食べるのが苦手だった頃の話

小さい頃、特に肉を食べた日には必ず決まって同じ夢をみていた。


小さい頃、私は「食べる」という行為自体が苦手だった。
動物も植物も自然に存在しているうちはあんなに愛らしいのに、それを管理し、殺し、そして食べるということが、ひどく恐ろしくておぞましいことのように思えて仕方なかった。

特にそれを強く感じるようになったのは、小学生で行った養鶏場見学で屠殺のことを初めて知ってからだ。
食べるために育て殺す、という行いに幼い私は恐れおののいた。
命が終わる瞬間のにわとりの瞳が、私の心に問いかけてきたように感じた。

"この命を奪って、生きながらえるだけの価値がお前にあるのか"

"なぜお前という動物は命を奪われないのだ、この私のように"

その瞳は、静かに光の届かぬ死の深淵に落ちていった。私は瞬きもせずに命の灯火が消えていく瞳をずっと見つめていた。

その瞳には見覚えがあった。

見学へ行く数年前、祖父が亡くなったときだ。最期のときの彼も、同じ瞳をしていた。
短くなったろうそくの火が、徐々に小さくなっていくような…あるいは、貝殻の片割れが波に揺られながら海の底へ沈むような、そんな瞳だった。
命が消えるということに、ひとも動植物も差はないと、今でも思う。


その見学から帰ってしばらくは、とても肉を食べるような気分ではなかった。
気を遣った家族は、必然的に魚料理ばかりを用意するようになる。が、レパートリーが尽きたのか、はたまた何の意図もなかったのか、ある日鯛の姿煮が食卓に並べられた。

席に付き合掌した手のひらごしに、皿の上から私を見つめる鯛と目が合った。

その瞬間、言い表せぬ恐怖が私の身を包んだ。

「食べることは命を奪うこと」と実感してしまった。
そこに感謝を感じるより先に、恐ろしさがまさってしまったのだ。

私は泣きじゃくって、その姿煮をついぞ食べられなかった。
それ以降、肉を出されても魚を出されても、はては野菜すらも口に入れることに抵抗を感じるようになってしまった。

もともと貧乏で空腹には慣れていた。
水とサプリメントだけで数日過ごしても平気だった。一生こうやって過ごしていくのだと、決意すらしていた。

けれど、当然飢えというものは容赦なく押し寄せる。

5日目あたりで手足が痙攣しだした。
テーブルはチョコレートに、せっけんはチーズに、自分の手はパンのように見えた。目につくものすべてが、食べられるものでできているかのような錯覚を覚えた。ヘンゼルとグレーテルもこんな気持ちだったのかもしれない。
あの頃の私は、飢餓で目を血走らせていたことだろう。

ついに耐えかねた私は、冷蔵庫に入っていた豚肉を焼いて食べた。

塩で味付けしただけのその肉を口に含んだ瞬間、なんの葛藤もなく「おいしい」と感じた。貪るように、最後には手づかみで夢中で食べていた。

食べ終わったとき、とてつもない罪悪感と満腹感で、頭がどうにかなりそうだった。
肉を食べた私を見て、母は「やっとまともに戻った」と喜んでいたけれど、それがまた恐ろしかった。


その夜、夢をみた。

私は車椅子に乗せらている。体の自由がきかず、だるい感じがする。
立ち上がろうとするも、全く力が入らない。
見下ろしてみると、四肢がなかった。痛みはないが、切断面を確認することすらかなわない。
身動きの取れないまま、車椅子は勝手に進み、なにやらショーケースの前に着いた。スーパーの精肉コーナーのようで、肉や臓物が並んでいる。
商品札を見なくてももうわかった。あれは、全部私の…。
ショーケースの前に集まったひとたちが、次々と肉や臓物を買っていく。「やめて!」そう叫びたかったけれど、舌もなくなっていた。

車椅子はまた進み、テーブルの前に移動した。
目の前に豪華な料理がいくつも並ぶ。肉、魚、野菜、肉、肉…。

あれも私だ。私の体…。

私の口元に、肉が差し出された。

「食べなさい」

誰かの声がして、私の口をこじ開けようとするように、ぐいぐいと肉を押し付けてくる。私が拒めば拒むほど、その力は強くなった。

「食べなさい!」

ついに私はそれに屈して口を開けてしまう。ねじ込まれた肉はやわらかく、とろけるようにおいしかった。泣きながらその肉を咀嚼する。

「おいしい?」

誰かのその問いに、私は涙もそのままにこくりと頷いた。


夢から目覚めたとき、涙で顔がぐしゃぐしゃに濡れていた。覗き込む母の背から降る蛍光灯の光が目に刺さる。
母になだめられながら、なんとか眠りについた。

その日以来、私はまた食べることができるようになった。
食べた日はあの夢をみたが、だんだんとみなくなっていった。


久しぶりにあの夢をみた。

今も原型の残っている食べ物は少し苦手だ。
姿揚げや豚足や手羽先というような…ああいいうもの。刺し身の尾頭付きなど、目があるものは特に心にくる。

けれど、別に食べられないわけではない。もちろんおいしいと感じる。

「うっ」と感じることも、「おいしい」と感じることも私は否定しないようになった。どちらも噛み締めながら食べている。
理性として罪悪感や抵抗を感じていても、食べることに幸福を覚えるのは動物として自然なこととも思うから。たとえ心に刺さるような方法でその食材が用意されているとしても、「おいしい」と感じるのは事実だ。

できることなら、なんの抵抗もなくおいしさを享受したい。けれどそれは、狩猟をやめ畜産を選んだ人類のひとりとして、甘んじて受けるべき心の痛みなのかもしれないと思う。
ベジーやビーガンにはなれないだろう。1週間と持たない自信がある。


「感謝して食べればよい」という結論で結んでもいいのだけれど、なんとなくしっくりこない気もする。(もちろん食事に際して感謝の気持ちはある)
もし仮に私が何者かに食べられるとして、そのときに「ありがたく食べるね」と言われても釈然としない。感謝されようとされまいと、殺されているわけだし。

結局のところ、食べるためだけに生き物を育て殺すという残虐性を、食事の幸福とともに噛みしめるしか、私にはできそうにない。


そんな絡まった思考で、私は食事のたびに「おいしい」と微笑むのだろう。

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