとんど朝になっていた。
赤信号で停止した勢いで、車がぐんと揺れる。その揺れで私は目を覚ました。

「大丈夫?」

「んー?らいじょーぶー…」

眠たそうに目をこする私はいつもの私で、先ほどとは別人のようだったらしい。

「さっきの、なんやったん?」

「さっきのって?なに?」

私は本当に何のことかわからなかった。母もその時はそれ以上聞いてこなかった。
なんとか私たちは自宅に辿り着き、その日は無事何事もなく終わった。


四十九日が過ぎたころ、曾祖母の家を引き継いだ親族と話す機会があり、母はあのときのことを話してみた。

「それ迷ってちゃう山通ったんやない? そもそも○○峠は昔崖が崩れて、今は一本道やし。」

そう言って取り合わない親族に、それ以上話すのはやめた。どうにもすっきりしないが、母はそれで納得することにした。


車はこれを機に買い替えたが、あれ以来カーナビは一度も使っていない。

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