DIOと呼ばれた女(4)

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仕事の間、リョータのことが頭から離れなかった。

_あなたに会いたい…_

そう言ったさざ波のような声音が、リサを見つめる星空のような瞳が、幾度も現れては消えた。あんなふうに声をかけられた回数なんて、もう覚えていないほど経験してきたのに、どうして…どうして彼だけが、こんなにも…。

「最上、もう出れるかー?」

「!!」

不意に背後から声をかけられ、リサは思わず肩をビクっとさせてしまった。振り返ると、鼻歌でも歌いだしそうなシンが立っている。荷物も持って、そわそわと落ち着きがない。
ああ、そういえば、食事に行く約束してたんだっけ…。
慌てて笑顔をつくる。

「え、ええ。今用意します。」

「おいおいー、俺だけ楽しみにしてる感じじゃんリサちゃんよー。」

「そんなわけないじゃあないですか、藤原さん。せっかくのお誘いなんで、仕事はりきって終わらせとこうと思って。」

「え?も~、調子いいこと言っちゃってさあ?」

満更でもないシンの表情で、機嫌はうまく取れたとわかる。簡単な男だ。いや、本心から言っているわけじゃあないとわかっていても、一瞬喜びを感じてしまうのが男というものなのだ。

支度をして、シンと連れ立って会社を出た。
半歩前を歩くシンを、リサはぼんやりと眺めながらついて歩く。顎をやや上に向けて、肩を開きぎみにして歩くシンの姿からは、「こんな若い女を連れて歩いている自分」を周囲に羨ましがられたいという気持ちがありありと表れていた。実際、先ほどからすれ違う数人に振り向かれたり、男女問わず羨望の目で見られたりしている。
…でも、きっと"彼"なら…………。

「リーサ」

シンがリサの顔を覗き込む。どちらかがあと一歩踏み込めば唇が触れそうな距離だった。
キスされそうなくらい近いなんて、まるで少女マンガだ。これでときめく女子は多いだろう。

「…すいません、なんだかみんなに見られてる感じが恥ずかしくて…」

リサは顔の位置はそのままに、目だけを伏せてみせた。シンの視線が唇に刺さる。
この男は、どのレベルなのだろう。用意された餌に食いつくのか、駆け引きができるのか、はたまた餌だとも気づかないのか…。
シンののどが、ごくり、と上下した。

「は、ははっ。お前ってまつ毛なっがいなー!俺ドキッとしちゃったわー。見られてるのは、リサが美人やからやろ。さ、いこいこー」

そう言って笑うシンは、慌ててリサから離れて歩き出した。
一応ここで堪えるくらいの意地はあるらしい。あのままキスしていたら、踵を返して帰るところだ。

(そう来なくちゃ、おもしろくないものね)

焦りのにじむシンの後ろで、リサの心の底のほうから、またしてもどろどろとした黒い何かの気配が這い上がってきていた。

案内されて入った店は洒落た雰囲気で、いかにも女子ウケしそうなスペインバルだ。料理もおいしいし、ワインも飲みやすく口当たりが良い。悪い印象ではなかった。

カウンター席に並んで食事をしている最中、シンはずっとこちらの様子をうかがっていた。シンがどんな言葉や態度を期待しているかなんて、火を見るよりも明らかでうんざりする。

こんな素敵なお店知ってるなんて、シンさんすごい!
こんなオシャレなとこ連れて来てもらったの初めて~
シンさん素敵です!
…こんなところだろう。

「…どう?結構リサの好みに合ってるでしょ、この店。」

「………ええ。いいお店ですね。」

笑顔を張り付けながら、リサは目も合わせずにワインを飲んだ。こんなにもおもしろくない会話など久しぶりだった。食事もそこそこに、リサはひたすら酒を飲んだ。飲まずにはいられない気分だった。
シンは駆け引きしているつもりなのだろうが、リサにしてみれば駆け引きの「か」の字もない。ただただ自分が言わせたい言葉に誘導しようとしているだけで、当然リサはそれをわかっていて言わないのでシンが勝手にじれている。このままではまずいと思ったのか、シンは少し余裕のある風を装って話しかけてきた。

「俺思うんだけど、リサと俺は同じタイプの人間だと思うんだよねー。」

「…同じタイプ?」

わずかに興味をもったリサに気をよくしたのか、シンは得意顔で続ける。

「なんかさ、"恋愛に苦労しない"っていうか…"簡単にオトせる"っていうか?とにかく異性の扱い上手い感じがするんだよね。」

「それは藤原さんのことでしょ」

「え、いやあ…うん、まあオトせなくはないよ、確かに。でも、リサだってそうでしょ?話しててわかるわ。」

「そうですかねえ…」

自信満々にうなずくシンに、もう腹立たしいとさえ思わなかった。
結局この男は、「わかっている自分」に酔っているだけだ。ほんの欠片だけを見つけて、本質をとらえた気になっている。

