5分で分かるアヘン戦争

中華帝国の落日と近代ヨーロッパの挑戦


17世紀なかば、衰退した明朝にかわって中国全土を支配したのは満州族を祖とする清朝だった。征服王朝である清朝ははじめ、 民衆からはげしい抵抗をうけたが、歴代の君主が英明だったこともあり、やがて中華帝国の衣鉢を継ぐ正統な王朝としてうけいれられた。 なかでも名君と謳われた乾隆帝は、西モンゴル、新彊、台湾をつぎつぎと服属させ、中国史上最大の領土を形成するまでになった。

乾隆帝


いっぽう、そのころヨーロッパでは産業革命が起こり、近代資本主義が勃興しつつあった。当時、その先頭に立っていたのがイギリスである。綿織物業を基幹産業として急速に発展していたイギリスだったが、そこには早くも資本主義に特有の問題が発生していた。それは国内市場が狭く、次々と生産される商品の販売先がみつからないという問題であった。そこで、すでにインドを植民地としていたイギリスが目をつけたのが、巨大な中国市場である。

産業革命時代のイギリス

しかし、そうしたイギリスの前に立ちはだかったのが、中国の朝貢貿易という独特の貿易システムであった。中国には、伝統的に中国こそ 世界の中心であり、周辺の国々はすべて中国の属領である、とする中華思想がある。この中華思想によれば、外国の国王はみな中国皇帝の臣下 であるから、定期的に贈り物をもって中国皇帝に朝貢しなければならない、これに対して中国皇帝は、見返りとしてそれ以上の品物を「下賜」 するもの、とされている。これがすなわち朝貢貿易である。

とはいえ当時、民間人同士の貿易がまったく行われていなかったわけではない。清朝は原則として海禁政策をとっていたが、広州一港に限り、 外国商人との貿易を認めていた。そのため外国商人は、この広州貿易を通して商取り引きを行うことができたのである。だが、これも清朝政府に いわせれば、朝貢貿易の例外的な一形式に過ぎないものであった。その証拠にこの広州貿易には、ひじょうに多くの制約が設けられていた。

広州湾の貿易船


たとえば、外国商人は、清朝政府が認めた行商とだけしか取引はできない。広州には、一年のうち夏から初冬にかけての4ヵ月しか居住する ことはできない。それも広州の一角に設けられた特別居住区から一歩も出てはならない。婦女子を連れてきてはならない、といった制約である。 しかし、これでは外国商人にとって、不便でしようがない。しかも、当時、イギリスが中国から買っていたのは、主に茶と絹であったが、それに対して イギリスが 中国に持ち込んだのは、本国産の毛織物の他、時計、玩具、インド産の綿花などであった。

だが、これらの品物だけでは、十分に中国製品を買うことができなかったし、それに加えてイギリス本国における茶の消費量は、うなぎのぼり に増えるいっぽうだった。そのため茶の支払いに当てる 銀が、大量に中国に流出し、イギリスは大幅な貿易赤字に悩むこととなった。

ロンドンの喫茶店


イギリスのアヘン貿易


困ったイギリスは現状を打破するため1793年、マカートニーを北京に派遣した。不便な広州貿易を撤廃し、自由貿易を原則とする市場開放要求をもって交渉を試みるためである。ところが、貿易といえば伝統的な朝貢貿易しか認めない清朝政府は、イギリスの要求を頭ごなしに拒否。マカートニーの要求は一顧だにされなかった。

「天朝の産物は豊富であり、これといってないものはなく、外国の産物は中国にとって必需品ではない。ただ、天朝に産する茶、陶磁器、絹などは西洋各国の必需品である。だから、特別に広東において貿易をゆるし、天朝の余沢にうるおわしめているのである」
というのが清朝側の言い分であった。

乾隆帝に謁見するマカートニー


その後、一八一六年にはアマーストを団長とする使節を再び北京に派遣したが、今度は謁見すら許されず、追い返されるという始末だった。

だが、貿易赤字という差し迫った問題を抱えるイギリスは、そのまま引き下がるわけにはいかない。そこでイギリスは、ひそかに奸計をめぐらした。それはインド産アヘンを中国に輸出して茶の代金にあてるという方法であった。

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