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『トンネル』―帰りしな


「…さっきのじーさん、何やってん……」

止まった車のなかで、サトシがつぶやく。みんな思っていることだったが、誰も応えられるはずもない。放心状態だった。

しばらく沈黙が続いた。やがて、ハルが涙声でつぶやく。

「あのトンネル…なんかわからへんけど…やばい気配がいっぱいしてた…トンネル入ったときから、ずっと見られてた……車のなかに入ろうとしてて…」

それ以上は言葉にならないのか、ハルは押し黙って涙をこぼした。私はハルを抱きしめつつ、ユウとユミのほうを向く。

「トンネル出る前に、なんか言ってへんかった?なんやったん?」

「…よくわかんない。なんか、大量の黒いモヤモヤしたものが車に這い上がってきてて…」

「俺も同じの見た…なんかわからへんけど、絶対ヤバイやつや……」

青い顔をしてそう話す二人に、かける言葉が何も思いつかなかった。


いくらか時間が経ち、やっと動けるようになった私たちは、川辺へと降りた。とても飲むような気分ではない。せめて外に出て、気分を落ち着かせようとした。
みんな疲れた顔で、深いため息をついていた。

川辺に降りて、私は川に手をつけてみる。氷水のような冷たさだ。山の水というのは、どうしてこんなに冷たいのだろう。その心地よい冷たさに任せて、川の流れに手を遊ばせていると、ユミが私の横にしゃがみこんできた。

「…大丈夫?」

「うん…なんとかね…ちょっと落ち着いてきたかも」

ユミは微笑みながら、私と同じように川に手をひたす。流れる水を眺めながら、ユミがぽつりとつぶやいた。

「私ね、今まで幽霊とか超常現象とか全然信じてなかったの。あるわけないじゃん、て。でも…あるんだね、こういうこと。まだ信じられないけど…」

「…せやね。私も、ほんま信じられへん…」

「……そのわりに、あんまりビビってないように見えたけど?」

私はユミのほうを見た。ユミもこちらに視線を向ける。

「ねえ、もしかして…霊感あるんじゃないの」

なんと答えたら良いのか、わからなかった。私自身、霊感があると思ったことはない。が、説明のつかない不思議なことを経験したことはある。そういう、「説明できない何か」が存在しているのかもしれない、とは思う。かと言って、霊の姿が見えるわけではない。

「いや…そんな、霊感なんてないで。幽霊とか、なんも見えへんし…」

「帰りさ、除霊してみてよ」

「は、はあ?無理無理!そんなんできひんよ!」

「わかんないじゃん!ダメ元でもいいから!ね?」

ユミは私の手をとって懇願する。すがるようなその目にたじろいでいると、横からハルがやってきた。

「…みんなでやろう。あのトンネルの前で、祈ってみよ」

「…マジで言っとん?」

私が見上げると、まだ少し疲れた顔でハルが頷いた。

木々が風に揺られて、波のように音が広がっていく。気づけば日は傾きはじめ、あたりは夕暮れの朱に染まりつつあった。


「あんなの…先入観でみんなパニックになっただけやろ…。ふつうに考えてありえへんし…。ただの幻覚やって。」

みんなが車に乗り込んだあと、トンネルの前で祈ってみないかという話をすると、ケンはそう言って、首を横に振った。幽霊の類など一切信じていなかった彼だからそう言ったのだろうが、その声はいつになく自信なさげだ。

「…そういうやつに限ってえらいめにあうねん。ホラー映画の定番や」

意外にも、サトシは賛成してくれた。それにつられて、ユウも同意する。

「俺もやったほうがええと思う。このままじゃ呪われそうやし…」

帰りにまたあのトンネルを通ることを想像したのか、ユウはぶるりと身震いした。

「あのトンネル、帰りは迂回路があるから通らんくても帰れるし、大丈夫やろ」

ケンは車内の怯えた雰囲気をなんとかしようと、強めの口調で言う。少し意地になっていたのかもしれない。

「でも、手前までは絶対通るでしょ。何もしないで通り過ぎるなんて、落ち着かないよ。気休めでも、やっといたほうがいいと思う」

ユミが負けじと言い返す。強い視線を送るユミをルームミラー越しに見て、ケンは降参するようにため息をついた。

「わかった、わかったって!一応やるわ。でも、みんな車に乗ったままや。さっきみたいな不審者が来てもすぐ逃げれるように」

あえて「不審者」のところを強調してそう言った。みんなケンの言葉に頷く。ケンはもう一度深いため息をついて、ハンドルに手をかけた。

車が動き出し、ゆっくりと坂を上がっていく。あのトンネルに向けて。


* *  * * *

朱い夕暮れのなかで、別の世界に迷い込んだような気分だった。トンネルの奥に続く暗がりが、行きよりはるかに恐ろしく感じる。
入ったら、今度こそ危ない目にあう。そんな予感がしていた。

トンネルの前の信号は青だったが、車を停める。他の車はいない。低く響くエンジン音のなかで、ユミが少し震える声で口火を切った。

「みんなで祈ろう…さっきの霊が、安らかに成仏するように…」

それにあわせて、みんな静かに手を合わせた。私も目を閉じ、手を合わせて祈る。成仏させられるとは思わないが、ここにいるという霊たちのことを思った。

自殺したのだろうか。それとも事故か。死にきれないほど、この世に未練が残ってしまったのか。もし自分の意志と関係なくこの世に留められてしまっているとしたら、つらいの一言では言い尽くせない。
なにか恨みがあったのかもしれない。それを忘れて安らかに、など容易ではないだろう。その気持ちを慮るくらいしかできないが…。