「さっきから、リサが言葉を選んで話してるのも気づいてたよ。」

「………。」

訳知り顔でそう言ってくるシンを放置して、さっさと帰ってしまおうか。そんな思いが浮かんできたとき、心の奥のほうから声がした。

—この男は、ボロボロにされたかっている—

(まさか…遊び相手がほしいだけよ)

—望み通りにしてやれー

(……………………)

—本当の力を、見せつけてやればいいじゃあないかー

(…そう、かもね。)

リサは口の端を持ち上げて、美しい微笑みをシンに見せた。

「私も、藤原さんのこと…わかりますよ。」

「へえ?リサから見た俺ってどんな感じ?」

シンの無邪気さが滑稽だった。これからぐずぐずにされるとも知らずに、嬉しそうに期待した目でこちらを見つめている。

「藤原さんは、いつも周りから頼られてて、女子からもすごくモテてて…。特に女の子を甘やかすタイプですよね。でもほんとは、……甘やかされたいんじゃあないですか?」

「え…い、いやいや…俺は、甘やかすほうが…」

「ほんとは『すごいね』『頑張ったね』って、よしよししてほしいんですよね?いいんですよ、思いっきり甘えて」

「リサ…」

シンの瞳が揺れている。こうなっては、あとは堕ちるだけだ。
リサは優しい声で、シンの頬をゆっくりとなでた。

「ほら、安心して…甘えてごらん、シン。」

リサがそう言い終わるやいなや、シンは堰を切ったようにリサの手を取って頬ずりした。漏れ出るため息が震えている。ずっとこうしたかった、と全身が喜びに打ち震えているようだった。

「ねえ、…もっと甘えてもいい?」

シンはリサの手に頬ずりしたまま、熱のこもった目でこちらを見つめた。リョータと同じことをしているはずなのに、あの瞳に見つめられたときのような、肌が粟立つ感覚にはなれなかった。

(でも…こんなことしかできない私には、お似合いなのかもね…)

自嘲的な気分に包まれ、なかば自棄の勢いでリサは笑って頷いてみせた。

* * * * *  * *

汗にまみれた体には、よく効いた空調が心地良い。
傍らで、シンが喜びに満ちた表情で息を切らせて言った。

「はあ、はあ…ね、俺すごいでしょ?こんなに気持ちいいの初めてじゃない?」

「…そうね。すごいわ、シン。」

「へへ、俺たち相性最高なんだろうね!はあ、もうリサ好きい。リサぁ」

べとついた体で抱き着いてくるシンの頭をなでてやりながら、リサはぼんやりと天井を眺めていた。どうしてこういうところの照明は、あんなに禍々しい色をしているんだろう。あれで興奮するのだろうか?

「リサも汗だくだね…お風呂入れてくるから、待ってて」

「ん…ありがとう」

リサの唇に自分の唇を一瞬押し当て、シンは機嫌よく鼻歌を歌いながらバスルームのほうへ向かって行った。最中シンがずっと抱き着いてきたものだから、すっかり全身がシンの汗でベトベトして気持ち悪い。
シンとの行為は、リサにとってスポーツ感覚でしかなかった。体を動かした快感と疲労感はあっても、イツキとの溺れるような、何も考えずに没頭できるそれとはまるで別物だ。

(あいつ、ああ見えてやっぱり上手かったのね)

広いベッドに体を投げ出しているリサのもとに、シンが戻ってきた。相変わらず何の曲かわからない鼻歌を歌っている。そのまま横抱きにかかえあげられたが、リサはもう為すがままにすることにした。

腕に抱えられたまま湯舟につかり、ぎゅうっと抱きしめるシンの腕のなかで、リサは初めて行為後の虚しさというものがわかった気がした。特に愛情も愛着もない相手とでも別段抵抗感や嫌悪感は感じなかったし、「愛がないと気持ち良くない」なんて思ったことがなかった。

それなのに、今回は疲労感も手伝って、やけに虚しい気分だ。
はやくこの男から離れたい。

リョータとの記憶が、この男のせいで汚れたような気がする。そして、こんな行為をしている自分にも、今まで以上に嫌気がさした。何やってるんだ。こんな自分じゃあ、恥ずかしくてとてもあのひとには会えない。

午前25時、嫌味な色のライトの下で、リサは生まれて初めて"恥"を覚えた。

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