『悪は存在しない』二回目のネタバレ映画評 2024/05/07開始
あり得るストーリー
確かに、花は、親子の鹿に襲われ、死んでしまっていたというストーリーは、分かりやすい。
そして、青い服を着た花が左にいて、背筋を伸ばして、意識的に動かないように座っている一方で、右側に鹿がいるという構図。きっと、自然の中で育ってきて、母親、父親から自然についてのエリート教育を受けていた花であれば、鹿を刺激しないために、絶対に動いてはダメだということは聞いているはずだ。
黄泉の国にいるみたいな描写だった。
左に顔で、左腹に銃弾で貫かれた赤い血がにじむ鹿。
ナウシカのように、青い帽子を脱ぎ、鹿に触れようとする花。
現実はナウシカの世界ではない。そんなに牧歌的なものではない。
自然はもっと残酷で、鋭利で、暴力的だ。
そして、花は襲われてしまう。
自然の美しさとその裏側に潜む暴力性も、この映画の見どころだ。
花が死んでしまった姿を見て、やり場のない怒りを、高橋に向けて、首を絞め、窒息死させてしまう。
悪の根源は、高橋ではないにも関わらずだ。
悪の水の連鎖。社長が断罪されるのではなく、高橋が命を絶ってしまうことの絶望。そして、社長もコンサル会社の男性も悪いわけではなく、補助金という上流の水に行き着く。でも、補助金を欲したのは誰だったんだろうか。
上流と下流という比喩はとても分かりやすいが、フーコーが言ったように、単一の悪が存在しているわけではない。構造というものが悪を生み出している。
悪と言えば、ハンナアーレントだ。ハンナアーレントなら、この映画をどう観るのだろうか?
一方で、自然の中には悪も善もない。ただ、生存と繁殖があるだけだ。生きるのが善でもないし、死ぬのが悪でもない。単に、生と死がそこにあるだけなんだ。
主人公「巧」のいびつさ
主人公巧のいびつさは感じる。抑揚のない話し方は横に置いておいたとしても、毎回、花ちゃんの迎えに遅れたり、花ちゃんが遊ぼうとしても何も反応しなかったり(無垢な存在として描かれている花ちゃんが巧の背中を蹴るくらいひどいことをしている)、少し変だ。そういえば、何を描いていたのだろうか。花ちゃんは巧にチョコレートをあげていたのだろうか。
「悪は存在しない」の意味
自由意志の問題に行き着く。もっと現実的な世界に置き換えても、生きていくためにはお金を稼がなければいけない。でも、それは本当なのだろうか? 悪は存在しているのではないか?
補助金という名の社会に蔓延る水が、芸能事務所の社長を汚染し、さらに下流にいる事務所の社員を傷つけ、さらに町を汚染していく。誰もが身近な人のために動き、その先にある下流のことは考えない。
私もその構造から逃れられない。想像力が及んでいないこともたくさんある。
自然界から見たら、何もかもが普通で、自然なのだ。
悪が存在するのかどうかは、あくまでも人の価値観のフィルターを通しているだけだ。
そもそも「手負い」とはどういう意味だろうか?
私たちはみんな手負いの鹿だ。傷を負っているんだ。まずはそこから出発すべきなんではないか。上流から変えることはほとんど不可能だ。手っ取り早い打ち手に近付かず、日々の生活をしっかり行い、自分自身の傷を治癒していくこと。周りの人の傷を治癒していくこと。それが大事だと感じた。
以上
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