祈っていると、横から凄まじい視線を感じた。目を閉じていてもわかる。

それは、まばたきもせずにこちらを見ている。

一気に全身に冷や汗をかいているの感じる。だめだ、目をあわせてはいけない!
それでも、こちらを見ている視線が、何かを要求しているのを強く感じる。

私は耐えきれずに目を開けてしまった。恐る恐る、首を横に向ける。


車の窓を覆い尽くすように、真っ黒な人の影のようなものが何人も立っていた。男か女かもわからないが、長い髪の隙間からぎょろりと大きな目だけがいやにはっきりと見える。いくつもの目が、私たちを凝視している。


「うわああああああああああ!!!!!!!!」

私の声に驚いてみんなが振り返る。そして、窓のそとに立つそれらに気づいて、次々に悲鳴を上げ、窓から離れようともがいた。
悲鳴と揺れでパニックのなか、なんとかケンがアクセルを踏み、迂回路へ走る。坂を上り、壁につけられた下を向いているカーブミラーを越えて、そのまま坂を下って大きな道路に出るまで一気に駆け下りた。


大きな交差点の信号で止まったとき、私の頬は、いつの間にか涙でぐしゃぐしゃになっていた。荒い呼吸のままみんなを見渡すと、みんなも同じような顔をして泣いている。

でも、全員いる。生きている。
ハル、ユミ、ユウ、サトシ、ケン…ひとりずつと視線を合わせて、私は安堵した。安心してまた泣けてきた。横に座るハルと抱きしめあって、声をあげて泣いた。


その夜、車を返却してファミレスに入った。会話もなく、みんな一様に青い顔をして、とても食事どころではない。通夜のような雰囲気だった。けれど、人の多い明るい場所にいるというだけで、なんとなく安心できる。

とりあえず注文したジュースをちびちびと飲みながら、私は脳裏に蘇るあの影のようなものの姿を必死に振り払っていた。思い出すだけで、全身が総毛立つ。

「なあ、みんな今晩うちに泊まらへん…?」

不意にユウがそう言い出した。ほとんど絞り出すような、かすれた声。ひとりになりたくないのは、みんな同じだった。

「せやな…ほなお邪魔するわ」

「むしろ頼むから来てや…」

サトシの言葉に、ユウが祈るように答える。みんなも静かに頷いて、ユウの家に泊まることにした。


ユウの家は大学から少し離れたところにある。そのためか、家賃のわりに部屋は広い。六人が一部屋に集まって寝転んでも、密着まではしないくらいの広さだ。
リビングに敷かれたカーペットに、みんなで寝転んで雑魚寝の形になった。

「電気消してや、寝られへんやんけ」

サトシがわざとふざけた口調で文句を言う。この状況で、そういうふうに振る舞える彼のメンタルを尊敬する。

「アホか!絶対無理!」

一方のユウは涙声だ。

「サトシあんたあほちゃう。みんな怖いねんからな!」

ハルもそれに続く。言い返すくらいには元気になったみたいでよかった。安堵しながら私も援護射撃をする。

「そーやそーや!平気なら帰ってどうぞ」

「そんなこと言うてへんやろ!お前らすぐ結託しよるわ」

「あーもう!豆電球にしとけばいいでしょ!」

しびれを切らしたユミの一声により、部屋の真ん中の豆電球の淡い光が灯る。ろうそくの火のような橙色が、落ち着くような心もとないような、なんとも言えない感じだ。

「なあケン、サトシ、ちょっと手つないどってや」

「なんでやねん気色悪い!」

「ふつうに嫌やわ!うっわ、手汗だらだらやし!」

「ええやん、頼むわ!俺が寝るまででええから!な!」

「もう…わかったわ。しゃーなしやで」

「あーめっちゃぬるぬるで気持ち悪い…」

「なにしてんねんあんたら……」

男子組の会話に思わず呆れる。だが、こういう日常の雰囲気を出せていることで、もう安全なのだと思うことができた。


少しの沈黙のあと、ケンが小さな声で独り言のようにつぶやく。

「あれ…なんやったんやろうな…」

あの影。長い髪の隙間から、目だけがぎょろりと大きくのぞくあの影。どんなに忘れようとしても、あの目が忘れられない。こちらをじっと見つめる、あの…

「みんな同じものを見た…それでも、まだ幻覚だと思う?」

ユミが静かな問いに、ケンは無言だった。全員が同じ幻覚を見ていた、なんてそれこそ現実的ではない。もう否定しようもなかった。

「…もうその話やめよ…」

ハルが急に寝返りをうち、こちらに背を向ける。体を小さく丸めて、両手で目を覆っている。

「え、ちょ、ハル大丈夫?」

私が尋ねると、みんなも様子を伺うように少し体を起こしてこちらを見た。

「話してると…来ちゃう、から……もうやめよ…」

震える声で、ハルがそう言う。そのとき、また強い視線を背中に感じた。

私は思わず振り返ってしまった。みんなも同じだったようで、窓のほうに視線を向ける。


カーテンの向こうに、人影が立っていた。長い髪が風に揺れている。

もう、声も出なかった。
私たちはお互いに抱き寄せあい、ぎゅっと目を閉じて窓から背を向ける。影がいなくなることだけを必死に祈った。

永遠にも思えた夜が過ぎ、朝日が差し込んできたとき、影はいなくなっていた。



それ以来、私たちの身には何も起きていない。
事故にもあっていないし、行方不明にもなっていない。大学卒業後、みんなそれぞれの道に進み、元気に過ごしている。

今でもたまに連絡をとって飲みに行くこともあるが、この話は決してしない。


きっとまた、来てしまうから。

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